旅のきっかけ
 決意の告白

 山になった焼き鳥の串と、上司の顔を見比べながら、私がやっとの思いで本当の気持ちを告げたのは、店にはいってから1時間半もたってからのことだった。

「で、それはどの程度の気持ちなの?『実現したらいいナ』っていう感じ?」
 上司は眉をハの字にして、悪い冗談を聞いたあとのような、不思議な笑みを浮かべている。私は思いきって最後の言葉を吐き出した。

「いいえもう、ほとんど決まりです。来年の2月に出発しようと思うんですよね」
 ときは1998年10月上旬。場所は職場からほど近い居酒屋で。私が上司に世界一周の意志を打ち明けた瞬間だった。


 仕事について

 私が6年勤めた会社・メタテクノは、神田にある100人くらいのソフトハウスだった。
 理想的な会社のありかた、仕事のありかた、人間関係のありかたということを、口に出してもはずかしくない環境。お酒を飲んだときにはちょっと青春ドラマになってしまいそうなくらいクサい話もできる環境。そんな社風の会社だった。

 そんな恵まれた環境で、就職して、勉強して、私は順調にプログラマとして成長していく・・・はずだった。

 けれども。ある日ふと気づくと、私の肩書きには「落ちこぼれ」という文字がついていた。
 開発じゃないことはそこそこできるのに、本業以外ばかりで力を発揮して、これといって得意分野のないプログラマ。後輩の面倒も見れなくていつまでも先輩のお荷物になっているぼけナスプログラマ。それが私なのだった。

 同業の知人たちに悩みを打ち明けると、「それは仕事の内容が高度だから」とか、「文系のひとにその開発は難しすぎる」などと慰めたり励ましたりしてくれた。
 たしかにそれはそうだったかもしれない。私の職場は特にさまざまな仕事が入りみだれ、ネットワークの仕事をしたと思ったら次にプリンタの開発が来て、ときたまマニュアルをつくるという具合で、持たなければならない知識も多岐に及んだ。

 でも、文系出身の同僚たちがみんなそれぞれに成長し、後輩を指導し、それぞれに関わったプロジェクトの中でリーダー的立場に立っていく中で、誰から言われたというわけでもないけれど、私は自分だけがなんだか伸びてないという事実に、やはり気づかないわけにいかなかった。
 書類の意味がわからなくて先輩をいらだたせてしまう瞬間。客先との会議でボケた発言をして担当のひとを困らせてしまう瞬間。そういう瞬間瞬間のなかで、私はどんどん自分がキライになっていってしまった。

 初めこそ「勉強すれば立派なプログラマになれる」と思っていたけれど、新しい技術について書かれた雑誌をひらいていても私の頭は頑として受けつけなかった。
 もう少し、もう少し。
 もう少し頑張れば何か見えるかも。
 あとの3年はそんな意地とあきらめの中間でずっと行ったり来たりしていたような気がする。けれど、はじめは半年に一度くらいだったスランプは、やがて4ヶ月に一度になり、3ヶ月に一度になり、サイクルはだんだん短くなっていった。そうして、
「いま切り抜けても、この苦しみはまたすぐにやってくるんだ。この仕事と闘いつづけている限り、この苦しみは続くんだ」
・・・そう思ったとき、私の頭には「退職」という2文字が浮かんだのだった。


 旅にハマった97年

 退職を決める前の2年くらい、私は次から次へと新しい趣味に手を出していた。最初の年はスノボで、その年の夏にはバイクだった。
 今から考えるとその頃の私の行状はかなり極端で、スノボは始めた年のひと冬の間に30日近く滑りに行っていた。バイクに興味を持ったときは、出先の近くのバイク屋で250CCのバイクに一目惚れ。免許もないのに手付けを払い、それからあわてて免許をとりに走った。私は多分、どこかちょっとコワれかけていたのかもしれない。

 そうして短期のアジア旅行にハマったのが1997年だった。
 以前私は「海外旅行なんて2,3年に1回くらいすれば十分」と思っていた。それが、後輩のひとりが、春にアジアに旅行し、夏休みにはハワイに出かけていたのを見て、「海外旅行って1年に何回もしてもいいんだ!」と気づいたのだった。スノボは毎週行ってもいいのに、海外旅行は贅沢だと思っていたのだから不思議なものだ。

 そう思って旅行雑誌など見てみると、1回のスノボツアーの値段そこそこの航空券があるわあるわ。そこで最初は、大学時代にバイト先で知り合ったフィリピン人夫妻の家を訪ねてみることにした。この旅は知人宅に泊まったこともあって治安について心配する必要もなく、また予算も考えたより大幅に安くあがった。そのため急に欲張りになって、翌年妹と、今度は、キャンペーン料金のシンガポール行きに飛びついた。好奇心の強い叔母と香港にも行ってみた。あっという間にマイレージがたまり、タイ行きのチケットが手にはいったので後輩と連れだって行ってみた。
 ひとつひとつの旅は全力で駆け回り、存分に満喫したけれど、十分という気はしなかった。もっと長い旅がしたくなった。もっとチャレンジもしてみたくなった。

 学生の頃、自分はひとり旅はおろか、一人暮らしすら絶対できないと思っていた。社会人になって一人暮らしはできるようになったけれど、ひとり旅はできない。私はあいかわらずそう思っていた。
 ひとりで仕事のジレンマをうち破れない自分。ひとりで旅もできない自分。ある頃を境にこの二つは自分のなかで重なりはじめた。自分の頭の中でその両者を結びつけた理由はわからない。ただ、次第に、今までの自分のやりかたを守るためのガードを、ここでうち破らなければならないと、思うようになっていったのだった。


 父からのメール

 夏の終わりのことだった。
 実家に戻ったとき、父のマシンにうっかり残した友人宛のメールがきっかけで、私はいまの自分の状態について、両親に洗いざらい打ち明けてしまった。いままでのこと、いま苦しんでいることについて。いま自分を整理しなければこのまま不満な日常に埋没してしまいそうだと思っていることについて。
 ・・・そして、ひそかに考えていた、長い旅の計画について。

 翌日実家からもどってから、父と私の長い文通が始まった。
 20代後半の娘が、意を決して親に打ち明けることといえばだいたい結婚と相場は決まっている。それなのにこの娘は、この不況のさなかに仕事を辞めて世界一周をしたいと言いだすのだ。私は大反対とか、やめてくれとか、1ヶ月だけにすればとか、そういうことを言われるのを想像していた。勘当とか、激怒とか、哀願とか、そういう修羅場も覚悟していた。

 たぶん父だって動揺していたと思う。
 ただ、そういう動揺を父は決して私に見せることはなかった。
「お父さんも仕事であちこちに行ったけど、遠い遠い外国の縁もゆかりもない場所を、訪ねるのもそこで暮らすのも今でもとてもしんどいことだと思っている。それなのに世界一周なんて、お父さんの一番おそれていた娘になったね。
 でも人間は何をやるのも自由だよ。だから決めたことならお父さん反対はしない。それをすることでひとつの結果が得られると思うなら、行って満足行くまで見ておいで。ただ、必ず元気で帰って来ると約束してほしい」
 父が私に承諾をくれた翌日、私は上司に退職の意志を告げた。


 一年に決めたワケ

 1年と決めたのは、最後のケジメをつけたいと考えたからだったと思う。
 私のこの旅は、お世辞にも積極的な意味を持っているとは言えない。ただ毎日起こるいろいろな出来事に自分を変えるような力を期待している・・・それはひところ流行った言葉でいうなら、大学生とかの「モラトリアム」みたいなものだ。見聞を広めるといえば聞こえはいいけれど、より正しく言うと「旅に逃げ込む」というようなことだと、私も何となく気づいていた。
 ただ仕事に疲れて旅に逃げ込むのだとしても、ずっと逃げっぱなしではいけない。それでは後ろ向きに仕事を続けているのとなにも変わらない。

 かならず何か得てこよう。
 私の旅はいまのところお金にしかしばられていなくて、お金が続く限りいくらでも続けてかまわないわけだけれど、「必ず元気で帰ってきてほしい。」そう言った父との約束もあった。
 両親のガマンの限界も多分そのくらいのように思われた。1年あればかなりのものが見れそうにも思われた。1年も先の仕事の心配はしなくてもいいような気もしたし、逆に1年先には景気も上向いていそうにも思われた。どれも勝手な思いこみに過ぎない想像だけれど、たまっていたお金もちょうどそのぐらいの旅にふさわしいように思われた。
 私には、心の期限が必要だった。私はそれを1年と定めた。


 どうして世界一周なのか

 会社を辞めようかな、そのあと何しようかな。長旅でもしようかな。行くならどこだろう。初めの頃はそんなふうに考えていた。
 私の頭にはふたつのパターンがあった。
 ひとつは「同じところにずっと」というパターン。もうひとつは「違うところをずっと」というパターン。
 同じところにずっと、というのはそれはそれでとても魅力的だった。近所のひとと仲良くなったり、語学を修得したり、その場での生活を築く。
 でもせっかくの長い自由な日々。これは人生で一番長い休みになるかもしれない。これまでと場所を変えただけのようなことにはしたくなかった。また、自分が気に入りそうな場所がどこにあるのかもはっきりわからなかったし、旅の本を読みあさって行きたいところも山ほどあった。

 この際だから「違うところをずっと」で行こうかな。ずっと移動しつづけたって、全ての土地に足を踏み入れることなんてできないけれど、どうせなら行けるところまで行ってみよう。「移動」ということにこだわるわけでなく、訪れた国の数を勲章にしようというわけではないけれど、自分がここに居て快適、と思う場所を増やしてみたい。気に入った場所が途中で見つかったら、そこで残った期間を過ごすのでもいいし。とにかくこの1年は、私の自由に使っていいんだから。

 そんな風にして、私の旅の方向は決まった。西へ西へと進む旅。地球の裏側を通る旅。たどりつく場所を定めない旅。・・・それはとっても粋に思えて、とりあえずこの目的地のない旅を、私は世界一周と呼ぶことにした。


 獅子座流星群の夜

 そんなある日、計画を根底からひっくり返すできごとが起こった。
 上司に退職を告げて一週間。私の気持ちが変わらないのを見て、話はついに上層部に至ったのだ。内線の呼び出しで会議室にはいるとそこには部長と総務部長が待っていた。

 「旅に出たいそうだけど、それは何週間とかそういうんじゃダメなのかね?
 旅に出て成長したいというが、人間の成長なんてのは旅に出てどうこうというもんじゃない。ひととひとの間で日々もまれてこそ、ひとは成長するってもんなんだ。
 第一、採用からいままで同じ職場で働いてきた娘をそんなどことも知れない異国にやるのは忍びないんだよ。」

 総務部長の一言一言が胸に染み、自分がとてもバカなことを計画しているような気がしてきた。何よりおどろいたのは二人の部長が、私の想像しているよりもずっと私を買ってくれていたことだった。

 総務部長は私にひとつの提案を持ちかけた。それは、開発がどうしてもダメというなら、総務で採用と研修講師として働かないかというものだった。その仕事は数年前に私が受け持って、満足できた数少ないプロジェクトのひとつだった。
 私は動揺した。
 このままこの環境で、あたらしい仕事を始める・・・。同僚と別れなくてもいいし、路頭に迷わなくてもいいし、旅先で不安な思いをしたり危ない目にあったりしなくてもいい人生。

 その日面接が終わってからも私のこころは揺れていた。
 そうして、考えても結果が出ないので、私が入社3年目の春に、新人研修講師として教えた後輩を誘って飲みに行くことにしたのだった。私が研修や採用でやっていけるかどうか、実際に私から教えられたことのあるひとに聞いてみたかったのだ。

「それってそんなに魅力的な提案ですか?」
 私が退職のことをうち明けると、後輩は言った。
「多分研修講師も採用も、やれば絶対できると思うし、もし本当に『やりたい』ならそれは意味があるかもしれないけど・・・、でもいずれまた疑問を感じるときがくるんじゃないですか?逆に『世界一周』って井出さんにとってその程度のものなのかな。誰でも決心できることじゃないし、いつでも出発できるものじゃないし。今がチャンスのようにも思えるけど」
 そうだ。私はまもなく29才の誕生日を迎えようとしていて、これから配属が変わればその仕事をひととおりこなせるようになるのにまた1、2年。ふたたび旅に出たくなったら、そのとき決心することができるんだろうか?

 折しも獅子座流星群の夜だった。
 家では妹が私の帰りを待っていて、私たちは玄関先で並んで夜空を見上げた。部課長との打ち合わせについて告げると妹は「どうすんの?」とさりげなさそうに尋ねた。

 キーンと冷たい張りつめた空気のなかで私は答えた。
「ウン。・・・・やっぱり行くよ」
 流れ星が東の空をすぅっと横切って行った。
「仕事ができない」という理由よりも、旅に出るからという理由が、強く私を突き動かしはじめていた。


 退社の日

 辞める決意を告げる前、「私の数多い同期のうち辞める可能性があるひとは?」と聞かれたら、ほとんどのひとが私の名を、最後の3人くらいの中に含めただろう。
 だって、会社に入った頃、私は「社長になるまでは何十年でもねばる!」って豪語していたのだから。
 仕事はともかくとして、私は社内の行事にめちゃくちゃ出席率がよかったし、仕事以外ではなんだか知らないけどそれなりに活躍していた。たまにマンガに出てくるお祭りOLの見本みたいな生活だったかも、と振り返ればそんな気さえする。
 その私が、いまの呑気で平和な生活を捨ててどうして?みんなは驚きを隠さなかった。
 でも、結局よしなよと止めたひとはいなかったようにも思う。「やめるの?ハイサヨナラ」っていう感じでは決してなかったけれど、私が新しい道を選ぶなら、心ゆくまでやらせたい、誰もがそう思ってくれたようだった。

 退職直前の同僚のライブでは「世界へ旅立つ親友のために」とオリジナル曲を歌ってもらった。スキーサークルの送別会では生まれて初めて胴上げというものを経験してしまった。送別会続きで、退職の週は、ほとんど食費がかからなかった。
 会社を出て、旅立つという選択。その結末を誰もが見たいと思ってくれている。私は確信した。私はそれを見届けて、みんなに伝えなくちゃいけないんだ。
 お世話になった先輩・後輩、上司・同僚から予想外に華々しく送られ、年明け間もなく私は会社をあとにした。


 私が旅に望むこと

「人間っていうのは、ひととひとの間にいて、もまれてこそ成長するってもんなんだ」

 総務部長の言葉は今もあたまの片隅にある。それはたしかにそうなのだ。
 私がこの6年かけてじわじわと積んできたものがそれだった。あらたに取り組むできごとひとつひとつに、目標を置いて克服する。成長したいステップを見据えて一段ずつ階段をのぼる。そんな成長の仕方。
 仕事と取り組むことをおぼえ、全力をつくすということを覚え、それでも至らなくて謝るということも覚えた。でも私が積んだ経験は私の人生の礎になることはなかった。これ以上なにを積んだらいいのか、何を目指したらいいのかわからなかった。

 だから私はもうひとつの方法を選ぶことにしたのだ。
 当てずっぽうにおきる出来事に対処していって、なんだかわからない成長をとげる。
 その成長は、それとは気づかないかもしれない。単に処世術というか、ちょっと誠意のないやり方、ずるいやり方を覚えるだけの、成長とも言えない成長かもしれない。
 でもいま私はこの世界から、思ってもみなかったやり方で揺さぶりをかけてもらいたかった。他力本願かもしれないけれど、出口がわからなくなってしまった今、もうそうするよりほかないと思っていた。

 一年経って自分がどうかわっているのか。いままで、駅の自動改札の、目前まできてから定期入れをさがす女のひとや、エスカレーターの乗り場で立ちふさがる高校生、起こったできごとに片っ端から不満を抱いて愚痴をこぼすひと、自分の幸せばかり考えてひとの気持ちを考えないひと、そういうことのひとつひとつに腹を立てていたちっぽけな自分。でもそういうできごとが、きっと世界のある場所では別に怒るほどのことでもなくて、まあいっかと流さざるを得ない場面も多々あるだろう。
 幾多の場所や環境を訪れたあとに自分が「やっぱり怒るべきだ」と思っているのか、それとも「そんなことはどっちでもいいことなんだ」って思っているのか、どう変わっていくのかわからないからこそその変化を見届けたい。
 新しいやり方を見て新しい生き方を選ぶ。それを成長と呼んでもいいんじゃないだろうか。

 多分私はとてもラッキーなのだと思う。誰からも反対されず、励まされ、仕事やお金の工面もついて、親からも許されてこんな旅を始められるひとはそうたくさんはいない。私はこのチャンスを十分に活かし、楽しみ、そうして送り出してくれたひとたちに伝えたい。私が旅の先々で訪ねた場所、出会ったひと、学んだことについて。
 また、このページを読んでくれる誰かとこの旅を一緒に経験し、そのひとがこれからの生き方を選ぶひとつのヒントになればと、旅立ちを前に今、ちょっとだけ思っている。

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