伊藤家に別れを告げて
   話せば長くなるんだけれど・・・。
 これまで私はいくつかの場所で、現地のお宅にお邪魔していた。でもある国のある日本人家庭に泊めていただいたとき、ちょっとイヤな経験があったので、その後私はちょっとした「お宅訪問恐怖症」になっていた。

 その「ある日本人家庭」のパパさんと私が知り合ったのは、どこかのチャットでのことだった。チャットで話した感じではとってもフランクそうなひとで、彼の住んでる国に訪問の予定があるって言ったら「こっちに来るときはぜひおいで。子供がたくさんいるからうるさいかもしれないけど」と言って誘っていただいた。子供なんていうのは人見知りするよりはうるさいぐらいが付き合いやすいもんなんで、「ありがとうございますぜひ」といってお言葉に甘えてお邪魔してみたんだ。

 そしたら、実際はお子さんたちはすごい人見知りで・・・というか無関心なひとたちで、しかも私は家に入ってもお子さんたちに紹介してもらえるわけでもなし、朝起きて挨拶しても「誰だろ?」みたいな感じだった。それで肝心のパパはというと「家のようにくつろいでください」といったきり急に決まった飲み会に行ってしまい、翌日はやっぱり急に決まったゴルフで私の世話は奥さんにまかせっぱなし。しかも奥さんには、私とどういう風に知り合ったかを、話してくれてもいなかった。

 他人の家でくつろがせてもらうにも、一応やっぱりお膳立てっていうものが要るもんだ、と思うのは私のわがままなんだろうか。お子さんたちの人見知りはしょうがないし、彼らの名前ももう知っていた。けど、できればこちらからもきちんと自己紹介したかったし、してもらいたいと思った。それに、いくら童顔とはいえ十や二十の小娘じゃあるまいし、旦那がどこの馬の骨とも知れない女性を連れてきたら、奥さんとしては気になるものなんじゃないだろうか。一泊でも恩のあるひとだからあんまり悪くはいいたくないけど、そのぐらいきちんと言っておいてもらえなかったことに私はちょっと耐えられなくなった。それで私は「ビザをとる予定があるから」と、急ぎでない用事を急に思い出して彼の家から逃げ出したのだった。それ以来、私はよそのお宅訪問がちょっとコワくなっていた。

* * *

 だから、ハの字眉の上司・藤島さん旅のきっかけ参照)から紹介してもらって、伊藤さんのお宅にお邪魔しようと決めたあとも、なんとなく、また同じような感じだったらどうしよっかなーなんて思って、最初「2、3日お邪魔したら失礼します」なんて言っていたんだ。けど伊藤さんのお宅は、はじめからなんか、全然違った。

 私が最初におうちにお邪魔したとき、お子さんたちはちょっとはしゃぐくらいの様子で出てきて、自分から自己紹介してくれた。ゆうじくんといさひとくんは年が近いせいか、やんちゃでケンカが絶えないんだけど、それもまた元気でほほえましく、末っ子の玲美ちゃんは最近急に洒落っけが出てきたとかで、放っておくと1日に5回でも6回でも着替えをし、ママの靴を玄関じゅうに並べてしまうところも可愛らしかった。

 伊藤さんは、藤島さんのいとこで、開拓者のお父さんに連れられて小さい頃に南米のパラグアイに移住して青春時代を送り、その後日本での大学院生活やJICAの研修機関での仕事などを経て、現在はアンカラでやはりJICAの仕事をされてるってことだった。


末っ子の玲美ちゃん
 台湾出身の奥さんとはパラグアイの移住先で知り合って結婚され、そんな背景があって、伊藤さんちは公用語は日本語だけど、ママとパパの間ではスペイン語の会話をすることもあるし、ママが長男のゆうじくん(6年生)と話をするときは台湾語、次男のいさひとくん(3年生)と、末っ子の玲美ちゃん(4才)におこごとを言うときはトルコ語、お友達のネジミさんとお喋りするときは英語という、目をパチクリしてしまうような環境だった。そんなインターナショナル・ファミリーのわりに気取ったところが全然なかったのが、伊藤家の居心地のよかった理由のひとつだったかもしれない。

 ママは気さくでほがらかなひとで、毎日のように私をどこかへ連れだしてくれ、市内の見所やバーゲンや、激安のジュエリーやさんなんかにも連れてってくれた。伊藤さんは仕事から帰ってくると、自慢のチャランゴという楽器で南米の音楽を聞かせてくれ、玲美ちゃんがそれにあわせて踊ってみせてくれるのも愉快だった。ママのつくる中華料理やパパの実家でつくられた味噌のみそ汁はほんとにおいしくて心がやすらいだ。私がいる間にやってきた次のお客さん・遠藤さんなんかとも意気投合して、それはそれは楽しい日々だった。

 おうちはアンカラ市内を望む高台にあり、トルコ風に飾った居間と大きな応接間、子供部屋が2個、書斎にキッチンに倉庫に洗濯室にパパとママの部屋、トイレは合計で3個という広い広いマンションで、こんな素敵なところには、この旅始まって以来泊まったことないというぐらいキレイだった。

 お邪魔してる間、私はJICAのエッセイコンクールで優秀賞をとってトルコ旅行を獲得した高校生たちをもてなしたりとか、はしゃぎすぎるいさくんたちを注意したりとか、本当に家族のように振る舞わせてもらっていたから、「もうちょっとゆっくりしていけば」の言葉に甘えてほんとにゆっくりしてしまい、結局2週間も居候してしまったのだった。
ジャズ好きのネジミさん

 2週間もお邪魔して、さんざんお世話になりっぱなしだったから、出発間際に家族と私と遠藤さんでピデっていうトルコ風のピザを食べに行ったときに、1回ぐらいごちそうさせてくださいって言ったら、伊藤さんは、
「私が昔困っていた頃にある家でお世話になったことがあったんだ。その家のひとたちがとても親切にしてくれたけど、私は何も持ってないんで、『このお礼をどうやってしたらいいかわからない』って言ったら、その家のひとは『お礼なんかいらない。もし恩返しをしたいと思うなら、次にあなたが困ったひとを見つけたときにそのひとに返してあげればいいんだ』って言ってくれたんだよね。だから、いま私たちがのーさんにごちそうしてあげるのはそのときの恩返しなんで、のーさんが私たちにごちそうなんかする必要はないんです。この恩返しをもしするとしたら、いつか困ってるひとを見つけたときにね、そのひとたちにしてあげてください」
って言われて、目がうるうるしてしまった。

 2週間の間に私はほんとにいろんなところに連れていってもらい、いろんなひとに紹介してもらった。伊藤さんの勤める、JICAの仕事場にも連れていってもらったし、日本人学校に行ってゆうじくん、いさくんの友達に紹介してもらったときは、「世界一周?すっげえ!」って一瞬人気者になった。アナトリア考古学研究所というところに連れていっていただいて、大村教授夫妻から直接、紀元前何世紀のものっていう遺跡の説明をしてもらったりもした。伊藤夫妻のお友達の中華料理店のママとか、いろいろなひととも仲良くなった。日本人学校の送迎バスの運転をしてるネジミさんとも仲良くなって、いろいろ親切にしてもらった。出発前夜は、お別れにってネジミさんから誘われて近所のジャズクラブに連れていってもらい、ママと3人でお店をハシゴして夜中の3時までお喋りしていた。

 いつもは9時まで起きない私だけれど、最後ぐらいビシっと、と思って出発当日はゆうじくんたちにお別れを言うために8時に起きた。日本人学校の送迎バスの前まで見送りに行ったらいさひとくんが、
「どうしてこんなとこまでくるの」
っていいながらささっと乗ってしまったから、ちゃんとお別れも言えなかったし、「ママのいうこと聞いてちゃんといい子にするのよ」とかも言えなかったけど、がんばれよって心の中でつぶやいて手を振った。しばらくして、玲美ちゃんも、今日がお別れってわかってるのかどうか、楽しそうに「バイバーイ」といって幼稚園に出かけていった。そして伊藤さんにもお礼を言ってお見送りしたらもう間もなく出発の時間だった。

 あわてて荷造りをして、服やサンダルをバッグに詰めた。パソコンのケースがイヤにスカスカしていたけど、たいして気にもとめなかった。もうひとまわり忘れ物がないか見て回らないといけないような気がしていたんだけれど、ママともっとお喋りがしたくて、まあいいかと思って見なかった。


伊藤家のみなさん。左からいさひとくん、
ママ、ゆうじくん、伊藤さん、玲美ちゃん

 ぎりぎりまでお喋りして、それからママに見送られて、私はイスタンブールへ向けて出発した。2週間ですっかり定住生活に慣れてしまった私には「また旅が始まるんだ」っていうのがすごくつらいことに思えた。チビどもともしばらくお別れなんだなぁと思ったらしばらく涙が止まらなかった。今度会うときは倍ぐらいにでっかくなってるだろうか。いい2週間だったなぁとしみじみと思いつつ、バスの添乗員のお姉さんにコーラちょうだいと注文して、彼女が再びまわってくるまでに眠ってしまったらしい。昨夜遅くまで飲んでいたせいで寝不足だった。

 それから何回か眠って、目覚めるとまたイズミットだった。道路はかなり修復されて、顕著なヒビはおおかた上からアスファルトを載せてうめられていた。道路の周りには前に見たときよりもはるかにテントが多くなっていて、多くのテントにはトルコの国旗にもある月と星のマークが入っていた。国からの支給とわかるテントだった。日本からの援助がこのテントの中にいるひとたちに届いていますように、と心の中でひそかに願った。

 そしてバスは夕刻、イスタンブールの辺鄙なバス停に停まった。普通トルコのバスっていうのは「オトガル」っていう、街のはずれにある大きなターミナルに停まるものなんだけど、このバス会社のバスはちょっと特別で、独自のバスターミナルから発着するのだった。

 そこから新市街の「タクシム広場」までのサービスバスに乗って広場にむかった。私はこの前地震のときに一緒にブルーモスクの下で寝たカルメンのホテルにまた泊まるつもりでいたから、タクシム広場からブルーモスクのある旧市街への行き方を尋ねた。運転手はタクシム広場からタクシーつかまえなさいねと言っただけだった。

 タクシーにぼられそうになりながらカルメンの宿にやって来たら、
「あらーぁ。どこ行ってきたのーぉ?」
とカルメン夫妻は笑ってむかえてくれた。あいてるのは、地震のときに渡辺さん(できごと日記「地震」参照)が泊まっていた窓のない蒸し風呂部屋だけだったけど、2週間の間にイスタンブールはすっかり涼しくなっていたからそこにチェックインした。

「あのあとまだしばらく広場で寝てたの?」
って聞いたらカルメンは、
「そうよぉ、あのあとまだ2日間広場で寝たわよ。全部で4日外で寝たのよ」
って言っていた。

 さてここに帰ってきたらもう庭のようなもんなので、あとはギリシャに行くバスの手配をして鯖サンドでも食べて、出発の時を待つばかりだ。さっそく隣のインディゴ旅行社に行って明日のギリシャ行きバスのチケットを手配しようとした。でも明日のチケットはもう売り切れで、明後日のバスを予約するにも、バス会社がもう閉まってるからまた明日おいでと言われた。

 それで部屋に戻ってのんびり音楽でも聴きながら日記とかHPの更新作業でもするかと思って、部屋のコンセントを見て、ふと考えた。あれ、電源ケーブルは?

 ・・・電源ケーブルたたんだおぼえがない。スカスカだったパソコンケース。忘れたのだ。玲美ちゃんのベッドの横の電源タップにさしたまま。最後に伊藤家の居間からアクセスしたときはバッテリーで動かしてたから電源ケーブルを使わなかった。ガーン。気絶しそうにショックだった。送ってもらったら数日かかっちゃうかもしれない。明日とりにいくしかないのか?