続・地震
 
 ドアにノックの音を聞いて目がさめたのは2時半頃のことだった。ゆうべはさすがのヨーロッパ人にも外でいつまでもさわいでるツーリストはおらず、わりと早い時間に静かになった。早朝起きて寝不足だったこともあって、昨夜は私も10時に荷物をまとめて就寝したのだった。

 イエス?って声をかけたら男の声で、
「また大きいのがくる可能性があるって言うからカルメンが逃げる準備をしておいでって言ってる」
と返事があった。たぶん近所のレストランで働いてるっていう長髪のひとだな。でもこの夜中に?余震なんかあったかしら?ドアを開けると果たして長髪の彼がそこにいた。
「わかった。準備していくよ」
っていうと、
「5分でね」
って言われた。
「余震があるってラジオで言ってたの?」
ってたずねると、
「そうみたい」
といって彼は降りていった。

 荷造りはしてあったけど、もしかして混乱に乗じた強盗とかに遭うとイヤだから、ポケットにアーミーナイフとペッパースプレーをしのばせ、そこらへんにあった紙の裏に念のため「宿のミセス・カルメンとブルーモスクに避難します。万一の場合は以下へ連絡を XXXXXXXX, Japan」と書き置きし、「地球の歩き方」のコピーにはさんで部屋を出た。

 下に降りるとカルメンが、
「日本大使館から連絡があったの。私たち避難することにしたけどあなたも行くでしょ?」
って聞いたので、
「うん、一緒に行くよ」
って言った。そして毛布を持って私たちは公園に向かった。カルメンの話じゃさっき日本大使館のひとから連絡があって、「日本人は泊まっていますか」って聞かれたそうだ。いますって言ったら「大きい余震が来るおそれがあるので、日本人には安全な場所に避難するようにお伝えください」って言われたという。

ルーマニア出身のカルメン

でも、
1)日本大使館や政府はどこの国でも問題があるといつも対応が遅くて文句を言われるのにこんな夜中にそんな対応ができるかしら?
2)カルメンの宿はオープンして1ヶ月でまだ看板も出してないのにそんな連絡リストに載ってるのかしら?
3)地震の予知なんて難しいのに第2波が来るなんて予想できるのかしら?
 などと勘ぐって、いつナイフをつきつけられてもいいようにペッパースプレーの安全装置をはずしてポケットのなかで構えていた。地震のときはとかくパニックになって治安が悪くなると聞いたこともあったから。

 道路では、いつ地震が起きても建物が倒壊して死んでしまいそうな、ちっとも安全じゃないとこにテーブルやイスを出して寝ているひとが大勢いた。カルメンの旦那がファンタをもって歩きながら、酔っぱらってもいないのに「この子は部屋代に15ドルも払ったのに部屋で寝られないんだよ。かわいそうだねぇ」と長髪の彼に言ってエーヘーヘーヘーヘーと笑った。せっかくホテルを開業してたった一ヶ月で建物が倒れてしまうかもしれないっていう事態に、パニクってるのかもしれなかった。

 アヤソフィアの裏の坂を通ってミナール(寺院の周りに配されたとんがった塔)の下を通ると、道路沿いの植え込みに寝てるひとが大勢いた。カルメンがここにする?って言ったようだったけど、旦那が、
「ここじゃミナールが倒れてきたとき死ぬだろ」
と言ってまたエーヘーヘーと笑ったようだった。そしてブルーモスクとアヤソフィアの間の植え込みのある広場につくと、通路の端の木の花の下に布団1枚と毛布3枚を敷いて3畳ほどのベッドをつくり、さあ寝ましょうとカルメンが言った。


闇に沈むアヤソフィア

 近くには植え込みに入って寝てるひとや、ピクニックシートを敷いてビールを飲んでるひとたちがいた。ちょうど日本の花見みたいな雰囲気だった。宴会やってるおじさんが、
「コンバンワ。元気デスカ?愛してマス」
と言ってカカカと笑い、こっちにおいでビールをあげようと言った。カルメンが相手にしなくていいわよ、といって寝床に入ったので私もその隣に横になった。ベッドには私、カルメン、旦那、長髪の彼の順に並び、上に毛布をかけて寝た。広場には大勢のひとが避難して寝ていて、余震の話は誰かの罠じゃなさそうだった。また、だからといってひどく混乱した状態でもなかったので、私はとりあえずポケットのペッパースプレーの安全装置を戻した。3時少し過ぎだった。

 今夜のブルーモスクは煌々と電気がついて闇から浮かんでいた。アヤソフィアとブルーモスクの間で野宿した日本人はいままで何人いるんだろうか?こんなとこでしかもルーマニア人の夫婦と同じ毛布にくるまって寝たヤツはちょっといないにちがいない。しかももしかしたら私は今夜ここでブルーモスクとアヤソフィアが何百年とか何千年とかいう歴史を閉じて崩壊していく姿を見るかもしれない。

 でももしそんなことになったら私も死ぬんだ。

 この旅に出て危ないところもいくつか通ったけど、死ぬって思ったことはあんまりなかった。ネパールや台湾なんかでは何度か雨のなか、崖っぷちをバスで走ったこともあった。でも運転手は毎日同じように崖っぷちを走ってるのにいままで一度も死んだことないんだからと思えばそれほど心配にはならなかった。

 でも今回は違う。こんな地震、ここにいる誰も経験したことないんだ。もしもう一度地震が起きて、もう少し大きい地震だったりもう少し震源がイスタンブールに近かったりしたら、地面に亀裂が入ってその間に落ちて死ぬかもしれないし、ミナールの三角帽子が落ちてくるかもしれないし、地震自体の間は大丈夫でも、食べ物が間に合わなかったり、怪我の手当ができなかったりして死ぬのかもしれない。

 死ぬ前にこれがしてみたかった、と思うことはない。いま私はまさにその旅の途上にいるから。でもまだ死ねない。この年で一年も旅に出た上にさらに親不孝を重ねるわけにいかないし、まだ見たいものや行きたいところがある。まだ話したいひとがいるし、話したいことがある。

 どのくらいの大きさのブロックが落ちてきたら死ぬだろうか?たぶんあんな高い塔から落ちてきたらどんな小さなブロックでも1発で死ぬな、と思った。

どうしても生き延びたい。
石畳から伝わる冷たさを背中に感じながら思った。

 夜空に浮かぶブルーモスクを眺めながら、あいつが倒れても私は死ぬわけにいかない、と思った。来るなら早く来い。なんかわからないけど闘志をみなぎらせて私は目を閉じた。


明け方のブルーモスク

* * *

 目がさめたとき、毛布は夜露でしっとりと濡れていた。それからしばらくしてスイッチのはいるブツッという音がして、耳をつんざくアザーンの声がアヤソフィアとブルーモスク両方から始まった。

 町中のモスクがあとを追うようにアザーンの声を響かせはじめた。生き延びたぞ!俺たちは夜明けを迎えたぞ。今日のアザーンは昨日にもまして、そう聞こえた。

 アザーンが終わって1時間して夜が完全に明けきるまで、私たちはそこにいてうとうとと眠った。目をさますと、目の前にはあぶくのようなピンクのサルスベリの花がひろがっていた。生き延びた。カルメンも目をさましていた。
「コンバンワ。元気デスカ?愛してマス」
昨夜のおじさんがまだ宴会をやっていて、昨夜と同じことを言った。


このベッドで寝た。
右にまだ寝てるのは長髪の彼

 宿に戻り、また公衆電話からKDDにかけた。ここからつながらなければアンカラまで連絡はあきらめねばならない。でも今日はついに呼び出し音が鳴り、
「ご利用ありがとうございますKDD××でございます」
とうとうオペレーターにつながった。オペレーターに実家の番号を告げると何回かの懐かしい日本の呼び出し音のあと、母が出た。母は、
「のーさん?!大丈夫?昨日町内会の打ち合わせから戻ってきたらお父さんがオイオイ泣いてたよ。ちょっとまっていまお父さんに替わるからね」
といって父に替わった。
 父が状況を知りたがったので、ここらへんは全然混乱してなくていつも通りだということ、ホテルのひとは私のことをちゃんとお客さんとして扱ってくれるし、逃げるときは一緒につれていってくれるし夕べは一緒に避難したんだということを伝えたら安心していたようだった。両親は八方手を尽くし、この前までイスタンブールに来ていた友達にも連絡をとって居場所の確認をとろうとしていたようだった。

 部屋に残っていた桃2こを食べ、9時少し前にホテルを出た。カルメンに、一緒に避難してくれたことにお礼言おうと思っていたけど、彼女は寝てて、旦那だけが見送ってくれた。オトガルと呼ばれるバスステーションへのシャトルはめちゃくちゃ遅れてやってきて、死ぬほどぶっとばしてちょうど10時にオトガルについた。バウチャーをチケットに交換してバスに乗り込むとすぐにバスは出発した。バスが出て間もなく急速に眠気がおそってきた。

* * *

 目が覚めると高速を降りるところだった。封鎖されている高速の先にはブルドーザーを載せた大きな輸送車がいっぱい止まっていた。イズミットの高速はぐちゃぐちゃになっちゃってるからとアンカラの伊藤さん(できごと日記「天の岩戸」参照)が言っていたけどこの先だろうか・・・。

 バスは間もなく、バスのサービスエリアみたいなところについた。ここでトイレに行こうと思ったけど建物はまったく開いてなくて、まわりには難民みたいにひとが大勢たまっていた。バスが停まるとたくさんのひとがよってきてイスタンブールだとかアンカラだとか口々に言って運転手と交渉し、言い争っていた。彼らはこのあたりで家が壊れ、逃げ場を失ったひとびとだった。まわりの草むらはトイレのにおいがたちこめていた。するところがなくて、ここに集まってるひとたちがそこでしてるんだ。食べ物売ってる店もない。

 間もなくバスは出発した。そして隣の敷地の前を通ったとき、変なものをみた。不自然に屋根の低い建物。ひとが入れるか入れないかぐらいの高さで、その屋根の下にはバスがはさまっておじぎしており、バスのお尻は半分ういていた。バスがはさまってないほうの屋根の下をブルドーザーがほじくっていた。

 それからの一時間は目もあてられなかった。救急車がひっきりなしに行き交い、中にはフロントガラスに網目のヒビがはいって、そのヒビの下からのぞき込むように前方を見ながら運転してる救急車もあった。道ばたにはテントはってキャンプしてるひともあり、テントがないひとは憔悴しきって、木の柱に毛布をかぶせただけの日よけの下で呆然と座り込んでいた。

 3階だての建物なのに、はじめからそれしかなかったように屋根だけが積み重なってしまってるとこもあったし、1階の半分だけがつぶれて建物がナナメに傾いてしまってるところもあった。まだ電気がきていないから信号はついていなくて、そうした混乱のせいか、車4台が玉突きしてぐっしゃりつぶれて道ばたにおいてあった。そのうちの一台で比較的被害のひどくなさそうな車にはまだひとが乗っていた。ぶつかって走れなくなったからってほかにいくところもなければいく手段もないのだった。

 道には20cm以上のはっきりわかる亀裂が入ったり段差ができている場所もあって、地震の強さを物語っていた。本当はこの道も危険なのだろうけどほかに通れる道はないのだ。そういう場所にいくと車はいきおい渋滞になった。両側の丘がくずれて一車線になっている場所もあった。街道沿いの店の前では人々が列をつくっていて、水か食べ物を待っているようだった。バスのなかにはテレビがついていて地震のニュースをひっきりなしに流していた。さっきのバスターミナルから私のとなりに乗ってきた女の子は、ずっとニュースに顔をそむけ耳をふさいでいた。

 ブルドーザーが寄ってたかって掘り返しているひとつの建物の横には誰も掘り返していない崩れたビルがあり、そのなかでいまもいくつかの命が消えかけてるにちがいなかった。

 予定の倍以上かかってやっとバスはアンカラにつき、私は伊藤さんの家を訪れた。
 日本大使館からホテルに問い合わせが来たということや、新たな地震が起きる可能性が予知できるのかどうかということについて私は疑いを持っていたんだけど、伊藤さんにこのことを話すと、トルコはクルド問題やキプロス問題で常に準戦時下にある国なので、大使館は非常事態に対し常に神経をとがらせていて、緊急時にそのぐらいの対処ができる状態にあるはずだと教えてもらった。また、地震については常日頃からの予知は難しいけれど今回に関しては一回の大地震があり、その後1日に体に感じられないものもふくめて何百回という余震があったことからしても第2波を予想することは困難ではないということも知った。浅い知識で疑った自分を反省した。結局何事もなかったけど、そういう連絡を受けて、呼び出して一緒に避難してくれたカルメンに感謝した。

 伊藤さんの友達でトルコ人のネジミさんは、今日イズミットの知人の家族を訪ねたそうだった。街は凄惨な状態で、身内をひとりも失っていないひとはいなかったという。折からの熱気で遺体は腐り始め、身元のわからない遺体は、病気の蔓延をふせぐため、とりあえず穴を掘って埋めることだけが繰り返されていたそうだ。地獄だ。イズミットでは、パニックに便乗して水や食料が普段の10倍の値段で売られているということも聞いた。こうなるともう社会は社会の形を整えていることができなくなってしまうのだ。

 いまも行方の確認できていないひとは数知れない。もちろんトルコ人だけじゃない。イズミットの市内にあるホテルには地域振興プロジェクトのため現地を訪問していた日本人が泊まっていて、まだ多数が建物の中に閉じこめられていると聞いた。いまも同じ街のなかにいながら安否がわからず家族の身を案じているひとや、日本から、世界各地から、家族の心配をしているひとたちがいるはずだ。

 ブルーモスクの下で、「生きたい」と思った私の気持ち。そして、「無事でいてほしい、生きていてくれ」って、ハラワタをちぎられるような思いで願った家族の気持ち。私が飢えていないだろうか、怪我をしていないだろうかと案じた、私の大事な友人たちの気持ち。彼らが味わった苦しみをまだ味わいつづけているひとびとがいる。あるいは大事な人々を目の前で失い、針の上を歩くような苦しみを味わっているひとたちが大勢いる。

* * *

 阪神大震災のとき、大学時代の友達がはじめてボランティアというものを経験したって言っていた。人間の助け合う力、自分がひとを助ける力を持っているってことを実感したと彼は言った。でも私はトルコ語もわからなければ、現地のこともなにもわからない。なにができる?私にはなにもできないんだろうか?私が彼らに貸せる力はなにもないんだろうか。

 私が焦りはじめていたときだった。避難先の伊藤さんが、今回の地震に対して寄付金を集めるシステムが整い始めているということを教えてくださった。
 今回、トルコ国内の民間の動きは結構はやくて、大手スーパーのチェーン店が、クラッカー、マカロニ、オリーブ、煮た豆の缶詰、米、塩、砂糖、お茶、水などの食料をセットにして被災地に送ろうと寄付を募り始めていた。これは、スーパーで消費者がお金を払うと、そのひとの名前が食料セットの箱の横に書かれ、それが次々と現地のひとびとのもとに送られるというものだ。いまイスタンブールから何台、アンカラから何台のトラックがその食料セットを積んで現地に向かったということがポスターで知らされ、寄付を集めるカウンターには次々にひとが集まっていた。こうした支援物資は1セットで3,710,000リラ(日本円で1000円ほど)で提供されていた。こういう、手をさしのべるための窓口が身近に開いているのは素晴らしいことだ、とカウンターの列に並びながら思った。私自身が直接彼らに手をさしのべることはできないけど、こうやって間接的に力を貸すことならできる。直接現地に行って穴をほるだけが手をさしのべることじゃない。自分にできることをするんだ。


いままでに現地へ送られた物資の量がパネルで示されている
 
スーパーの一角には数々の食料や救援物資が並べられている

 わたしは現場のすぐ近くにいながらなにもできないけど、このトルコの実態を現地から、このホームページを見たみなさんにお知らせする機会を得た。私ひとりができる協力はわずかだけど、たぶんこのページを見てくれるひとたちみんなが力をあわせれば、その力はもっと大きくなると信じてます。

 どうかみなさんこの事態に興味を持ってください。ニュースページでこのニュースがトップからはずれてしまっても、まだたくさんのひとが助けを待ってます。いま手をさしのべれば、ひとりでも多くの被害者を助けることができるかもしれない。ボランティアのできない私たちができることってくやしいけどいまはこれだけ。どうかいま助けをもとめてるひとたちに力を貸してください。

 伊藤さんから、日本でも義捐金を集める基金があるということをおききしました。現地のひとたちのため、ご協力をお願いします!

くわしくはこちらへ

NHK ボランティアネット トルコ大地震関連情報

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