地震
 
 ものすごい揺れを感じて目がさめた。窓ガラスが枕元でけたたましく音をたてていた。外で悲鳴と、グラスやビンが落ちて割れる音がした。窓から外をのぞくとヨーロピアンが、もう立ってられない様子でしゃがみこんでいる。地震だ。かなり大きい。外のカフェの照明でまだ室内はそう暗くはなかった。とりあえず床のデイパックの上に置いてあったパソコンをかかえ、毛布がわりのシーツを頭にかぶったけどまだ揺れていた。かなり長い。しかもものがおちるってことは震度4以上の地震だってことだ。

 1分近く続いた揺れがおさまり、少しすると外のヨーロピアンがおもしろがって拍手をしはじめた。喜んでる場合じゃないぞ。地震は一回じゃ終わらない。この揺れだと窓が割れるかもしれない。かなり強い地震だったから火事が起こる可能性もある。いま何時?時計は午前3時を指していた。料理をしてる時間じゃないな。でもガス管が破裂したら料理してなくても火事は起きる。逃げたほうがいいか?でもどこへ?

 そうだ、夕べはめんどくさくなってパソコンをちゃんとしまわずに寝ていたんだっけ。旅の初めの頃は重要な荷物だけはパッキングして寝ることを一日の約束ごとにしていたのに、私も気がゆるんだもんだ。荷造りをはじめようとしたその途端、町中が闇につつまれた。電気がとまったのだ。

 明かり明かり。明かりを用意しなければ。インドみたいに頻繁に停電のある国ではろうそくも懐中電灯もすぐ手の届くところにいつも常備していたのに、こういうときに限ってろうそくの入った小物入れがどこだかわからない。懐中電灯の電池も、カメラに入れちゃっててカラだ。まず懐中電灯をさぐりあて、さらにカメラから電池をひきずりだして懐中電灯に入れたら、ドアにノックの音がした。下の階に泊まってる戦場カメラマンの渡辺さんが、様子見に上がってきてくれたのだった。

 さすが戦場カメラマンっていうべきか、彼は落ち着いたもんで、ライターひとつで細い階段を上がってきて、
「宿の奥さんが、あぶないからとにかく降りてこいって言ってますが」 と言った。
 たしか余震の危険があるうちは外に出ちゃいけないんじゃなかったかな。でも火がでたらそれどこじゃないか。とにかく荷造りをしてあとから行きますと彼にいってから部屋の中を照らし、ほとんど手探りで荷造りした。あわてているから電気蚊取り器とかビーチサンダルとか、もって逃げなくてもいいものばかり丁寧に片づけてしまって、はっと気づいてとにかく重要なものだけをバックパックに入れ、様子をうかがって外に出た。自分が寝ぼけてるのかな、と勘違いする程度だけど、クラクラとまだ揺れている。


渡辺さん。この写真はちょっと変
 さっき様子をみにきてくれた渡辺さんていうのは、学校を出たばかりで駆け出しのフリーランスカメラマンだと聞いていた。これまでザイールとかルワンダの紛争を追い続けてきて、今回はじめてユーゴに行って来たところだと言ってた。下に降りると渡辺さんがこっちこっち、と合図した。私は渡辺さんに呼ばれた方向にライトをむけ、カフェのイスにつまづきながら彼の前に座った。電気はすぐには来そうもなくて、部屋に戻るべきかどうか迷っていたら、アメリカ人とオーストラリア人とニュージーランド人のツーリストがやってきて、カフェでビールを頼んでおしゃべりをはじめた。この状況でビールを頼むやつも頼むやつだと思うけど、まだ商売続けてるほうも大した心臓だ。

 「日本じゃあ地震ばっかだからこんなんこわくないよな?」 ってカリフォルニアから来たカルロスってやつが言った。確かに日本は火山国だから地震は多い。でも、私自身いま気づいたけどこんな大きな揺れをいままで経験したことはなかった。
「そりゃ日本ではあっちこっちで地震がよくあるけど・・・東京でこんな揺れたことなかったからこわいよ」
って言うと、カルロスはちょっと自慢そうに、
「カリフォルニアだってすっげぇ地震はあるぜ。こわかないさ」
って言った。そして彼はオーストラリア人に、
「道路にいるとき地震がおきたらどうする?」
って訊ねた。聞かれたオーストラリア人は、
「僕なら車の下にかくれるね」って言った。カルロスは先生みたいに、
「いい答えだ!」っていったあと、
「俺なら落ちてくるものをよけてるだけだろうな。ドッジボールの要領で」
って、ゲームボーイに出てくるミニチュア人間みたいに大柄な体で手をあっちこっち動かしながらぴよ、ぴよと反復横飛びしてみせた。死ぬまでアホだ。でも彼はそうやってまわりのひとの不安を紛らわしてるのかもしれなかった。

 停電なのでニュースもわからず、頼みの綱はときどき通っていくタクシー運転手のラジオ情報ぐらいだった。こんなときなので火事場ドロボーみたいなのが出没しないように、パトカーが見回りをはじめた。屋内は危険だと判断したのか、近所のひとたちはみんな外にいて、車のあるひとは車のなかで時間をつぶし、ラジオを聴いたりしていた。宿の奥さんのカルメンによれば、震源はイスタンブールの少し西の街で、被害はイスタンブールの一部でもかなり大きく、人が死んだりしてるらしいってことだった。マグニチュードも6とか7とかと言われていた。日本でもニュース速報が流れたかもしれない。

 近所のひとのラジオの前でしばらくニュースを聞いてきたカルメンが戻ってきて、言った。
「ラジオではまだおおきい余震のおそれがあるって言ってるわ・・・」
一瞬緊迫した空気が流れた。
「とにかく、ここはあぶないから広いところに避難しましょ」
カルメンはそういうと私たちに大事なものだけ急いで持ってくるように促した。わたしはさっきあわててパソコンと金めのもの、そして救急用具だけつめこんだデイパックをかついで、渡辺さんとカルメンと、カルメンの旦那の4人で坂の上のブルーモスクの前の広場に向かった。事態ののみこめてないヨーロピアンの大半は部屋に戻って寝てしまうか、まだカフェで飲んでいた。

 ブルーモスクの前には、毎晩催される光と音楽のショーのためにベンチがたくさんある。いつもそのベンチが埋まるのは、ショーのある夜9時くらいだけなんだけど、今日はこの早朝にいっぱいのひとで埋め尽くされていた。朝は肌寒いぐらいだった。ベンチには毛布をもってきているひともいた。ここに来ているひとたちは事態人々は不安にうなだれていた。さいわい怪我をしたひとは見えなかったけど、大きい余震が起こるたび、広場に集まっているひとの表情がくもり、悲鳴や不安のうめき声が聞こえた。
モスクの前に避難する人々

 午前5時少しすぎ、ブルーモスクの電灯がついた。電気がきたのかと期待したら、ほどなくお祈りの時間を告げる「アザーン」の声がスピーカーから聞こえはじめた。アザーンっていうのは、音程のない歌声っていうか、詩吟みたいなもんで、一日5回あるうちの第一回は毎日夜明け前に流されるのだった。自家発電機を備えて停電の日も休まず流す気合いはさすがだ。普段より聴衆が多いせいか、アザーンの声は心なしかいつもよりこぶしが効いているような気がした。アザーンが終わるとアヤソフィアの背後の空が白々と明けはじめた。人々はアザーンの声を聞くと安心したのか少しずつ散り始めた。

 朝6時になり、完璧に夜があけてから私たちも宿に戻った。でもカルメンは屋内には入らず、毛布をかぶって宿の外のベンチで寝はじめた。
「どうして家にはいらないの?余震があったらガラスが落ちてきたりして危ないよ」
って言うと、カルメンは、


カルメンが蹴破ったドア
「この家なんか、表面こそ改修してるからきれいにみえるけど、築80年もたってるのよ。もう一度同じ揺れがあったら崩れてしまうわ。このあたりの建物はみんなそうよ」
と答えた。

 ぞっとした。
 そんな部屋に泊まっていたのか。ここが震源じゃなくてほんとよかった。でもとにかく私は部屋のなかに入ることにした。何か壊れたものがないか確認しなければ。階段を上がると、私の隣のカルメンの部屋のドアの真ん中が壊れていた。地震でこんなふうにドアがこわれるかしら・・・?あとから聞いたらカルメンは地震が起きたときあわてて外に出て、鍵をドアの下から中へすべりこませてしまったのだそうだ。彼女はそのあとドアを蹴破って中に入り、服に着替えて改めて外に避難したんだという。


 部屋に戻ると壊れてるものはなにもなかったけどトイレの水が流れなくなくなっていた。外に出ていつもより余計に水を買った。それから、今日はロカンタ(レストラン)は開かないだろうと踏んで、フランスパンとナスのトマト煮の缶詰を買った。そしてバルコニーでナスとフランスパンを食べた。食べながらふと気づくとまだ揺れていた。そういえばこのバルコニーって下に柱もないんだ。こんなところでごはん食べてる場合じゃないかもと思い直して部屋に入った。

 パンは保存食として残すことができるから半分にしておいて、買ってあった桃を食べようと思ったけど桃をむいても手を洗えないことに気づいた。それからテレカを持って公衆電話に何回か行った。IDCのジャパンダイレクトの番号に電話してみたけどさっぱりつながらなかった。「地球の歩き方」を持っていなかったから、ほかの旅行者にKDDとかの番号を聞いて、もう一度チャレンジしたけど、一向につながる様子がなかった。カルメンが前に並んでて、 「私ルーマニア出身なんで、家族が心配しないようにルーマニアにかけようとしてるんだけどちっともつながらないの」 って言った。
朝食の缶詰とパン


 ほんとに電話と電気と水道がないとなにもできなかった。そんなものがこんなに「必要」だと思ったことはなかったけど、これまでの国々ではちゃんと必要なときに供給されていただけのことだった。充電できないからパソコンも立ち上がらないし、電話がないから連絡もできない。お昼になってまたトライしたときも、公衆電話には何人もならんでいるけど、みんな通話はできてないみたいだった。またあきらめてホテルに戻るとカルメンが、
「エミノニュでホテルが倒壊して25人が病院に運ばれたそうよ。ほかの地域では大勢死んでるらしいわ」
って言った。エミノニュなんてここからトラムで3駅くらいのところだ。

 それでもこの界隈は平常どおりでパニックが起こることはなかった。あっちの誰それが怪我をしたとかいう噂を聞いたけど、亡くなったひとがいないということと、家が壊れたり燃えたりしていないことが幸いしたのだと思う。でもトラムウェイのほうに行ってみたら信号は消えてるし、トラムももちろん走ってなかった。大勢のひとが立ち止まっていたので見上げたら、坂の途中のビルが傾いて一部に亀裂が入っていた。
消えてる信号

 意外にも大半のロカンタも平常通り営業していたけど、交通や電気の供給がストップしている状態なので料理はわずかな種類しか並んでいなかった。水が出ないのにどうやって皿を洗ってるんだろう。レストランのひとつでシシケバブを食べて戻ると宿の外に渡辺さんがいて、今日もうシリアに向かうと言った。渡辺さんがシリアへのバスチケットをとりに行くといったので私も一緒に近くのインディゴ旅行社に行った。このままイスタンブールにいてもなにかできる状態ではない。結局私も明日アンカラの伊藤さん(できごと日記「天の岩戸」参照)宅へ避難することに決めた。そのときはまだ、アンカラに行くのに震源のイズミットを通らなければならないということに私は気づいていなかった。

 インディゴ旅行社に行ったら受付の日本人の女のひとが予約の電話をしていた。それを見て、とりあえず市内通話だけはかかることがわかった。インディゴでは発電機があって電気も使えていたので一旦宿に戻り、パソコンを持ってオフィスに行って、インターネット用の回線を使わせてくれないかと頼んだ。インディゴで入っているプロバイダは2軒ともアクセスできないのでダメじゃないかと言われたけど、私が試すとさすがにiPassのアクセスポイントは健在で、サーバはちゃんと動いているようだった。

 電話回線の調子が悪くアクセスはときどきブツブツと切れた。とんでもないところに取り残されて伝書鳩で無事を知らせようとしてるような気分だった。かろうじてメールを受信すると、すでにいくつか安否を尋ねるメールがきていて、日本でもかなり報道されてるらしいことがわかった。父からのメールは特に悲痛だった。私の親しい人たちがいまどんな気持ちで私の無事を祈っているか考えると胸がいたみ、いますぐ「ここにいるよ!」って伝えたかった。私はこうして元気でいるのに、私の安否を気遣う間に両親や友達の寿命がちぢんでしまいそうで、メールを読みながら苦しくて苦しくてしかたなかった。ここらではほとんどニュースが入ってこないけど、やはりほかの地域では被害がひどいらしい。ホームページの掲示板を見たら、父が心配して誰かイスタンブールの様子を知らせてくれと書き込みしていたので、無事を書き込んだ。メールの送信にあまり何度も失敗したので、ちゃんと送れているかどうか心配だったけれどそれ以上トライしても結果は変わりそうもなかったので私は通信を切り上げた。

 夜になって渡辺さんが出発した。これで私のいたホテルは、私を残してからっぽになってしまった。カフェの入り口でスパゲティを食べていたら、カルロスたちがやってきてとなりにすわった。「800人死んだってね」「2000人だって聞いたぜ」彼らは口々に言った。情報が錯綜して、外国人の私たちにはなにが本当か全然わからなかった。でも時間を追って人数が増えてるってことだけは確かみたいだった。


テレビでは次々に悲惨な光景が
 そうしてる間に電気と水が復旧した。テレビをつけると崩壊したビルのようすなんかが流れていた。震源地はイスタンブールの東100kmのイズミットというところだった。ときどき表示される表を見ると、どうやら亡くなった被災者の数は「2000人」が本当のようだった。めちゃめちゃに壊れた建物や泣き叫ぶひとびと。掘り起こされる遺体。

 電話はまだ不通だった。ときどき余震があって、今夜はパソコンをちゃんとしまっていつでも逃げられるようにして寝なければと思った。


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