さよならペッパースプレー
   バルセロナに別れを告げる朝、4時に目覚ましの音で目が覚めた。ゆうべはそのまま出かけられる格好で寝たので着替える必要もない。ちょうど私が顔を洗っていたとき、同じユースに泊まってる日本人の男の子たちが赤い顔してバスルームの前を通っていった。今帰ってきたの?って聞いたら、この時間までキッチンでトランプしてたんですってひとりが答えた。ここは日本人が経営してるユースホステルで、オーナーの西村さんが面倒見いいので、盗難もあるし南京もいるのに日本人が結構溜まってる。私もモロッコに行く前にここに泊まって盛大に南京にやられたのに、立地のよさもあって、懲りもせずまたここに泊まりにきてたのだった。私は何人か顔見知りの男の子に挨拶してユースの階段を下りた。

 重い入り口のドアを開け、表の様子をうかがった。まだ外は真っ暗だ。上着のポケットにはペッパースプレーを用意し、手には防犯アラームを握りしめる。アラームもスプレーも、それぞれ出発のときに別々の後輩からもらったものだ。いつでも防犯アラームを鳴らせる体制で戸口を出る。アラームはぴよぴよと小鳥のさえずりのような音の出るものだけど静かなところでいきなり聞くとそれなりにビクっとする大きな音が出る。ペッパースプレーっていうのは、以前の日記の中で何度か書いてきたけれど、襲われたときに悪者にかけると咳が30分くらいコンコンでて相手は何もできなくなるので、その間に逃げることができるというスグレもの。なんでこんなに厳重に警戒して出かけるかっていうと、昨日の出来事があったせいだ。
クリスマスの電飾もまばゆい
ランブラス通り

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 昨日私は妹のちひろを送ってバルセロナの空港に向かった。この3週間私は、やはり会社をやめて出てきてしまった妹と落ち合って、マヨルカ島やバレンシアなど各地を一緒にまわってきたのだった。とても性格の違う姉妹なので3週間ケンカばかりしていたけれど、最後にはまたしばらくの別れになることに気づいてしんみりと迎えた朝だった。妹のフライトは9時発。余裕をもって朝7時にはホテルから出発した。

 7時といってもあたりはまだ真っ暗で、ホテルの表にはひと通りもない。路地をまがるとひとりの男のひとが歩いてるのが見えたけど、このひとも出勤途中なのやら夜更かしして帰るとこなのやら。首都マドリッドではかなりたくさんのツーリストが強盗に身ぐるみはがされてるというスペインだ。ここバルセロナはそう危ないとは聞かないけど用心に越したことはない、と思ってまわりに気を配っていた。幸い前を歩いてく男は途中で横道にそれた。ほっとして大通りにむかっていく。しかしさっき男が折れた角にさしかかると、暗がりでこっちをむいて立っている者が視界にはいった。出た!強盗か!?手にナイフもってるか!?目をこらして見た私と妹の目がばちばちんと音をたてて一気につぶれた。彼はGパンの前あけて大事なトコロを丸出しにしてたのだ。


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 瞬時に私の目は男の顔とGパンの前をうっかり5往復ぐらいしてしまった。正直に言うと、そんなことで腰をぬかしたり泣き出したりするようなタマではないんだ私も妹も。しかしさすがに明け方の異国の街角で妙なものを見せられたので、心臓がクチから飛び出そうにびっくりした。顔をしかめて「やだ・・・」と漏らすと男はうれしそうにわらった。うかつだった。防犯用具準備してない。私たちは路地の前を駆け抜けた。身の毛が完全によだってしまって戻らない。でも襲う気はないらしく、男はついては来なかった。ヤツは決して女に困ってたり、ネジぶっとんでそうに見える男じゃなかったので、ちょっと徹夜明けにタワムレてみただけだったのかもしれないけど、でもただのおふざけにしては度がすぎるんじゃないか?私たちはエアポートバスの中でよりによってバナナ食べながら、スペインも結構ストレスのある社会なのかなぁ、と力なく話した。

* * *

 そんなわけで今朝は初めから防犯アラームをスタンバイして外にでた。これまでの国々でも移動のために早朝出発したことはたくさんあったけど、やっぱ昨日のショックが大きかったので、いつもより恐怖感が強い。できることなら誰も近づく気がおきないように、防犯アラームをピヨピヨ鳴らしっぱなしで走り抜けたいぐらいだ。でもさすがにこの時間はうろついてるひとは全然いない。すたこら歩いてランブラス大通りに出ると、少しはひとがいたけど、さほど危ない感じではなかった。今日は、エアポートバスはまだ動いてない時間だから、タクシーをひろって空港にむかった。

 タクシーが途中、ちょっとだけ見たことない道を走ったのでポケットのなかのペッパースプレーを準備した。でもしばらくすると見覚えのある空港への道になったので、ペッパースプレーをポケットにしまい、お金を払う準備をした。タクシーの運転手もコワイ仕事だなと思う。私はこれを身を守るっていう消極的な目的に使おうとしてるけど、これっていくらでも積極的な武器として使えるんだもんね。でもコワイのはお互いさまだ。客のほうにしたってタクシーの運転手が悪い人じゃないって保証はないわけだから。

 ふと昨日の朝の恐怖があたまをよぎった。ペッパースプレーの存在は偉大だ。今日もし同じことがあっても私はコレがあるから耐えられただろう、という気がした。けど、逆に昨日の朝ペッパースプレーをにぎってなくてよかったかもしれない、とも思った。もし昨日コレをすぐ発射できる体勢ににぎっていたら、私は顔めがけてじゃなく、大事なトコロめがけて噴射してしまっただろう。変質者もコワイ稼業だ。暗がりで前を見せた女の子がペッパースプレー持ってないってどうして言い切れる?かけられてしまったら1週間ぐらいは使いものにならないんじゃないだろうか。使いものにならないって、どういうことかよく知らないけど。

 空港へは5時ちょっと前についてしまった。タクシー代を払うと手持ちのお金がほとんどなくなった。いよいよスペインともお別れの感が高まる。それにしてもやっぱ早く来すぎたみたいだ。空港はまだチェックイン手続きの始まる雰囲気なんて微塵も感じられない。私の便は、空港全体で今日になって2本目のフライトだ。日本では国際便だと出発の2時間前にチェックインするのが常識だったけれど、その後はどこの国に行っても2時間前にチェックイン手続きが始まってることのほうが珍しいぐらいだ。特に今日のフライトはスペインからベルギーに飛び、ベルギーからイスタンブールに飛ぶ2本の乗り継ぎだ。ベルギーまでは同じEU加盟国同士だから国内便みたいな扱いで、手続き自体がとても簡略化されてる。そのため余計にチェックイン手続きの開始が遅いようだった。

 ベンチで待っていると3,40分してからだろうか、チェックイン手続きがはじまった。ほとんど一番乗りでチェックインしたけど、X線のセキュリティチェックがまだ動き出していなかったのでまた20分ほど待つことになった。このとき私は身の回りの持ち物のチェックをしておくべきだった。

 セキュリティチェックを通ろうとしたら、X線装置のベルトコンベアーに載せた荷物のほうでストップがかかった。でも呼び止められて確かめてみると、チェックされたのは荷物自体じゃなくて、一緒に通したジャケットだった。いままでセキュリティチェックでひっかかったことがなかったのでなんだろ?と思って立ち止まる。係官がジャケットのポケットを探ってるのをみてなんかピンときた。ヤバイ。ペッパースプレーいれっぱなしだ・・・。

 案の定係官はスプレーを出して、「これは?」って聞いた。ここでヘアースプレーですとか口臭スプレーですとか言えばよかったのかもしれない。でもそのヨコッパラにはあまりにはっきりpepper sprayって書いてあるからごまかせなかった。何のためのものか気づかないでくれ、って願いながら、
「安全のために持ってるんです」
とだけ私は答えた。スプレー類なんて持ち込みできないのはわかってる。それにペッパースプレーともなれば、頑張ればハイジャックにだって使えないことはない危険物だ。

 3人ぐらいの係官が二言三言スペイン語でやりとりをすると、ひとりが私に、英語がわかるか確認してから言った。
「これはスペイン国内では許されていません。届け出の義務があるんです」
 持ち込みするには面倒な手続きを踏まなければならないんだろうか。などと甘いことを考えながら、
「どうやって届ければいいんですか」
と私が訊ねると、係官は無情にも、
「いまここで届ける手段はありません。ご自分でゴミ箱に入れていただくしか」
って答えた。
ペッパースプレーを手に、なんとかいいのがれすることはできないか一瞬考えたけれど、係官が、
「ほかにできることはないんです」
とゴミ箱を指さして促したので、あきらめてぎゅっと目をつぶり、私は長らく旅の友だったペッパースプレーを、自らの手でゴミ箱に葬り去った。

 ショックだ。あまりにショックだった。いままで使うことはなかったけれど幾たびかのシーンで私を勇気づけてきたペッパースプレーだ。比較的安全なアジア・ヨーロッパでは役にたつことはなかったけれど、治安の面で厳しくなってくるアフリカ・中南米でこそ頼みの綱と期待していたのに、その直前に別れなければならないなんて。

 だけど、逆に言えばこれはまたカミサマの思し召しかもしれないと思った。最近私はペッパースプレーがあるからと思って、夜の街だとか危険な地域に対してちょっと無頓着になってきていたかもしれない。たしかに私はこれまでとてもツイてる旅行者だった。知らないひとの家についていっても荷物をとられるでもなく襲われるでもなかった。そのせいで「私は大丈夫」みたいな意識が芽生えてたことは否めない。でも、いままでたまたま悪いことが起こらなかったからって、それを理由にこれからも起こらないと思うなんて身の程を知らない考えだ、というのもモロッコで騙されたときにわかったはずだった(※)。
ガウディ公園にて

※ モロッコでどのように騙されたかは、現在(99年12月)発売中のインターネットマガジン2000年1月号に掲載されています。立ち読みでもいいのでぜひご覧ください。

 ペッパースプレーを持っていると、意識しなくても「金よこせ」って言われたときに刃向かうという選択肢が心のなかに芽生えてしまう。これから先の国々では今までよりも強盗に出会う確率は高くなるのに、「金よこせ」に抵抗して命まであげてしまうなんてのはシャレにならない。いまペッパースプレーを取り上げられることで、私は危険なところに立ち入らないってことや、もし強盗に襲われてしまったら素直にお金あげて命ばかりは見逃してもらうっていう選択肢について再考する機会を得た。いつかこれが幸運に転じるときが来るのかもしれない、と私は思うことにした。負け惜しみだけどね。

* * *

でも実を言うと私、ペッパースプレーだけじゃなくて、同じ後輩からペッパーフォームというのももらってるのだった。これは顔にかけたときに咳は出ないけど、試しに手につけてみたら結構ひりひりするこわいスプレーだった。目を狙えばそれなりに効果があると思う。これから自分を勇気づけなければならないときにはこれをポケットにしのばせよう。変質者ぐらいになら、かけてみる価値あるかもしれないし。