ニョロニョロの棲む湖
   誰かがトイレでハナをかむ。これでもかというぐらい激しくかんでいる。気持ちはよくわかる。こう乾いてちゃハナもカラカラで、かんだって鼻水なんか出ないけど、昨日のホコリがこびりついたような気がして、どうしてもかまずにいられないのだ。

 そのうちハナをかむ音はやんでしずかになった。酸欠を起こして倒れたのかもしれない。そういやゆうべ浅野くんやヘレンも、タバコ吸っただけで麻薬みたいにクラクラくるって言っていた。それどころかタバコに火をつけようにもライターの半分は火がつかなくなってしまったと言っていた。ここ標高5000mの山の上じゃ空気が薄いからなにごとも下界と同じようにいかない。そのおかげで私も夕べはひどい目にあったんだ。

 でもひどい目にあった話をする前に、パラグアイを目指すはずだった私がどうしていまボリビアのアンデス山中にいるのかを話しておかないといけないと思う。

 チャリダーを引退してふつうのバックパッカーになった浅野くん。彼がキャンプ道具なんかを日本に送り返し、出発の準備ができた頃、ちょうど私もホームページの更新が終わった。浅野くんは私と同じでこのあとサンチアゴにもどり、アスンシオン行き直行バスでパラグアイに行くと言っていたから、そこまで一緒に行くだけのつもりで汐見荘を出てサンチアゴに向かった。

 ところが3週間のあいだサンチアゴに洪水をもたらしていた雨雲は、アンデスの山中に国境を封鎖するほどの豪雪を降らせていた。サンチアゴのバス会社の窓口にたずねると、こんどの金曜のバスが出るかどうかも天候次第という。今日現在も雪がガンガン降ってるというその国境が開くまで待っていたら、ヘタすると春になってしまうかもしれない。この時期サンチアゴも毎日雨が降りがちで町は暗く、寒々としていた。国境の雪がやむまで、たとえ3日だってとしても待ちたくなかった。ガイドブックをひねくりまわし、結局私たちは予定よりはるかに遠回りして、チリの北部からボリビア経由でパラグアイを目指すことにしたのだった。

 サンチアゴから24時間のバスでカラマを経由し、さきおととい、私たちはチリ北部のサンペドロ・デ・アタカマについた。大風で巻き上げられたほこりの中に、サッカー少年たちがかすんでみえた。サンペドロ・デ・アタカマの、町はずれのサッカーグラウンドを兼ねたバスターミナルの隅に私たちは降り立った。

 アタカマについて2日のあいだに町なかをうろついて、何軒かのツアー会社をあたり、私たちはボリビアのウユニ塩湖行きのツアーを調べた。調べるといってもどこの旅行会社も同じツアーを持っていて値段は似たり寄ったりだった。私たちは旅行社のひとつで「2泊3日のトランスポートと食費、宿泊費込み、$60」という条件のツアーに申し込んだ。

 申し込み翌日、早めに起きて荷造りした。一昨日から続く強風で、ドアぐちに大量の砂が溜まっていた。昨日買っておいたドリンクのボトルにもうっすら砂がかぶっている。アタカマは不便なところにあり、そのわりにツーリストが結構集まるところなのでイースター島並に物価が高い。レストランで食事をすればふだんの数倍の食費がかかるし、かといってホットドッグみたいなファーストフードの店はないし、宿にキッチンがあるわけでもない。毎日魚の缶詰をパンにはさんで食べていたから、さすがに朝食にまたアジ缶を食べようとしたときにはうんざりした。砂漠地帯の町のせいか、ここの水道水は、ちょっとミネラルの多すぎる塩分の強い水で、お茶をわかしたらわかしたでちょっとしょっぱい紅茶になった。

 約束の8時半。昨日ツアーを予約した旅行社にいくと、こぎれいなバンが外に停まった。バンにはすでに何人かのツーリストが乗り込んでいた。今日から2泊3日でウユニまでの道のりを一緒に旅することになるのは、オランダ人のヘレン、スイス人のダニエルとエイドリアンだった。

 ダニエルとエイドリアンは、昨日一旦出発したけど帰ってきた出戻り組だった。昨日の日中、アタカマは町なかでも風とホコリで視界が20mを切っていて、近場への一日ツアーもすべてキャンセルされたと聞いていた。私と浅野くんがこのツアーに申し込んだときも風は相当な強さで吹き荒れてたから、
「もし、また風が強ければ明日のツアーは出ないかもしれないけど」
とツアー会社のおじさんから念を押されていたぐらいだ。ダニエルたちは昨日、いったん出発したけどすごい砂嵐で、ボリビア−チリ間の道を行こか戻ろかしてるうちに両国の出入国スタンプがあわせて8こも増えてしまったそうだ。結局午後になっても風はおさまらず、これからボリビアに向かっても日暮れまでに1泊目の宿にはたどりつけそうもないということで、最後には彼らはチリ側に戻り、今日出発のツアーに申し込んだ。
「チリに戻ってくるときには車のフロントグラスが割れちゃって、車の中まで嵐だったんだよ」
と、ダニエルは昨日の苦労を語っていた。

 バンはアタカマからそう遠くないところでいったん停まってチリの出国手続きをし、山あいのきれいな舗装道路を走った。ところがやがて舗装はとぎれ、道かどうかもわからない轍の上を走るようになった。ボリビアにはいったようだ。さらに轍の上を走ると山小屋がみえた。山小屋の前に一台の古いランドクルーザーが停まっている。ボンネットあけて、ラジエーターかなんかの修理をしていて、乗ってきたらしいひとたちは外で待たされている。このくそ寒いのに気の毒に。と思った瞬間、外に待たされていたツーリストたちがこっちを見わ〜っと歓声をあげ、車に群がってきた。おもむろにバンのドアをあけるや、
「ここで入れ替えよ」
と私たちに告げた。これから2泊3日間私たちを乗せて走る車・・・それはここまで乗ってきたこぎれいなバンじゃなく、この修理中のランクルだった。

 ここからウユニまでの道のりは大半がボリビアの領内だ。アタカマはチリの国境のすぐ近くにあるんだからボリビアの車が町まで迎えに入って来られればいいんだけど、そこはやはりそれぞれの国の事情があって簡単にいかない。そこでチリ側の旅行社では国境までの送迎を用意して、アタカマから出発するツーリストを連れていく。そしてウユニからのツーリストを乗せてくるボリビア国籍の車と待ち合わせをして、ここで中身の入れ替えをすることになってるらしい。このルートのツアーはボリビア側では以前からポピュラーだったけど、ほんの数年前まではチリ側の送迎とのチームワークがとれていなかったから、ツーリストはウユニからチリ国境まで3日間観光して、4日目にはウユニまで戻ってツアーを終えるというメニューだったらしい。

 車の外に出ると凍りつくような寒さだった。ランクルには運転手のおじさんとその奥さんが乗っていた。あとで気づいたことだけど、ほとんどのランクルのツアーはこういうふうに夫婦セットでやってるみたいだった。旦那は車と荷物の管理、奥さんは旅行者の世話をするんだろう。旅行会社から旅行者を受け取って、ひとグループ送り届けたと思ったら休む間もなくすぐ次のグループをうけとって反対方向に走り出す。ほかの場所ならいざしらず、この標高の高い寒いアンデスで行ったり来たりの仕事は辛そうだ。

 ランクルに乗り換えるとちょっとバンより狭くなって、客5人+夫妻だと、かろうじて手荷物を集めて置いておける余裕がある、という程度だった。運転手のおじさんと奥さんが一番前の列、2列目にヘレンとダニエルとエイドリアン、一番後ろに私と浅野くんと、全員の手荷物が乗った。

 やがて車は、ロッジふうの建物についた。建物の前にはほかにもランクルがたくさん停まっている。ロッジの喫茶室にはいると一隅に小さいテーブルがあって、そこがボリビアの入国手続きだった。パスポートを見せるとおみやげ売りみたいなおじさんが、記念スタンプを押す気軽さで入国スタンプをおしてくれた。

 それから車は山をのぼり始めた。のぼり始めたといってもアタカマもすでに2千数百メートルの高さだったので、登山道を登るような急激なのぼりじゃない。広々とした山の上で、斜面とも気づかないようなだだっぴろい砂利の平地を車は走り続けた。太平洋から押し寄せる雨雲も、さすがにアンデスをはい上がることはあきらめたと見えて、空にはかげりひとつない。気温が低く降水量も極端に少ないこの地域ではサボテンすらも見かけることはまれで、車が走ると、カラカラと乾いた大地からはもうもうと砂埃があがった。風で割れた岩山の間をくぐると、いつ降ったともわからない半透明な雪が、岩を風よけにするように砂礫の上をうねっている。

 しばらくいくと、温泉があった。でも日本みたいなお風呂の体裁を整えた温泉じゃない。ただ山の斜面の1カ所からお湯が出ていて、そこをせきとめて浅い池にしてある。アンデス山脈には活火山も多いんで、温泉も多いし地震もあるんだそうだ。温泉のほとりではみんな靴ぬいで足をひたしている。私も降りていって靴と靴下をぬいで足をひたしてみた。じわっとあったかく、体全体が暖まる。
温泉に足をひたすひとびと

 ヘレンは5人のうちではおそらく一番年上か、あるいは私や浅野くんと同じ歳ぐらいにみえたけど一番のおてんばで、足があったまると冷たい地面にあがって雪を踏んづけ、きゃっきゃ言って行ったりきたりしていた。
 逆に最年少で20才のエイドリアンは慎重そうで、最初、
「僕はいい」
って言っていたけど、私たちがはしゃいでるのを見て最後に、
「やっぱりはいろうかな」
ってはいってきた。けど、慎重が過ぎて池のふちで足をすべらせ、気の毒に、足の裏を切っていた。

 「僕」と書いたからもうお気づきと思うけど、ダニエルの連れのエイドリアンは、ヒゲはやした立派な男だ。エイドリアンていうのはシルベスタ・スタローンの「ロッキー」でカミさんの名前だったんで、私はてっきり女性用の名前かと思っていたけど、男性にもつける名前らしい。ツアーの運転手夫妻からはスペイン語読みで「アドリアーナ」だか「アドリアーノ」とか呼ばれていた。

 ところでこのルートには、ほかのツアーの車もかなり走っている。サンペドロ・デ・アタカマはこのツアーで保ってるような町なので、たいていの旅行会社が毎日何人かでツアーを出発させていた。人数が集まらなくていくつかの旅行会社がジョイントで1台出すことがあるとしても、私たちが見た感じでは同じルートを同じ日程で走ってるランクルは、少なくとも5、6台はあったと見た。

 そういう車の一台がやがてまた池のふちに停まり、降りてきた客のうちフランス人のカップルは、セーター・ジーンズを脱ぎ捨ててかたやトランクスになり、かたやショーツとブラだけになって全身温泉につかっていた。さすがに彼らはあとで絶対風邪ひいたに違いない。温泉といったって、温度は38度あるかないかだったと思うから。

 ところで標高せいかどうか、ツアーのあいだどういうわけかトイレがやたら近くなった。靴をはいてから、岩場の陰にかくれてトイレしようとしたら、みんな同じことを考えるらしく他人のトイレの残骸だらけだった。このひとっ子ひとり住まない山のなかでは公衆トイレなんかないから、どこかでひっそりとすませるぶんにはしかたないだろうけど、こればっかりは土に返らないだろっていうゴミが岩場の陰にわんさと積まれているのは見るにたえない光景だ。ロス(できごと日記「静かな神々の島」参照)がインカトレイルで怒っていたわけがよくわかった。


煮えくり返る沼

 その後、間欠泉のある丘についた。なだらかな斜面にいくつもの小さいクレーターがあり、なかをのぞき込むと沼がにえくりかえっていて、大鍋であずきを煮るようなくたくたという音が聞こえる。あたりには硫黄のにおいが充満していた。空中に勢いよく噴き出した蒸気は冷たい空気で一気に冷やされて真っ白く視界を遮り、向こうを見渡すこともできない。蒸気が噴きでているところはあったかいけれど日陰の気温は零下なので、蒸気が冷やされてかたまった芝生のような氷にびっしりと硫黄がまとわりついて、黄色の鍾乳石をつくりあげていた。蒸気の向こうで吹き上げる間欠泉は、魔術師の操られて踊る蛇のようだった。

 2時頃、車はかなり高い山を越えたあと少し下って、ラグナ・コロラダについた。ラグナはスペイン語で湖、コロラダは色つきの、っていう意味だ。湖は干上がってるのか凍ってるのか、半分は赤っぽく半分は白っぽく、その生きた感じのしない静けさは地球上のものではないかのようだ。私たちはそのほとりにあるロッジにはいった。このロッジはすべての部屋がドミトリーで、ツアー1グループが一室を使うことになるらしかった。こう寒くちゃあ、シングルやダブルじゃ寝てるあいだに凍死しかねない。多少窮屈ではあったけど、一室5人で助かった気がした。まもなく続々とほかのツアーのランクルが入ってきた。


初日のロッジ

 到着してすぐ私は軍パンの下にタイツをはいた。日中でこの気温だと夜はどのぐらい冷えるかわからない。寝袋を持ってない私と浅野くんは、ベッドに置いてある2枚の毛布では確実に死ぬと判断し、管理部屋に予備の毛布を借りにいき、さらに空きベッドから一枚ずつ毛布をうばった。それでも心配で、私は会社のスキー部のひとたちが餞別にくれたエマージェンシーブランケットを広げ、毛布の間に敷いた。

 サンドイッチの昼食のあと外を散歩してみた。さすがに標高が高いんでちょっと歩き回っただけで息がきれた。四六時中肩で息をしてるのも疲れるので宿に戻り、夕方部屋でじっとしていたらやがて夕食の声がかかった。テーブルはチキンの照り焼きにフライドポテト、野菜スープにパンにごはんが並べられた。

 ダニエルはギターを持って旅行していて、お茶のあとに食堂でその腕前を披露すると、ほかのツアーのグループからもぽつりぽつりと歌声があがり、ビートルズなんかのときには食堂が合唱になった。でも正直なところ、それは腕前ばかりのせいじゃない。彼はまわりが霞むような美男子で、その甘いマスク、すらりとのびた手足、麗しい歌声とかざらないしぐさにまわりの女性たちは気もそぞろになっており、彼が歌い出したとたん食堂の天井は女性たちからあふれるハートでうめつくされたほどだった。

 事実今日は昼ご飯と晩ご飯の2回とも彼の隣には別のツアーの女の子が陣取り、ダニエルがエイドリアンと喋ってるのになんだかんだと話しかけていた。そして食後彼が歌い出してまもなく別のツアーから進出してきた親衛隊が彼の隣に陣取ると、さきほどの女の子と視線で熱い攻防を繰り広げ、食堂の室温を2度ほど上昇させた。

 しかし、あったかいのは食堂ばかり。夕方に外気温ははやくも0度を切り、夕食後にはマイナス9度まで下がったらしい。私は部屋に戻ると長袖をありったけ着て、ジャケットを足下にかけ、浅野くんがマレーシア航空からかっぱらってきた毛布を借りてさらにかけ、サンチアゴで買ったエリマキをかぶってベッドにはいった。こんなひと里はなれたところでは、お酒もない、暖房もない、シャワーもない。煮炊きに使う水さえ持参してくるような具合で、電気もかろうじてガソリンで発電器をまわしているだけなので、晩ご飯終わったあとは何もすることがない。9時にはほとんどの部屋のひとたちが寝にはいった。星も凍る夜、私もベッドのなかで、ほどなくコールドスリープにおちそうだった。

 ところが簡単には眠ることができなかった。眠ろうとすると胸を押さえられたように息苦しくなって目がさめてしまう。空気が薄いのが原因なんだろう。起きているときは自発的に呼吸の回数を増やしたりして調節しているけど、寝ると自然と普段の呼吸数になってしまうのかもしれない。寝返りをうつたびにエマージェンシーブランケットががさごそとうるさい。いやに喉と唇がかわく。まどろむと溺れるような苦しみで目が覚めた。2時頃トイレに起きて戻ってくると頭痛がひどく、吐き気もして、ベッドに入ると右を向いても左を向いても息苦しく、だんだん毛布が重くなってきて、朝までに死んでしまうんじゃないかと不安になった。昨日浅野くんが「高山病には水をのめ」といっていたのを思い出し、サンペドロ・デ・アタカマで調達してきたミネラルウォーターの1本をひきずりだして闇のなかでちびりちびりと飲んだ。冷たいので一気に飲むことができない。毛布のなかにいれて抱くようにして体温であたため、ちびりと飲んでふたをしめ、ちびりと飲んでははふたを閉めるを繰り返した。500mlほど飲み干した頃、こころなしか頭痛がやわらぎ、しばらくして眠りに落ちたのだろう。朝になって、誰かがトイレでハナをかむ音で目が覚めたというわけだった。

* * *

 日が昇ると、ヘレンとダニエルたちがおきて外にいった。タフなひとたちだ。私と浅野くんは残ってゆるゆると荷造りをした。浅野くんも頭痛がするといい、ちびちび水をのんでいた。ヘレンたちが戻ってきてから朝食になる。パンとバターとジャムにお茶。だけど食欲はすすまない。

 そんな朝食の場、私の目の前にいたのは、昨日ダニエル争いで最初に彼の隣に陣取っていた女の子だった。彼女は今朝は陣取り合戦に破れたらしくダニエルの定位置の隣を獲得することができなかった。そこで彼女はこちらのテーブルにはみだしてダニエルの向かいを確保することに決めたらしい。ところがそこは私の定位置だったので、成り行き上私がダニエルの定位置に座った。ダニエルはうちのツアーのなかで一番最後に食堂に来たので席にあぶれ、結局彼女のツアーのいちばん向こうっ端の席に落ち着いた。彼女が2m先のダニエルに注いでいる恨めしそうな視線があまりにあからさまだったので、ちょっと申し訳なくて浅野くんと顔を見合わせたけど、彼女は食堂から出てから熱心に彼にまとわりついて挽回していたのでよしとしよう。ま、若い衆、ガンガンやりたまえ。恋に落ちたり破れたりも、また旅の醍醐味のひとつだからね。

 そうだここでひとつうち明けておこう。実はイースター島から汐見荘に戻るまで、デンマークのキムからメールが来なかった。2週間ぶりぐらいでメールが来たと思ったら、彼には好きなひとができてしまって、もうきみをデンマークに呼んであげることができなくなってしまった、って書いてあった。アフリカにいたときもパソコン盗まれたときもずっと励ましてくれた彼だったから、メール読んだときはそうとうショックだった。でも、いつかはそういうことがあるって覚悟はできてた。半年も離れていてお互いのこと考えていられること自体が奇跡だったんだ。つきあってたわけじゃないし、彼も私の気持ちをとても心配しながら書いてくれたから、もう平気。これから時間をかけて、友達になれるようだったらいつか友達として会いたい。嫉妬とか落胆とかを克服して友達になれるなら、それもまたひとつの実りだと思って。


奇岩のあいだを抜ける道
 予定通り出発は9時になった。奇岩のあつまる岩場にでて写真をとり、さらにいくと広い広い平野のまっただ中に出た。平野というか、ゆるやかな山にかこまれた不自然に真っ平らな土地だ。この山の上なのにビッグエッグが何個分か想像もつかない広さ。しかも動物いっぴき、草一本の気配も感じられない。車の走っている方角と平行してタイヤのあとがはるか彼方までつづいており、おそらく1キロぐらい離れた平野の端にミニカーのランクルが走っている。ここはこのだだっぴろい平地全体が道で、どこ走ってもいいんだ。

 平地が終わると、まるっこい岩場にでた。ほかにも車が少しとまっている。車からおりると岩場にウサギがいた。ただ、ウサギだけどしっぽが長い。目がヨコにながくてねむそうな顔をしている。一匹が岩の上に走っていってしまったので見渡すと、いるのは一匹や二匹じゃあなかった。ウサギたちはパンで餌付けされてて、ひとが集まると寄ってくるんだ。野生動物にパンやっていいのか・・・と思ったはずなんだけど気がつくと誘惑にまけてて、おじさんからパンを受け取って与えてみる。おずおずと寄ってきて、ひとの手からひったくってちょっと離れたところにいって、ねむそうな顔でむしゃむしゃパンをかじっている。
ひとを横目でちらとみるウサギ

 耳がやや短いこととしっぽがくるっと巻いてることをのぞけばほんとにウサギそのものだ。だだっぴろい平野のなかに離れ島のようにぽつねんともりあがった岩場に住むウサギ。岩場には張り付いたようなコケがあるだけで、これ以外食べるものは考えられない。このウサギたちは何世代にもわたってこのコケだけをたよりに、この風のつよい岩場に生きてきたのだろうか。めまいがしそうなぐらい、孤立した、過酷な環境だ。

 さらに行くと湖面にあざやかなバラが散った湖に着いた。紺碧の空の下、照らされたバラはフラミンゴだった。私は野生のフラミンゴっていうものをはじめてみた。フラミンゴの羽根の色っていうのはエビとか、赤いものを食べるからだって教えてくれたのは確かキムだった。世界中の動物園では、フラミンゴの羽根を赤くするためにわざわざエビを調達したり、エサを着色したりしてフラミンゴが白くならないように気を使ってるらしい。


フラミンゴのいる湖

 でも、当然このフラミンゴたちは自力で赤いものを食べてこの色を身につけているんだ。この過酷な自然のなかにこんなあざやかな色を身にまとった生き物がいるってことは結構感動的だ。遠くにきれいな羽根のやつが大勢いて、近くには年寄りなのか子供なのか、色の悪いやつがとぼとぼと足もとをほじくっていた。フラミンゴのいるあたりは沼地で近づくことができないけど、岸辺の芦に羽根がいっぱいひっかかってるところがあって、何本かひろって泥をはらった。日に透かすと空に映えてよけい鮮やかさが増した。

 あったかい岩場を探して昼食休憩し、また走って活火山がみえる丘で写真ストップがあり、そのあとかなりキツい、岩がごろついた道を通った。車内ではときどきケムリがあがり、機械の焼け付いたようなにおいがたちこめた。これだけ古いランクルでこのキツい山道を何度も往復しているんだ。かなりガタがきているんだろう。
左からエイドリアン、ヘレン、ダニエル、浅野くん

 そういえばフラミンゴの湖のちょっと先あたりで止まっちゃってる車もあった。頻繁にツアーの往来している道だから、日中異常をきたしたぶんには助けてもらうこともできるだろうけど、夕方、ほかの車がほとんど宿に落ち着いた頃、後続のない状態であの凍てついた山んなかで故障なんかしちゃったらどうなるんだろう?この車だって、初日乗るまえ修理してたんだし、いまもケムリふいてるんだし、リーチかかってると言って差し支えない。想像すると背筋に冷たいものが走った。

 日が傾いた頃、車は塩湖の上を走りはじめた。塩湖といっても死海みたいに水のある湖ではなくて、むかしここに湖があった、とかろうじてわかるような結晶になった塩のまったいらな平原の上だ。塩湖上に線路が延びていて、それに沿って走る。

 やがて変な門のある建物があらわれた。兵隊に車から降りるよう指示されて、建物のなかに入るとまたボリビアの入国審査だった。ここらへんは目に見える国境はないので、走りやすいルートを走るとチリであったりボリビアであったりするのかもしれない。私たちは知らない間にチリにいったん戻っていたようだ。とてもさびれた塩湖のはずれにまるで墓地のようにぽつんとある建物で、ドームみたいな屋根がとても風変わりだった。


サンフアンの町角で
 入国審査でボリビアの入国スタンプのチェックを受け、やがて小さな町、サンフアンにたどりついた。モロッコの、サハラ砂漠のはずれの町メルズーガに似ている、と思った。荒れた野のはてに土で練った塀に囲まれた家々が肩をよせあってたっている。乾いた砂漠のただなかにある町というのは、似たようなたたずまいを見せるものなんだろうか。町のはずれにあるのは教会だけど、ふとした拍子にムスリムの祈りがきこえてきそうな錯覚をおぼえた。

 今日は少なくとも標高3000m台までは下がってきたせいか、だいぶ気温も高く、外に立っているだけで凍死するほどではなさそうだ。荷物をほどいたあと浅野くんと適当に町をひとまわりして小高い丘の上で町を見下ろしていたら、むこうのブロックの広場でダニエルとエイドリアンが地元の子供たちに混じってサッカーをやってるのが見えた。

 その晩の夕食はQuinoaキノアという穀物のスープとトマトスパゲティだった。標高が高いと沸点が低いせいでごはんやスパゲティはだいたいまずくなると聞いてはいたけど、スパゲティはしょっぱすぎるうえ粘土みたいな舌触りでまずかった。ベジタリアンでヤセの大食いのエイドリアンは最初お肉のはいってない料理でよろこんでいたけど、軽く一人前たべただけで、結局おかわりはもらわなかった。

 夕食後、運転手の奥さんがご飯の容器をさげにきて、
「5人の子供のうちのひとりが誕生日なんだけど、仕事だからお祝いもしてやれないのよ」
とぽろっとこぼして行った。何日も泊まりがけの仕事で行ったりきたりしてるあいだ子供たちだけにさせてしまう親心はさぞ切ないだろうと全員ちょっとしんみりした。

 夜トイレに行くと、うちの車だけエンジンがかかっていて周りにオイルや工具がちらばっていた。見ると運転手のおじさんが寒いなか手を真っ黒にしてランクルの修理をしていた。昼間車内にケムリが充満したりしたから、明日手遅れにならないうちにチェックをしているんだろう。昼間運転していたときもランクルのダッシュボードの上には主要な工具が常時載っていて、いつでも修理にとりかかれる状態になっていた。そういえば道で修理中のほかの車の運転手から突然停められて「この形のネジ持ってねぇかなあ」なんて聞かれたこともあった。この国じゃ車の大半はほかの国でかなり使い古した中古だから、車を持つとか運転をする、ってことはすなわち車の修理ができる、とほとんど同じことみたいだ。修理は宿全体の電気が消えるまで続いていた。

 ちなみにこの町には電線があるけど、どっかから電気がきてるわけじゃないらしくて発電器で電気をおこしてるようだった。10時に電気が止まるよといわれ、10時まで本を読み、電気が消えるとみんなおとなしくなった。

* * *

 昨夜眠れなかったぶんまでよく眠れ、翌朝は体力全開になった。昨日より空気が濃くなって、反動が起きたのかもしれなかった。夜明け前に宿を出て町はずれの丘の上で日の出を360度パノラマで楽しんだ。宿に戻ったら運転手のおじさんはもう修理の続きをはじめていた。まもなく奥さんがごはんをもってきてくれた。

 この町では汲み上げた水をあっためてシャワーを浴びることもできる。私は知らなくて利用しなかったけど、ヘレンが浴びて、朝食の前にホカホカ湯気をたてて戻ってきた。ただし彼女はあとからシャワー代を別に請求されたとぼやいていた。1回約1ドルったらしい。宿代や食費はすべてツアー料金に含まれてるはずだったけど、シャワー代だけは含まれてなかったというわけだ。水が貴重で温水をつくるにも大変な手間がかかるこの地域じゃ、無理ないことかもしれないけど。

 9時までに修理は完了したらしく、荷物をまとめて車に積み、出発した。1時間ほど走った頃だろうか、運転手のおじさんは車を小屋の前にとめ、ここでトイレをすますように言った。
「ここを過ぎると当分トイレできるとこないからっておじさん言ってるから」
ってヘレンが言ったので私も用心のため、例によって岩陰でトイレをすませて車にのりこんだ。走り始めるとまもなくまわりはものすごい塩原になった。こりゃあたしかに、当分トイレできるところはなさそうだ。隠れるものなんか、向こう十数キロなにもない。

 ものすごくものすごく、ものすごく遠くまで続いている真っ白な塩原だ。白くて、あまりに平らだから、巨大なスケートリンクに見えた。私はアメリカのデスバレーで1度、ボンネビルってとこで1度塩原っていうのを見ている。デスバレーは茶褐色だったから、ここはちょうどボンネビルによく似た雰囲気だったけれど、そこは車ではいっていいのはほんのちょっとで、歩いてみると塩はすりつぶされて砂のようだった。だけどここの塩っていうのは、車から降りてみるとごつごつした四角い塩の結晶だ。その見渡す限りのごつごつした塩の結晶の上をランクルでばりばりとつき進んでいくのだ。
3日間お世話になったランクル

 しばらくすると塩原の雪景色の上に小さい黒い三角が現れた。その三角は少しずつ大きくなってきて、大きくなるとともにまわりにトゲトゲをまといはじめた。島の上に大勢のひとが立っているようだ。だけど、それは近づくに連れ、人間よりももっと巨大ななにかであることがわかりはじめた。サボテンだった。完全にサボテンでつつまれた、塩原に突き出す島だった。たどりついたのがこのツアー最大の見どころ、イスラデペスカード(魚の島)だった。


イスラ・デ・ペスカド
 島に乗り上げて車は停まった。私たちは尾根づたいに島を歩き始めた。島の高さは100mかそこら、周囲は数キロというところだろうか。塩原からの反射で四方八方からライトアップされた島の上は極端に暑かった。私は今朝から身につけていた防寒具を一気に投げ捨ててTシャツに綿シャツ1枚を重ねただけになった。島はなだらかな丘陵状になっていて、頂上までは歩いて10分か15分くらいだ。尾根の両側に、文字通り足の踏み場もないほどぎっしりとサボテンが生えている。

 奇妙だ。おそろしく奇妙だ。サボテンたちの姿は、ちょうどムーミンに出てくるニョロニョロだった。どのサボテンも巨大で、個性的で、踊るように体をくねらせながら白銀の海を眺めている。この島はまるで大海に浮かぶニョロニョロの王国だ。白い海に浮かぶ黒い島の、緑の住人たち。いつからこの島にはニョロニョロたちが住み着いたんだろうか。この湖にまだ水があった頃からだろうか。それともこの湖にまだ水が張る前、この大地をわがもの顔に占領していたサボテンたちの末裔が、わずかな陸を求めてこの場に集まったのだろうか。
ムックのご両親


濃い塩水で満たされた穴
 そのまま尾根をはずれて丘を下り、1時間ほど歩いてランクルに戻った。そして島の入り江で昼食をおえるとまた塩の海の上を走り出した。また何キロか走ると水の張った穴があって、運転手のおじさんがこの穴は深さ12mあるんだよ、と言った。この穴は雨季にはもっとでっかくなって12mの深さになるんだそうだ。でも深さ2mばかりで、水は緑っぽい色をしていた。水にさわると、死海の水のようにねっとりとした濃い塩水だった。手をあげると塩水がかわいておしろいを塗ったように白くなった。

 イスラ・デ・ペスカドからしばらく走ると突然家が現れた。塩湖のどまんなかにだ。この家は薄茶色いブロックでつくられていて、1個はホテル、1こはおみやげやで、まだつくっている最中のたてものもあった。建物は塩のブロックでつくられていて、屋根はわらぶきだった。外には塩のテーブルセットもあった。雨が降らないという保証あっての塩の応接セットだ。テーブルセットやブロックがつくられている塩は茶の横縞がはいっていた。どうやらこの塩湖の表面を飾っている純白の塩はそれほど深くはなく、ある程度までいくと土が混じって茶色くなってしまうようだ。
塩のブロックでできた家

 さらに走ると塩原にわき水が出ていてそのまわりにランクルの一団がいた。ツアーのランクルの1台がどうやら故障していたらしい。修理のあいだ、私たちはわき水を見に行った。


泡をふきつづけるわき水
 わき水は岩盤の間の細い隙間から出ているようで、沸騰しているようにぶくぶくと空気をはらんでいた。熱いのかと思って浅野くんが試すと、水は冷たかったらしい。へレンと二人でのぞきこんで、
「化学反応なんじゃないかしら」
なんて話し合った。どうもここからそう遠くない山にリオグランデとかなんとかいう川があって、その川は伏線になっているらしい。その水がここまできてわき出てるらしかった。

 へレンとわき水のほとりに腰掛けて、つれづれなるままに、どうして旅に出たのかとかいう話をしていた。へレンはアルゼンチンでサーカスをやってる知り合いを頼って、広告ペインティングの仕事でもしようかと思って来たのだそうだ。ところがサーカスはじゅうぶんな稼ぎがなくてへレンひとり食べさせることも困難そうだったんで、彼女は仕事をあきらめ、友達とそのままちょっと旅行した。

 ヘレンは1人旅なんかしたことなかったしそういう本も読んだことなかったから、南米で女1人で旅するなんてとんでもない、と思っていたけど、途中で友達と別れて、ちょっとだけのつもりで出発してみたらなんだかおもしろくなった。予想したよりもたくさんのひとにも会えるし、想像していたほどに危険でもない。この際だからチケットの期限の6ヶ月までめいっぱい居てみようかと思ってラパスでフライトを変更する予定なのだそうだ。彼女の話をきいていて、ひとり旅に飛び込んだときのおそれと期待、ひとり旅の喜びを知ったときの感動を懐かしく思い出した。

 20分ほどすると、
「バモース(行こか〜)」
と呼ばれて車に乗り込んだ。結局こわれてた車は直らなかったらしい。故障車のほうのツーリストがひとり、こっちに乗ることになった。どの車もおんぼろだから、何かあったときはお互いさまでこうやって助け合って旅行業をやってんだなぁと感心した。うちの車にもじゅうぶんに起こり得たことだけど、ゆうべおじさんが一生懸命直してくれたからなんとかここまで問題なくやってこれたんだろう。

 ついに長々と続いた塩原をはずれ、ものすごくほこりっぽい道を15キロほど走るとウユニの街についた。ウユニの街は予想したよりも、アタカマやサンフアンの街に近い感じだ。土埃をかためたブロックでつくったような、乾いたつち色の街だった。アタカマからこっち、見た街はみんなこういう色合いをしていたから、おそらく南米の砂漠地方の街っていうのは古来こういう感じなんだろう。

 運転手のおじさんが、
「ホテルはどこがいいんだ〜い?」
って聞くので、みんなでさっき相談してたホテルの名を答えると、おじさんは宿のドアぐちまでつれていってくれた。ヘレンからきいた話だけど、ロンプラにおすすめってかいてあるコロケツアーに申し込んだひとは、出発してみたらなにもかもが予定と違っていて、車は壊れるし、ボリビアに入国するときの乗り継ぎは来ないし、宿についたら部屋がないし、食事はみすぼらしいし、話が違ってとても不愉快な思いをしたらしい。その点うちのツアーはというと、一点の曇りもない進行で楽しませてもらって最後は宿まで送り届けてもらい、ほんとうにラッキーだった。

 ただ、よくわからないけど、コロケツアーに申し込んだひとたちの不運は、かならずしもコロケツアーの責任じゃなかったかもしれない。というのは、どうやら各運転手はそれぞれ専属の旅行会社があるわけじゃなく、その日の客の集まり具合によってあっちの旅行会社の下請けも、こっちの旅行会社の下請けもしたりするようだからだ。たまたま当たった車の運転手が出費を抑えようとするひとだったら、食費が削られたり行き先を減らされたりするかもしれない。たまたま乗った車がボロだったら、故障して待たされることもあり得る。どの車に乗るかはそのときの運だから、楽しめるかどうかも運にかかっているといっていい。私たちはたまたま、とても運よく、とてもいい車に乗ったのだった。3日間のお礼をいって奥さんの肩をだいて見送ると、

運転手のおじさんと奥さん

「別の故障車がいるらしいから、これからまた途中まで迎えにいかなくちゃなんないんだよ」
といって二人はふたたび砂漠へと去っていった。その瞬間までも日焼けした顔に笑みを絶やさない夫妻だった。ボリビア人がみんなこんな感じだったら、ボリビアがとっても好きになるだろうなと思った。

 宿にチェックインしてまだ夕方だったので、とりあえず両替をしに出た。ウユニはちょうど市のたつ日だった。街の中央通りには縁日のようにたくさんの屋台がひしめきあい、衣類や日用品が並んでいる。ひとつひとつをのぞきながら歩くと、セーターや石鹸なんかもチリとは全然違う。町なかをさまよい、ツアー会社のおばさんに両替商の場所を聞いたら、私たちは客でもないのにとても親切に教えてくれた。この親切さっていうのは、たとえば先進国なんかの評判のいい旅行会社で懇切丁寧に教えてくれるのとちと違う。商売っ気ぬきで異邦人を歓迎し、教えることが楽しくて教えてくれるという感じだ。ボリビアはますます期待を高まらせてくれた。

 両替をして屋台の商品の値段を聞いてみると、その値段の安さに驚いた。ウールのセーター900円、財布は100円、ポシェット200円。どうやらチリからボリビアに入ると物価は極端に安くなるらしい。リャマとポテトの炒め物は小皿1杯30円、コーンとポテトと焼き肉の定食は一人前90円程度だった。レモネードは1杯10円もしない。久々に買い食いが楽しい国に来たようだ。

 クリーム色の時計台が町の中心になっていて、そのまわりを囲むようにジュースやお菓子の屋台がならんでいる。カフェから、いかにも南米らしい音楽が聞こえていた。これがケーナって楽器だろうか。かわいた音が広場を抜ける風に混じってウユニの空を揺らしている。いままで旅してきた国々できいたことのない音楽だ。乾燥した空気でひびわれた心の、隙間を通り抜けてふるわせていく、なんとも切ない音だった。屋台では本物のアルマジロを使った楽器「チャランゴ」なんかが売られている。カラフルなマントを着て帽子をかぶった女性たちが行き交う。

 そうかここは南米か。塩の湖、サボテンの丘、こわれたランドクルーザー、もうもうとした埃、強い日差し、手編みの帽子、ウールのセーター。アジアっぽい、だけどすごく黒い顔と顔と顔。ついに来たのか南米に。久々に肝を旅の手に掴まれてぐらぐらとゆさぶられた。

 浅野くんはいまから6年前一度南米にきたことがある。そのときの彼が抱いた南米のイメージを、この町にきてやっと見いだしたようだ。時計台の後ろの暮れかけた空を見上げてタバコに火をつけ、
「ここからオレの南米が始まる」
って言った。そうか。私も、アルゼンチンにはいってから2ヶ月もたって、私のイメージの中にある南米に、いまたどり着いたのかもしれない。