欠けたることもなしと思へば
 
 時差ボケしてたわりには夕べがんばって12時まで起きていたおかげで、今日は8時まで寝ることができた。アルゼンチン時間に馴染むのも早そうだ。隣のベッドの女の人は深夜に出かけていたようだからまだ寝ている。窓がなくて明かりが全然入らない部屋だったけれど、私は電気をつけるのを遠慮して扉を少しだけあけ、自分の手元だけ明るくなるようにしてちょっと荷物の整理をし、顔を洗って、キッチンで朝食をつくった。
広場で日曜に観れる
アルゼンチンタンゴ

 朝食を済ませて戻ってきてもまだ彼女は寝ていたから、私はパソコンを出して、アルゼンチンについたというメールを書き、フロッピーディスクに収めた。今日は街歩きをしてだいたいの街の概観をつかみ、インターネットでほうぼうに連絡をいれ、インフォメーションでタンゴショーの場所を聞き、ミゲルに連絡して、ミゲルがヒマだったら一緒に、ヒマじゃなかったらひとりでタンゴ見に行こう。でも同室のこの女性はちょっと素性のわからないひとだから、万一のことを考えてこのひとがチェックアウトするまで待とう。チェックアウトは10時半と書いてあったし、荷物からいって何泊もする予定ではないだろう。

 そう思ってしばらくパソコンひらいて時間をつぶしていたのだけれど、そのうち彼女は起きあがってスラックスをはくとトイレに行った。そして戻ってきて私のパソコンをちらりと眺めると、出ていくのかと思いきやもう一度ベッドに横になった。このひといつまでいるんだろう?時間はとっくに10時半をまわっていて、チェックアウトしていくそぶりもない。もう一泊していくんだろうか。あまり遅くまでこのひとが出ていくのを待っていると、ミゲルに連絡する時間がなくなってしまう。私はパソコンを片付け、貴重品を受付に預けるかどうかちょっと考えた。でもここの受付は言葉が通じない。受付自体にひとがいないこともあるみたいだ。預けたら安心というもんでもない気がした。精密機械です、と言うわけにもいかないし、ただの貴重品だと思って乱暴に動かされたりしたらイヤだし、逆にこれに貴重品がはいっていますよ、と教えることにもなりそうで不安だ。

 いいや、いつも通り部屋に置いておこう。デイパックに鍵かけて、チェーンつけて、ベッドにつないでおけば大丈夫。私は鍵とチェーンを確認し、用心のためデイパックをベッドの下に隠れるように入れて部屋を出た。

 ブエノスの街はにぎやかだ。この街は東京にまさるとも劣らない、郊外まで入れると120万人の巨大な人口をかかえる街で、その中心街は新宿のようなにぎやかさ。ケープタウンと違うところは、その中心の商店街が100mやそこらで終らず、歩いても歩いてもまだにぎやかな道が続いていることだ。ヨーロッパ風の建物も多く教会も美しい。インフォメーションを訪ねるとわかりやすい英語で応対してくれ、タンゴショーをやっているバーなどの一覧をくれた。英語とスペイン語両方で書いてあり、値段や場所の説明も詳しい。なんて進んだ国だろう。物価が高いことを除けば、こんなに安心して観光できるところはそうないかもしれない。

 タンゴショー一覧の冊子には私が探していたタンゴ・バーが載っていたからその部分をコピーし、シティバンクのカウンターにあった封筒にしまった。日中はミゲルは忙しいと思ったので、バーの場所と自分の連絡先を書いて、ヒルトンホテルの受付にあずけた。

 インターネットカフェに行き、無事にチリについた旨ほうぼうにメールを送った。にぎやかな通りを歩いているだけでこころが踊る。商店街をひととおりまわったら日がかげってきたので宿に戻ることにした。もしヒマだったらミゲルが電話をくれるだろう。部屋に戻るとドアはロックされてなくて、カギはドアの取っ手にかけてあった。同室の彼女はやはりチェックアウトしていったらしく、湿ったタオルが椅子の上に置きっぱなしで、枕元の灰皿にタバコがいくつかつぶれていた。日中少し暑くて汗をかいたので、私はシャワーを浴びることにした。


アンデス山脈は雪景色

 デイパックをベッドの下から引きずり出したとき、なんか軽いな、と思ったのはさほど意識には残らなかった。カギをはずしバッグを開けて、周辺機器の入っている袋の上に貴重品ベルトとカメラを入れ、またチャックをしめてカギをかけた。そしてスポーツバッグからお風呂セットを出そうとしたら、スポーツバッグの上からカタンと音をたてて金具がおちた。なんだ?昨日折れたジッパーのつまみはケープで捨ててきたんだから、もう一個も折れちゃったってことか。折れたジッパーのつまみを捨て、残った小さな輪をつかんでジッパーを開け、お風呂セットを持ってバスルームに行った。  

 バスルームでシャワーを浴びるとき、お風呂セットを見たら、ケープタウンで買ったハンドクリームがはいってない。あれ?移動の最中に袋から出ちゃったか?だとしたらスポーツバッグの中でつぶれて漏れたりしてないといいんだけど。考えながらシャワーを終え、部屋にもどってスポーツバッグをもういちど開けた。そして本や薬の袋をどけて底をのぞいたけどクリームがない。なんだ?ケープタウンで忘れてきたはずはないしどこかで落としたわけもないから、同室に泊まった彼女が持っていったんだろうか?そうかそれでジッパーの取っ手が折れていたんだな、と妙に納得して、今日のお小遣い帳でもつけようとデイパックをひらいた。さっき貴重品ベルトを入れたときと同じ光景だ。周辺機器の袋があって、カメラがあって、貴重品ベルトがあって。それで。

 それで?

 わっと血の気がひいた。それで?それでパソコンは?周辺機器の袋はいつもパソコンの下にいれている。その袋が一番上に出ているということはどういうことなんだろう。デイパックをベッドの下から引っ張り出したときに軽いと思ったのはどういうことなんだろう。チャックの取っ手が折れていたってことは。ハンドクリームがないっていうことは。パソコンがないっていうことは?

 鼓動が早くなって、立ちあがって、バッグの表に出ていた洋服の包みと薬の袋をどけて、ベッドのカバーをどけ、毛布をどけてみた。スポーツバッグをもちあげ、ベッドの下をのぞいてみた。耳鳴りがしはじめて、緊張で手が冷たくなってきて、デイパックの中の周辺機器の袋を上げたり下げたりして、最後には隣のベッドのシーツの下やクローゼットの中、枕元の小物入れまで全部開けた。

 盗まれちゃった。

 開いていた扉、こわれていたスポーツバッグの取っ手。一瞥した彼女の目と、またベッドにはいって急にいびきをかき始めたときの光景、ビニールバッグだけの荷物。そうだ、旅行者じゃなかった。女のひとだから、大丈夫だと思った。あまり貧しい身なりじゃなかったから、泥棒なんかしないだろうとたかをくくっていた。深夜に出ていって、真夜中に帰ってきたということは。街娼だったと考えてもおかしくない。違ったとしても、決して豊かなひとじゃなかった。気づけたはずだった。カギがかかっているバッグから盗む方法はある。知っていたんだ、チャックを顔からみてタテにもって右と左の生地をひっぱり、かかったカギはそのままで、ポテトチップの袋を開けるみたいにひらく方法。だからデイパックを部屋に置いておくときは、そのやりかたができないように、防御策として荷物をパンパンにいれておくことに、以前はしていた。でもいつのまにか気がゆるんで、そういうことするのも忘れていた。カギをかけたから、大丈夫だと思った。いままで何の問題もなかったから、これからもないと思いこんでいた。

 パソコン盗まれちゃった。

 動揺で何をしたらいいのかわからなくなった。受付に走っていって、英語の全くわからないおじいさんに英語で説明しようとして、戻って会話集をひっぱりだし、泥棒にとられました、を指差す。どこで、と聞かれて、部屋で、と言おうとして、スペイン語と間違えてずっとフランス語で「部屋」と言っていた。おじいさんはわからなくて、会話集の上や下の行を読んで、
「銃でおどされたのか?タクシーに置き忘れたのか?」
と訊ねた。私は警察を呼んでくださいとくりかえしているんだけど、おじいさんは客人と顔を見合わせクビをひねったきりスペイン語で何かをつぶやくばかり。

 私はどうしたらいいのかわからなくなって電話の受話器をとり、ヒルトンに電話をしてミゲルを呼び出してもらった。ミゲルは電話に出ると、私の雰囲気を察知して、
「どうした、ノーサン」
と訊ねた。
「パソコン盗られちゃったの」
私はいきさつを一気に話し、そして受付のおじいさんと話が全然通じないから通訳をお願いできないか頼んだ。彼は、
「おぉノーサン、なんてことだ」
とつぶやくと私におじいさんと代わるよう促し、少し話をしてからもういちど私にかわり、
「いいかいノーサン、そこからすぐ近くに警察があるそうだから、そこに行って届けるんだ。私はこれからお客さんと約束あるけど、いま電話して1時間遅らせてもらうから。もし警察で英語が通じなかったら通訳をしてあげるからすぐに電話するんだよ。いいね落ち着いて。あわてないで、残った荷物の安全を確認して、車に気をつけて行くんだよ」

 私はほとんどの荷物をベッドの上にちらかしたまま出てきてしまったことに気づいて部屋に戻り、デイパックの内ポケットからいくつかの封筒を取り出してみた。そしたら現金を入れていた袋がはいっていない。USドルを数百ドルと、それから妹と落ち合ったときに持ってきてもらって、その後両替せずに持ってきてしまった数万円。こういう犯罪に備えてトラベラーズチェックがあるのだから、本当ならあまり現金はもちあるくべきじゃないけど、南米はドルの現金が必要になると聞いて、できるだけ手元に残しておいたのだ。パソコンケースの上に入っていたイーサネットカードやネットワークケーブル、モジュラーケーブルなどもない。

 パソコンを、盗られてしまった。受付で、ゆうべ同室だった女性の名前をたずね、紙にひかえて警察に向かった。もうあたりは暗くなっていた。車が行き交う通りをぼう然と歩き、警察署に入った。受付では忙しそうに警察官が電話をしたり端末を動かしたりしている。ひとりがかろうじて英語のわかるひとだったので、私は、
「泥棒にお金と持ち物をとられました」
と告げた。警察官は私が旅行者かどうか聞き、盗難にあった場所を聞き、保険に入っているか聞いた。そして、
「じゃあこれから保険の手続きに必要な書類を作りますから、盗られたものをリストアップしてください」
といわれた。

 私がなくなったものをリストアップすると彼は周辺機器の使い道とか、機種や型番をときどき訊ねて逐一スペイン語に翻訳し、書類をつくった。1時間ほどかけて盗難証明ができ、
「これを保険会社への請求用に提出してください。それじゃ」
と言われたときになってやっと、パソコンはもう二度と戻ってこないということが認識できた。警察はもちろん宿を見に来たりもしないし、指紋をとったりもしないし、犯人の照会をしたりもしないんだ。盗られたものを探したりもしないし、万一見つかった場合の私の連絡先も聞かなかった。

 断たれたのだ。私とパソコンの関係はもはや断たれたのだ。もう二度と取りかえせないのだ。キムのために英語に訳していたできごと日記も、このまえ文字化けだったから再送しようと思っていたメールも、ケープタウンでとったペンギンの写真も、アフリカの後半1ヶ月ぶんの、手書きのメモから思い起こして打ちなおしていた日記も、もう返ってくることはないんだ。

 私は警察署の公衆電話からヒルトンに電話をし、無事届け出が終ったことをミゲルに告げた。ミゲルはすごく気の毒がって、くりかえし気をつけるように言って心配してくれた。
 警察署を出ると、雨になっていた。

 部屋に戻っても何も手につかず、ただぼう然と、しみのできた高い天井をみあげた。胸が苦しく、ただ「終った」という言葉だけが頭のまわりをぐるぐると廻って、これまでの旅の日々が浮かんだり、世界地図が浮かんだり、脈絡なく友達の顔が浮かんだりした。終った。もうダメなんだ。ホームページもつくれないし、もう予定通りの旅はつづけられない。予定どおりもなにも、予算も予定も全部エクセルに入れていたから、この先どうするんだか、どこでいくら使っていいんだか、何日費やすつもりだったんだかもさっぱりわからなくなってしまった。記憶をたどって、銀行の残金がいくらぐらいだったかとか、そんなことを考えてもみたけれど、じゃあこの先旅を続けるとして、ジャストネットとのホームページつくる約束はどうすんだ、とか、じゃあ新しいパソコン買うのか、とか、そんなの買ったらもう日本に帰るお金もない、とか、全くまとまりのない思考が浮かんだり消えたりして、その合間に自分の軽率で安易な「防犯対策」への後悔が、ときどき波のように押し寄せてきて胸をしめつけた。

 終ったんだ。何度目かにその考えが浮かんだとき、私は起きあがり、亡霊のように街へと歩き出した。そしてインターネットカフェに席をとり、家と、何人かの友達と、ジャストネットにメールを打った。パソコンを盗まれました。つきましては、これから旅が続けられるかどうか、検討しなければなりません、と。

 その晩は起きているとつらくて、かといって心細くて電気を消すことができなくて、インターネットカフェから戻ると電気をつけたまますぐに毛布にもぐりこんだ。今日は同室者は誰もいなくて、今度こそツインをひとり占めだったけど、だからなんだということもない。もう盗られるものはないし、これが昨日だったらよかったのにとか、この宿を選んだのは間違いだったとか、だから相部屋なんか泊まってちゃダメだって言ったのにとか、どうして受付にあずけておかなかったんだとか、錯綜した考えが頭を占領していた。寝たら寝たで夜中に何度も目が覚め、眠れば日本に戻った夢をみたりして、浅くつらい眠りだった。

* * *

 翌日は起きてまたすぐインターネットカフェに向かった。観光する気にはなれなかった。いままで、つらいことがあればだいたい日記にぶつけて、それで気持ちをまぎらわしていたけどいまはその聞き役がどっかに行ってしまったから、逃げこむところはインターネットカフェぐらいだった。

 日本のほうでは私のメールを見てあわただしい動きがあったようだ。ジャストネットの担当さんが、なんとか旅が続けられるようにと努力してみます、とメールを下さっていた。実家のほうでは慌てふためいて友だちに電話したりしたらしい。

 それからいくつかのメールを見てちょっとおどろいた。昨日メールを書いた何人かの友だちのほかに、ホームページを読んでいつもメールをくれる方たちから、励ましや心配してくれるメールがたくさんはいっていたのだ。ジャストネットの担当さんが掲示板で応援を頼み、メーリングリストで協力を呼びかけてくれたのだった。事件から半日たたないうちに、前からメールを交換して応援してもらっていたひとから、パソコンを使わせていただけるという申し出があった。古い機種だけど、ホームページを作るのには困らないぐらいの性能がある。だけど旅を続けるお金がもうない。アルゼンチンみたいに、南米のなかでももっとも安全な国で盗られてしまったんだから、どうせまた盗られちゃう。もう続けられない。


アルゼンチンとチリの国境はアンデス山脈の上
 メールを読み、書き終わって一旦部屋に戻った。そして、これからまた紙日記だな、と思いながら日記を書こうとしたけど、有頂天だった一昨日の日記も、盗まれた昨日の日記も、思い起こすと動悸が激しくなって書くことができなかった。部屋はすぐ裏手にバスルームがあるせいかカビのにおいがして昼間でも暗くしめっぽい。

 もしかして「ちょっとふざけただけ」というようにどこかにパソコンが隠れてはいないかとクロゼットや引出しを何度も開けてみた。どこの誰がちょっとふざけて隠すためにひとのカギかかってるリュックから荷物ひっぱり出すというの。わかってはいるけど、ほんの少しの期待をどうしてもふりはらうことができなくて、私は彼女の寝ていたベッドの毛布をめくったり、ベッドの下を何度ものぞきこむことを続けた。

 悔やんでも悔やんでも悔やみきれるものではなく、起きているとつらくて私はまた布団にもぐりこんで殻をとじるように眠った。起きては眠り、眠っては起き、朦朧としてまた眠った。何度か目を覚ましたあと、やっと、まだ盗られたものを正確に確認していないことに気づき、デイパックを全部ベッドの上に出してみた。なぜ警察に行く前に正確に確認してなかったか自分でも不思議だった。気が動転していたこともあるけれど、私の被害品はすでに旅行保険の保険限度額を超えていたから、これ以上なくなったものを確認してひとつ残らず申請しても、悔しさが増すだけで別に意味はないと思ったからかもしれない。

 だけど、デイパックをひっくりかえしたとき意外なものが転がり出た。現金袋だ。昨日探したときに見つからなかったのになぜ?そうか、彼女がチェックインしてきたときちょうど私は現金を数えようとしていて、あわててデイパックの中に押しこんだから、隠しポケットの中には入れていなかったんだ。彼女はおそらくはまず私のスポーツバッグを覗いてハンドクリームを手にとり、そのあとデイパックがベッドの下にあることに気づき、パソコンを盗って思わぬ獲物に喜び、それ以上の貴重品があるとは思わず急いで立ち去ったんじゃないだろうか。

 実のところ、これを見るまでは、私は彼女がパソコンをとっていったのかどうか断言できないとも思っていた。というのは、私がもどったとき部屋のカギはあきっぱなしで、入ろうと思えば彼女以外でもいくらでも入ることができたから。でも、パソコンを持ってるのを知っているのは彼女だけだったし、またハンドクリームといういかにも女性らしいものが消えていたこともあり、彼女なんじゃないか、程度に思っていたんだけど、現金が残っていたことで確信を強めた。目当てなく入った泥棒だったら、パソコン見つけただけで他のものを一切探すことなく出ていきはしないだろう。パソコンだけを盗っていったのは、パソコンだけが目当てだったからだ。パソコンがここに入ってるのを知っていたからだ。

 それでも、現金が出てきたことはいいことだった。現金がなくなってないということは、私がなくしたのはパソコンだけだ。申し出てもらったパソコンをもし本当に使わせてもらっていいのなら、旅を続けてもいいんだろうか。半分朦朧とした頭で、私はこの先考えていたルートを思いおこし始めた。

 でもそれから2、3日はただインターネットカフェとの往復だった。街の中心にあるインターネットカフェまでの30分の道のりを歩いているといくぶんか気がまぎれ、旅の相棒を失ったさびしさをごまかすことができた。部屋にいると自分に腹がたってしょうがないし、事件翌日にはミゲルももうカナダに帰国してしまっていたから、この街で話ができるひとはひとりもいないという事実をかみしめることもこわかった。私はインターネットの向こうにいるひとたちに自分をなんとかつなぎとめてもらおうと思っているかのようだった。幸いにして、たくさんのひとたちからメールが入っていて、ひとつひとつが私を力づける内容だった。

 そういうメールをひとつひとつ読んでいって、一番目がさめたのは、江島の姐御(できごと日記「ナポレオンフィッシュと泳ぐ日」参照)からのメールだった。エジプトであれだけアフリカ情報を教えてもらい、世話になっていながら、その後ほとんど連絡をとっていなかった江島の姐御から、励ましと、彼女の旅のその後について長いメールがはいっていたのだった。

 江島の姐御は私が去ったあと無事ダイビングのライセンスを取得したけど、風邪が治りきらずまた38度の熱を出し、そのあともしばらく体調が回復するまでサラ・ダイバースのドミトリーで沈没していたのだそうだ。サラを去ってからは紅海をわたりシナイ山に登り、さらにヨルダンに渡って無事帰国の途についたらしい。しかし帰国後、静養の成果をすべて打ち砕くような過酷なできごとが彼女を待っていた。

 まず職場でのストレスの最大の原因だったセクハラ上司は戻ってからもまったく行状があらたまっておらず、あいかわらず彼女は彼にわずらわされつづけることになった。それから、実は彼女は数年前にあるひとにお金を貸していたんだけど、そのひとがなかなか返してくれず、返済をお願いするとそのたびにいやがらせの手紙を送りかえしてくる始末で、そのことで彼女はずっと悩んでいるということもわかった。しかしそれにも増してショックなことが起こった。彼女をいつも励ましてくれたお父さんが突然亡くなってしまったのだ。

 ずっと元気で病気ひとつせず、70歳過ぎても仕事も現役で、彼女がストレスでまいっていたりすると「若いモンがなんだ」といつも元気づけてくれたお父さんだった。最後に会えなかったことがどれほどつらかっただろう。彼女はメールで嘆きを顕わにしていなかったけどそれが逆に痛々しかった。ほんとなら近いうちに職場を変えて、お金をためたらあとは自分のやりたいようにやろう、と思っていたけど、お父さんが急になくなってしまった今、お母さんをささえられるのは自分しかいないと思い、もうしばらくはいまの職場で続けるつもりだ、と書いてあった。

 そのメールを読んだとき、私はなにをやってるんだろう、と思った。なんだってパソコンなくなったぐらいで何日も何日もいじけてるんだろう。それも自分のミスで起こったことにだよ。

 だいいち私はなにも失ってなんかいないじゃないか。いくら旅の相棒といったって、相手はお金でいくらでも買える機械だよ。日本に帰って人並みの仕事について、節約して半年も働けば買えるものじゃないか。なくなった写真の風景は私の頭に焼き付いているし、失った日記はまた書けばいいことだ。

 考えてみればケープタウンについた数日後、私は印刷やに行って、それまで撮った写真500メガと、ホームページの履歴、それからアフリカまでの日記をすべてCD−ROMに焼いて荷物と一緒に日本に送っている。あの荷物が無事家に届いてくれれば、私のなくしたデータはそれ以降の写真と日記、ホームページの更新分、それとメールぐらいじゃないだろうか。

 去年パソコンを交換したとき以降もらったメールも送ったメールも、それは膨大な量で、一生の宝になると思ったものも多かったから、それがいま、私の知らないところで、まったくその価値を知らないひとの手によってフォーマットされようとしてるということを考えるとハラワタがちぎれるぐらいくやしい。でもメールはまた書けばいいじゃないの。友だち自体を失ったわけじゃないんだから。本当になくして惜しまねばならないのはパソコンでもデータでもなく、ひとであり、機会であり、そしてこの旅だ。私は何も失っていない。このことに気づくのに、姐御の不幸を知らねばなかったのは本当に申し訳なく残念なことだ。でもこの一通のメールで私はやっと目を覚ました。

 ほかのメールを開くと、私が頼りなくインターネットカフェと部屋を往復している間にも日本では着々と私の新しい環境を整える準備がすすんでいることが伝えられていた。初日に申し出てくれた「とももさん」が東芝のリブレット60を提供してくださることになり、友達のひとりの熱心なリブレットユーザーがセットアップをひきうけてくれることになった。旧友と、そしてホームページを前から見てくれてたひとや、旅の途中で会ったひとたちから、ほんとにいっぱい励ましのメールをもらいもし、掲示板にも書きこんでもらった。多くが、私の旅の継続を望んでくれて、なくなったのがパソコンだけでよかったじゃないのと喜んでくれるものだった。力を貸すから、知恵を貸すから、金なら貸すから、だから帰ってくるな。おまえはまだ帰ってきちゃいかんと。気が済むまでやってこいと。

 私はこのときになってやっと、もう私の旅が、私の意思で投げ出したり諦めたりすることのできないものになってることを知った。どこの世界に旅することを望んでもらって旅をできるひとがいるだろうか。旅をすることにこんなに力を貸してもらえるひとが一体ほかにいるだろうか、と。

 旅を続けよう。
 私は彼らの期待に応えられるほどぜんぜん強くなってないし賢くもなっていなくて、あいかわらずのボケナス旅行者だけど、この旅にほんの少しでも価値があると思ってもらえるなら。
 旅を続けよう。
 愚痴も多く誤解も多く、何の役に立つのかわからないホームページだけど、なくなることを惜しんでくれるひとがいるのなら。私の道のりを共に旅し、私の出会いと別れを共に経験し、喜びと悲しみを分かち合ってくれるひとがいるのなら。最後までこのホームページも続けよう。私だけの旅でないのなら私に選ぶ権利があるわけもなく。私は続けるんだ。ちゃんと立って、歩いて、旅を続けよう。へばってる場合じゃないでしょう。

 数日の眠りから目覚め、翌朝私はバスターミナルへ出かけていって、チリへのバスを予約した。サンチアゴに、前にメールをくれて、寄ってくださいって書いてくれていた現地在住の武井あきこさんという女性がいたからだった。さしあたり今回の件についてホームページを更新したいので、パソコンつかわせていただけませんか、とお願いのメールを送ると、彼女は帰国直前の忙しい身にもかかわらず、よろこんで、と承諾してくれた。だからいま私はあきこさんちで、パソコン使わせてもらってるばかりか家に泊めてまでいただいてホームページを更新している。
いまお世話になっているあきこさん

 皮肉にもパソコンがなくなったぶん荷物が軽くなったので、私はアルゼンチンでスペイン語の分厚い辞書を買った。そしてブエノス出発前に、私は往生際悪く、「日本語システムインストール済みIBMパソコンThinkPad240買いたし、内容無変更の場合$xxxx、内容変更済みの場合$xxxx」と紙に書いてメールアドレスを記し、20枚ほどコピーして中心街のへんのごみ箱や街灯の柱に貼った。パソコンが私のもとに戻ってくる道すじが、皆無のままアルゼンチンを発ってしまいたくなかったからだった。でも結局バスで出発したとき、いかにバカなことをしたかよくわかった。バスターミナルを出発して10分たっても20分たっても30分たってもなお街はおわらず、ブエノスアイレスがどれほどでかい街かってことを思い知ったからだ。彼女だって、あの宿に泊まったぐらいだから近くに住んでるひとじゃなかろう。こんなおっきな街で、たまたま彼女から買い取ったひとが、たまたまこのシティセンターを歩き、たった20枚の張り紙に目を留めるなんてありえない。パソコンはもう戻ってこない。自分のしたことだから、もうそのことは振りかえらないことにした。この先をどうやって続けていくかってことだけを考よう。

 掲示板をみると耳のイタイ言葉がいくつかならんでいて、いまもあきこさんちでお世話になっちゃってるうえこの忙しいときにご迷惑かけてしまってて、たしかにそのとおりだなあ、と思ったりもする。でも、もう決めたんだ。いま私の旅とホームページを続けるのにひとの世話になるよりほかに方法はなく、いさぎよくこの旅とホームページを諦めるよりは、私はいさぎよくひとの世話になることにしたんだ。甘えと言われても、開き直ってるといわれても。どれだけひとりで旅できるかより、どれだけたくさんのひとと旅できるかを、私の旅の目標にするんだ。