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サンパウロ紀行
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トルコでお世話になった伊藤さんのいとこの、福井さんちにお邪魔したあと、またシウダーデルエステの宿で浅野くんと落ち合って夜行バスにのり、サンパウロにやってきた。目指す宿は日本人街のはずれにある。地下鉄のサンジョアキン駅から急な坂を下って、アパートと小さな商店がひしめきあう界隈に日本人宿のペンソン荒木を探し当てた。呼び鈴の音を聞いてヌーッと現れた日本人のおばさんがペンソン荒木のオーナーだ。小柄なわりにすごく顔が大きいひとだ。その大きい顔が近づいてきて鉄格子と扉を開け、 「どうぞどうぞ。あんたたち荷物ここに置いたらエエよ。そこにコーヒーあるからね。飲んだらエエのよ」 と言いながら、なかの居間に通してくれた。
荒木のおばさんが気をまわして、
ロビーで荷物を下ろしソファでくつろいで、部屋の準備ができるのを待っていたら、景山くんていうひとに再会した。私がパソコンとられて失意のうちにブエノスアイレスをあとにした日、中華レストランで会ってちょっとだけグチを聞いてもらったひとだ。彼はその後もしばらくブエノスアイレスにいたんで、私がイースター島で会った加藤くんにも同じ宿で会ったそうだ。南米を旅する日本人旅行者は、かなりの確率で情報をあつめに日本人宿に投宿するので、日本人宿をハシゴしてると必ずといっていいほど知ってるひとに会う。お互いは面識がなくても話してみると共通の知り合いがいたりすることも多い。
ロビーのソファにはほかにちょびヒゲはやしたおじさんが座っていて、自分はこのあいだまで汐見荘にいたと語った。私が出たすぐあとの頃にいたらしい。
最後に出てきたシンさんはその竹田くんが師と仰ぐひとだ。どのように師かというと、女の子を口説かせたらスペイン語だろうがポルトガル語だろうが英語、中国語、日本語だろうが右に出るものはないかららしい。彼は稀代の二枚目ってわけじゃないけれど気の強さと金まわりのよさで女の子をとりこにするらしくって、落とした女の子の話をさせれば指が30本あってもまだたりない。いま33才だけど30にすら見えない。若い頃はかなり危ない橋もわたってて、少年院にもお世話になってたし、クスリやってるとこを見つかってアメリカでくさい飯を食ったこともある。ブラジルに10才以上年下の内縁のツマがいるのにチリにも彼女がいて、ある日落ち込んでると思ったら、
ところが私が懐かしく汐見荘の面々を思いだしていると、このちょびヒゲのおじさん、シンさんの話題が出たとたんに
さて、本館もそうだったけど、別館もドアと鉄格子の二重扉になっていた。ドアには「ノックされても絶対にドアを開けないように。いままでに2度強盗にはいられています」という貼り紙がしてあった。やっぱここはサンパウロだ。気を引き締めて行こう。ここまでは方角が同じだったので浅野くんとずっと一緒に来たけれど、サンパウロから先は久々に道連れナシの旅だ。浅野くんと道連れになってる間にどうしたって少しは気がゆるんでた部分があるだろうから、ここにいる間にリハビリをしよう。
やけに天井ばかり高い薄暗い廊下を通り、案内された部屋に荷物をおろした。さっき入ったっていう女の子は外出しているようだ。荷物がベッドのひとつに置いてある。私の部屋は廊下と直結した居間をベニヤ板でむりやり仕切って部屋にしたような格好で窓がない。壁と天井のあいだに隙間があって廊下の物音がすべて聞こえ、天井からはシャンデリアが下がっていたような長いヒモが、まるで首吊りナワみたいにぶらりんとぶらさがっていて不気味だ。この部屋だけはドアも物置のように小さかった。この界隈は建物が密集しているので庭と呼べるスペースもごくわずかだ。浅野くんの部屋をたずねてみてもキッチンにいても、全館が日光に乏しくうすら寒かった。ブラジルなんて全土が生まれてから死ぬまでずっと夏かと思っていたらそうでもないらしい。曇天のサンパウロは肌寒いぐらいで、Tシャツと長袖シャツの上にジャケットを着てちょうどよかった。
輸入されてるものばかりじゃない。とにかくありとあらゆる日本食が揃っていた。お米、餅、あんこ、寿司、刺身、おにぎり、たくあん、餃子、ちくわ、まんじゅう、豆腐、納豆。こっちで作られたものは輸入品よりはだいぶ安いようだ。それにしてもここまで揃えるか、っていう品揃え。
とりあえずおなかがすいたので外食しようとは思ったものの、やっぱり、高い食材使ってる純和食のレストランはそこそこの値段するようだ。日系の「レストランテ佐藤」という食堂にはいって適当に魚のフライ定食をたのんだ。アジかなんかのまるごとフライにかぼちゃの煮付け、トマトとキャベツの炒め物に、フェイジョアンっていうあずきとベーコンの煮付け1皿、ごはんなどが出てきて2ドルぐらい。和食じゃないけど、やや和風でおいしい。テーブル上には「さくら」というメーカーのしょうゆが置いてあった。店を出るとき会計のおばちゃんは、日本語でお勘定をしてくれた。そして、
そのあと浅野くんは歯医者の予約に行った。私は街に残り、夕食の材料を買いに歩きまわった。私たちが泊まってる荒木の別館のキッチンには鍋類や食器もかなりあり、冷蔵庫も自由に使っていいようになっている。さっそく日本食の料理を何か作ろうと決めていた。それにしてもなんてエキサイティングな街だろう。こんな変な街見たことないので、寒さも忘れ、夜行でついたばかりの疲れも忘れて歩きつづけた。
この街はすごい。日系3世、4世の時代になってるとはいえ相当日本語が聞こえる。ところがこの日本語話してるおばちゃんたち、日本語話してる合間に突然わけわからないことを言い出す。よく聞いてたら、前置きなしにポルトガル語と日本語を行ったりきたりしてるんだ。日本語もよく聞いていると少しだけ違う。ひとから何か聞かれて、ふつうなら「違うの」とか言うべきところでいきなり「ノ!」っていって、また普通の日本語に戻る。ごちゃまぜだ。こっちの生活に適した形にブラジリアン日本語ができあがってるんだ。
興奮しきって街をぐーるぐるぐるぐる歩いていたので、帰ったら夕方だった。浅野くんはすでに戻ってきていた。聞いてた話しによるとここの日系人センターの病院は混んでてなかなか予約が入れられないということだったけど、いまは忙しくない時期らしくて今日からもう治療を始めてもらえたようだ。昼食のあと宿に戻ってあわてて歯をみがいて行ったら、歯はキレイだったけどクチのまわりにハミガキ粉が白く残っていて、きれいな女の先生に鏡を見せられたときに気づいて赤面してしまったそうだ。
晩ご飯つくろうとしたら、今日私たちが来る前にチェックインしたという女の子と男の子がキッチンにいてちょうど早めの夕ご飯を済ませたところだった。余ったからとおむすびをお裾分けしてもらった。同室になった女の子は知佳ちゃんといい大阪出身、もうひとりの男の子は奈良出身で淳くんと言った。どちらも28才だった。私と浅野くんはポークカレーを作った。その間純くんたちがビールを3本買ってきてたので、私たちもお相伴にあずかった。
淳くんはちょっと小柄だけど筋肉質で浅黒く、スポーツインストラクターみたいな印象のひとだ。中南米をぐるっとひとまわりするつもりで中米から下ってきて、マッサージ師としてたまに働きながら旅しているらしい。語学学校には何度か入っているらしく、スペイン語はそこそこ不自由しないぐらい話せると言っていた。恋に落ちやすいわりに責任感のある男の子で、マナウスっていう街で25才の現地人の女の子と恋に落ちたけど、相手の女の子が処女だと言ったので不安を感じて指も触れないで逃げてきたそうだ。ホントかどうかは知らないよ。そしてアマゾンを下ってポルタレーザの街にたどりつき、マッサージの仕事を始めたようとしたものの、ブラジルはポルトガル語圏なんでいろいろストレスがたまったらしい。そんなとき最初に来たお客で、彼を支えてくれたのがいま同じアパートに住んでいる1つ年下のブラジル人の彼女なんだという。つきあいはじめていま2ヶ月になり、言葉や習慣の違いで喧嘩したり、彼女のやきもちが原因で別れそうになったこともあったけど、結局もちなおしていまはとってもハッピーなのだそうだ。
ちなみにこの彼女、なんでも9人兄弟の長女で若い頃から苦労して育ち、いまは体が弱くて仕事には就いていないらしい。結婚したことはないけど、16のときに生んだ11才の娘がいる。彼女はスペイン語がわかるので、最初の頃はずいぶん助けてもらったけど、このままじゃ会話もじゅうぶんじゃないし、ここでしばらく働き続けていくならどうせポルトガル語が必要だから、ポルトガル語の参考書を買うためにわざわざ飛行機でサンパウロまで出てきたのだそうだ。彼のはなしを聞いていて知佳ちゃんが、
いっぽう知佳ちゃんは、かたせ梨乃系の美女で、両耳で合計5このピアスをあけていて、ハナにも1個金色のピアスを光らせ、あとで着替えをしてるときに気づいたんだけどおへそにもピアスを通している。若い頃はたぶんツッパリ(いまはこういうひとはもういないんだろうね)で、高校の頃はグレて家出し、彼氏の家に転がり込み同棲しながら学校に通ったりしていたらしい。それがどういうわけか24の頃に、外国なんか興味もなかったのに友達二人に誘われ、ノリでオーストラリアにワーキングホリデーにいってしまったのだそうだ。それも準備段階で友達二人は次々に渡航をあきらめ、最後には彼女ひとりで出発することになったとか。英語なんかまったくしゃべれず、「オーストラリアは日本語が通じる」となぜか思いこんだ上での暴挙だった。
まずは空港のイミグレで、聞かれることにすべてイエスと答え、通過するまでに2時間かかった。そして空港から目的地につくまでに3日かかったけど、3ヶ月する頃には日常困らない程度の会話力は身につけた。1年のワーホリ生活のあとはアイルランドに渡り1年半ほどボランティアのプログラムに参加して、自分の道はひとのお世話をすることと見つけたらしい。そのあとイギリスで英語学校に通おうとふたたび渡航したものの、2年半も英語圏で生活しといていまさら学校に通うのもナンだし、と気づいた。そんなこと出発前に気づいてもよさそうなもんだけど、現地に行ってから「このあと看護補助の仕事のため資格をとろうと思ったらもう長い旅行もできないだろうから、それならいま旅行したれ」と思いなおして、直接南米にきてしまったのだそうだ。大阪弁で、物怖じせず、酒豪で、ウォッカ飲ませたら一晩に1本でも平気であける。おまけに下品でげっぷ、すかしっぺなどなんでもアリ。こう書くとどんなヤツやねん、と思うかもしれないけど、行き当たりばったりでなんか勢いがあって、でも気負いがなくて、ひとをひきつけずにおかない女の子だ。
翌日は荒木の裏通りでマーケットがあるというので朝から淳くんと生魚を買いにでかけた。マーケットの規模自体はたいしたことなく、魚の屋台が1軒、肉の屋台が1軒と野菜の屋台が何軒か、ホットドッグの屋台が何軒かという程度だった。サーモンとまぐろを買って一旦宿に置き、また提灯型街頭の通りを歩いてリベルダージに行って、スーパーでブラジル産日本種米を買った。帰る途中「福島県人会」と書かれたオレンジ色のはっぴを着たひとたちがいるので何があるのか淳くんが聞いた。すると、
歩きながら話しをきくと、淳くんは、できれば将来のために鍼の資格をとりたいのだそうだ。マッサージだけじゃなく鍼もできれば顧客の幅も広がるし、収入も安定する。結婚するなら彼女と彼女の娘を食べさせて行かないといけないし、そのためにはある程度安定した生活を保障できないと・・・と彼は言った。
戻ると知佳ちゃんがすしめしと魚の切り身、だし巻き玉子をつくってくれていた。浅野くんも2回目の歯の治療が終わってもどってきていた。浅野くんは予想よりもだいぶ歯の治療が早く済みそうだから、10日ぐらいでサンパウロを出られるんじゃないかと言っていた。しゃべりながらみんなでお寿司を握り、直径20cmぐらいはありそうな平皿に3皿もつくって平らげた。ブラジル米は日本で食べる日本米と同じツヤと粘りがあり、歯触り舌触りとも懐かしい日本の味だった。
翌日も4人で日曜市を見に行き、月曜になってまた4人でインターネットやに行った。日中のサンパウロは、そう危ない地域という印象はない。マクドナルドで昼食をとり、散歩がてらのんびりとスーパーを覗いたり寄り道をしながら宿の近くまで戻った。淳くんはそのあと、
「そいでもひとつだけ聞いてきた」
翌朝起きてしばらくしたら知佳ちゃんが起きてきて、
淳くんは明日彼女のもとに戻るので日本食を買い漁ってきていた。いかに日系人の多いブラジルとはいえ、彼の住むポルタレーザではこれほどの種類は手に入らないんだという。淳くんは彼女を喜ばせたくて、
その晩はおでんにきんぴらをつくった。ビールを飲みながらおしゃべりしていたら大雨になり、淳くんは雨漏りが心配だといって8時頃一旦部屋に戻って行ったと思ったらそれきり出て来なかった。翌朝出発は6時半のはずだ。彼、挨拶もしないで行っちゃうつもりかな、と私と知佳ちゃんはクビをひねった。それでもここ数日のことを考えると黙ってお別れもできないので、見送りに起きることにした。それで目覚まし時計を6時にあわせ、夜の12時頃寝る仕度をしていたら、淳くんが、
私たちがつっこんで訊いてみると、彼女の生活費の出どころについて彼が知っている、あるいは推理していることはメチャクチャだった。娘の父親が面倒みてるかどうかも定かじゃないし、逆に、ブラジル人の収入が一般にそうそう仕送りできるほど多くないってことも知っている。彼女は前にヨーロッパ人の旅行者とつきあってたことがあったらしいけど、そういうひとたちがパトロンになっててまだ切れてないって可能性もないとは言い切れないという。
「売春とかやってる可能性はないの?」
「どうして結婚したいの?」
「美人」「スタイルがいい」はしょっちゅう聞くけど、性格の話しをすると「やきもちやきで喧嘩っぱやい」性格で、そんな彼女のどこに惹かれるのか聞いても、
「日本に戻って鍼の資格をとり、スポーツ選手とかに鍼治療を施して一定の収入を得たい」というのが彼の計画だけど、よくよく聞いてみると日本の鍼の資格でブラジルで鍼が打てるのかどうかもわからない。鍼がすでにブラジルで流行っているからそういう計画を立ててるのかと思ったらそうでなく、ブラジルでどのぐらいの需要が見込めるのかもわからないという。私と知佳ちゃんでひとつひとつ問いただしてみると、大半が想像と憶測からできていて、それを期待で塗り固めてるようなあんばいだった。
最後には彼自身もそのことに気づいて伏し目がちになってきてしまったので、気の毒になって少し励ましたりしてみたものの、状況はあまり彼の結婚に味方してるとは言えそうになかった。とにかく生活費の出どころはどこなのかはっきり聞いたほうがいいよ、と助言すると、彼は最初のノロケモードから一転してしょんぼりと、
この間私はテーブルでパソコンをたたきながら話をしていたのだけど、彼は喋ってる間に私のベッドに座り、そのうちヨコになり、最後には毛布の下にもぐりこんでしまったので私の寝る場所はすでになかった。それに4時を回っていたのでもうこれから寝るということは考えられず、私たちはそのあとも彼の将来について語りあった。6時近くなって彼はベッドを出てシャワーを浴びにいった。6時過ぎて浅野くんが起きてきて、私たちは朝食の準備を始め、昨夜のおでんの残りをおかずにして朝食にした。6時半に淳くんは、日本語の本とポルトガル語の辞書と日本食でパンパンにふくらんだバックパックをかついで出ていった。寝不足で目を真っ赤にしてるのが、決死の覚悟の現れに見えるような顔だった。
その翌日、知佳ちゃんは旅行会社に出かけて行った。彼女は日本を出る前は南米に旅行するなんて考えもしていなかったので、旅行保険にも入っていなかったのだ。でも南米には黄熱病もあればマラリアもある。事故も多いし盗難も・・・と聞いて、やっぱり何か入っておかなくちゃと考えたらしい。最初に行った日系の旅行会社の若い担当のひとはポルトガル語で書かれたパンフレットを出してきて、
そして先ほどのやりとりとは打って変わった力強さで、
翌朝知佳ちゃんは7時半に目覚ましをかけ、「ポルトガル語でひとを呼び出す言い方」のメモがポケットにあるのを確かめて8時頃でかけていった。安田火災は荒木のあるサンジョアキン駅から3駅ほど先にあるらしい。私は9時頃起きて髪を洗い、洗濯をして、それから朝ご飯を作りはじめた。それができたころにちょうど知佳ちゃんがかえってきたんで、
「南米に旅行来るからには病気ぐらいするって覚悟のうえで来てるわけでしょう?」
その晩夕食から戻るとキッチンのへんに見たことある顔のひとがいた。声をかけると案の定、「吟遊詩人、世界を行く」というホームページの作者の梅原さん夫妻だった。私のホームページはYahooの「リアルタイム旅行記」というカテゴリに載ってるんだけど、梅原さんたちのページもその同じカテゴリに載ってるので時々覗いていたのだった。梅原さんたちはYahooInternetっていう雑誌に毎月旅のもようを連載してて、このあいだ日系の本屋さんで立ち読みしていたときに旦那さんの写真を見ていてちょうど顔をよく覚えてたからひと目でわかったのだった。
「ホームページ拝見してます」
旦那のウメさんはとてもひととうち解けやすいひとで、私もパソコン持ってるって話しから、実はホームページも作ってるんです、と言うと、
夫妻はいま26才で、出発の1ヶ月前、秋川渓谷で1泊2日、招待客100人に及ぶオリジナル結婚式をやって出てきたそうだ。あまりに大変な計画だったので、挙式1週間前に企画と司会者だかにキャンセルされてしまい当日はてんてこ舞いの大変な式だったそうだ。それでも写真を見た限りは見たこともないような壮大な結婚式で、ふたりの熱意が感じられうらやましくなるようだった。
梅原さんが来た頃、私たちの出発の時期が近づいていた。知佳ちゃんはこのあとのルートがまったく決まっていなかったので、私と浅野くんでパラグアイ、チリ、ボリビア観光オススメルートをつくってあげた。知佳ちゃんは、保険については安田火災はあきらめ、パラグアイのアスンシオンでもう一度別の会社にアタックすることにしたらしい。でもまずはリオデジャネイロに行って有名なコルコバードの丘のキリスト像だけは見てみたいというので、私と一緒にリオに出発することになった。
浅野くんは1ヶ月腰を据えてサンパウロにいるつもりが、結局3回の通院ですべて治療が終わってしまったのでちょっと拍子抜けしたような格好だった。サンパウロのあと思い切ってサルバドールまで行ってしまおうかなどと悩んでいたようだけど、思いのほか早く歯の治療が済み同じ日に出発できそうだったので、彼もとりあえずは一緒にリオに行くことに決めた。
そんなこんなで、ここからひとり旅になる予定だった私は思いがけず3人連れで出発することになり、ひとり旅への復帰はもうちょっと先送りになりそうだ。さあこれで日本食三昧の生活ともお別れだ。さらばリベルダージ。さらば赤い大鳥居。そのスーパーに永久に日本食の姿が消えることのないように。私はスポーツバッグの底に昆布のつくだ煮をしのばせて、リオデジャネイロへの出発の準備を終わらせた。
![]() 日本人街に立つ大鳥居
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