カミソリの切れ味
   結局浅野くんとはナスカでもまた再会し、ともに北上することになった。

 リマでは、治安が悪いので有名な地域にあるペンシオン西海に泊まった。その後も一緒に出発してトルヒーヨへむかい、エクアドルにはいってからはクエンカ、温泉のあるバーニョスと経て首都キトにやってきた。キトにはおそろしく安い宿「ホテルスークレ」があってそこに数日泊まった。

 ホテルスークレは日本人が多いので有名だ。長期旅行のひとが多い。長期旅行者がつねに傍若無人っていうわけじゃないけど、たまにそういうこともある。ところがここにいるひとたちはなかなかどのひとも礼儀正しく、かといってかしこまったひとたちじゃなく、みんなうち解けて、毎日晩ご飯を一緒につくったり夜遅くまで集まって飲んだりしていたので居心地がよかった。旅のはじめのころ、インドのカルカッタのホテルパラゴンでなんとなく長期旅行者のひとたちにとけ込んでいけない自分を感じていたのを思い出すと、ひょっとすると私もあのころに比べれば長期旅行者らしさが板についたのかなあと思ったりもする。

 ここに泊まってるあいだに、私はエジプトで会った福島さんとか坪井さんてひとに再会したり、大学の同じ学部の同じ専修(ほかの学部でいう「ゼミ」のようなもの)の7年ほど後輩にあたるサカモッちゃんって男の子と知り合ったりした。エジプトで会ったひとと再会したっていうのはそれだけなら「旅行者の世界は狭いね」ですむけど、年にたった30人しかいない同じ専修の後輩と南米で知り合うなんていうのはまずあり得ないようなことだ。サンパウロで会ってリオデジャネイロに一緒にいった知佳ちゃん(できごと日記「サンパウロ紀行」参照)もあとからやって来た。勢い見知った顔が多くなり居心地のよさは倍増した。

 数泊のあと、私はガラパゴス島に行った。そのことは後日あらためて記すとして、ガラパゴスから帰り、私はふたたびこのホテルスークレに舞い戻った。浅野くんも知佳ちゃんもまだここにいて、この前とそれなりにメンツはかわっていたものの相変わらず10人以上の日本人が泊まっていた。

 そのなかに田胡くんというひとがいる。ある朝彼とキッチンで会ってふと見ると綿パンのももについてるポケットに穴があいて、ばさばさにささくれだっている。
「どうしたの?」
ときくと、
「トロリーに乗ってるときに切られて財布を盗られたんスよ」
と彼は答えた。
「直さないの?」
ってきいたら、
「いやもうボロボロだし買い換えちゃおうかと思ってるんスけどね、自分への戒めとして、もうちょっとこのままにしとこうかと思って」
と彼は言った。彼によれば、トロリーやマーケットでのスリは現地でも、被害にあってないひとの方が少ないぐらい頻繁に起きてるんだそうだ。

 エクアドルは両隣のペルーやコロンビアに比べると治安について悪い噂は極端に少ないし、街じたいも安全に見えるだけに意外だった。エクアドルは数ヶ月前に通貨をドルに切り替えたばかりだ。その前は経済は完全に破綻し、町は失業者であふれ、ひとびとの顔は暗かった、と「リアルタイム世界旅行記」の石橋のりさんは書いていた。だけど私がエクアドルにはいったときは、街を歩いてるひとびとはおしゃれだし物乞いは少ないし、少なくともこの国が南米のほかの国々よりも圧倒的に貧しいという印象は受けなかった。なんでも通貨を切り替えた後すごいインフレが起こり、公務員の給料も2倍になったと聞いた。給料が上がるのは物価が上がってるからで、必ずしもそれだけで景気がよくなったとは言えないけど、たしかに経済はずいぶん安定し、失業率も減ったらしい。それでもトロリーのスリがにまでは恩恵がまわってこなかったのか、あるいは彼ら自身がこの手軽なシノギが気に入ってるかで、トロリーでの被害は依然多いようだ。

 さて。その日は起きたら赤道記念碑に行くということになっていた。これはガラパゴスに行く前から「そのうち行こう」って浅野くんと言ってたんだけど、ちょうど浅野くんの31の誕生日だっていうのもあり、格別用事もないのでじゃあ今日行こうかってことになったのだった。

 赤道記念碑っていうのはケニアだとか、ほかの国にもあると聞いているけどここキトの郊外にあるやつはちょっと特別だ。赤道っていうのは緯度が0度のところだけど、ここのやつは緯度だけじゃなくて経度も0という、つまり世界でひとつしかないポイントで、「世界の中心 Mitad del Mundo」と呼ばれている。

 赤道記念碑に行くバスのバス停は、ホテルスークレの真ん前のサンフランシスコ広場を通り、イピアレス市場を過ぎたあたりにある、と各種ガイドブックは告げている。私たちは地図どおり広場を抜け市場を歩いていた。昨日から月のモノがやってきていたせいで、多少ボーっとしていた。ひとから見てもわかるようなボーっとした顔をしていたかもしれない。

 両側から食べ物や衣類の屋台が張り出している狭い通りの、人混みのなかを縫うようにして歩いている途中、坂道の左手に車が停めてあって道が狭くなってるところがあった。「よくこんな混雑したとこまで車乗り入れるもんだなあ」と思ったのを憶えている。


ひとでごったがえすイピアレスの市場
 その車のワキから道ばたの屋台まで1mぐらいの幅になってる細い通路をとおりすぎようとしたときに、正面からぶつかってくるおばちゃんがいた。50がらみのインディヘナのおばちゃんで、ひっつめに結った髪が半分白くなっている。わたしにごんごんぶつかって来ながら「もう、どいてよ」って顔でぶつぶついって不機嫌そうな顔をしている。どんなに急いでるか知らんけどひとに真っ正面からぶつかってどうする、と思いつつ右によけようとしたら、右にも別の、同じ年頃の同じような髪型、同じような髪の色のおばちゃんがいて抜けられない。

 私はいつものように紫のバッグを左肩から右ハラにかけてナナメにさげていたんだけど、正面のおばちゃんがセーターをひっかけた腕でわたしのおなかをぐいぐい押してくるもんでバッグが見えなくなっていた。あれ?なにこれ?と思って無理矢理ぬけようとしたら、どちらのおばちゃんも正面をあけた。不自然じゃないといえばない、おばちゃんたちがそそっかしくてぶつかったと思えばそうともいえるような一瞬、プラスα程度の間だったけど、なんだろ今の、わざとかなと思ってふりかえったとき、おばちゃんの片方の、腕にかけたセーターの上を私のマネーベルトが走っていくのが見えた。

 ギョッとした。出がけにちょっとあわてたので、今日にかぎってバッグのなかにつっこんで、おなかに巻かずにバッグにいれて出てきてしまったマネーベルト。中にはクレジットカード類とパスポートがはいっている。これも普段ならこんなところにいれないけど、中米への航空券を買うために今日にかぎってマネーベルトにまとめていれていた。

 マネーベルトが走っていったセーターのおばちゃんの手をつかみ、先を歩いていた浅野くんを大声でよんだ。あわててる私は、そのおばちゃんをつかまえて日本語で返してよ返してよと叫んでいた。おばちゃんは「そんなこといったってなにも持ってないわよ」というようにセーターをひっくりかえし手をひろげ、カラのカゴをひらいて見せる。私はスペイン語ではひとことも、泥棒だともスリだとも、何を盗られたとも言っていない。それなのにそんなことをしてみせること自体クロの証拠なんだけど、もうひとりおばちゃんがいたことがわかってただけに、このおばちゃんをいくら追求したって意味ないことはわかっていた。

 ああ、もうひとりが持ってにげちゃったんだ。クレジットカードがないとチケットが買えない、とか、パスポートの再発行とかいうことが頭のなかをかけめぐった。かといってこのひとを逃がしたら何の手がかりもなくなってしまう。その瞬間浅野くんがひとをかきわけて戻ってきて、
「どうした!」
といって私がつかまえてるおばちゃんの手をつかんだ。
「このひとにマネーベルトとられちゃった。パスポートがはいってるの」
って言ったらおばさんは私にやったときと同じようにセーターをひっくりかえし、手にもカゴにも何ももってないというジェスチャーをしてみせ、浅野くんの手をふりはらって行ってしまおうとした。浅野くんはおばさんの手を後ろ手にひねりあげた。そう強くひねったわけじゃなさそうだったけど、おばさんの手首がゴキと鳴ったのが聞こえた。おばさんがあわてて騒ぎ始めた。だけど数々の修羅場をくぐってる浅野くんは冷静だ。
「静かに。警察に行きます。Tranquila. Vamos a policia.
とおばさんにささやいた。大きい声で言わなかったのがかえって迫力があったのか彼女はちょっとおとなしくなった。その瞬間誰かが「車の下」と叫んだ。あせっていたので何語で言われたのかよく憶えていないけど、とにかく私は停まっていた車の下をのぞきこんだ。するとタイヤの陰に、私のマネーベルトがぺたりと落ちていた。

 浅野くんのつかまえてるおばさんが、ほらあるじゃないのとでもいわんばかりに抗議して逃げようとするのを浅野くんはなおもおしとどめて、
「全部確認して」
と言った。バッグの中のカメラは無事だし、マネーベルトの中身も何もなくなっていない。現金は綿パンのポケットのなかだから大丈夫だ。混乱しているのでそのおばさんが犯人だということまでが疑わしくなり、あたかも自分が勝手におっことしたんじゃないかとか、おばさんとは全然関係ないひとがやったんじゃないかというような気になって、浅野くんに、
「全部あった。大丈夫だからもういいよ」
といっておばさんを放免させてしまった。あとから考えれば警察に連れていくべきだったかもしれない。どっちにしても証拠は何もなかったので、追求することはできなかっただろうけど。

 それにしても、とられたのがマネーベルトだったのは幸いだった。あの長いマネーベルトのひもがするするとヘビのようにセーターの上を這っていくのを見なかったら、何がなくなったかとっさには気づけなかったかもしれない。でも逆にいうと、ちょうどマネーベルトをバッグに入れてる日にかぎってやられるなんて、そのタイミングのよさにはおどろくほかない。ああいう職業のひとはそういうことのわかる特別な目を持ってるんだろう。


赤道記念碑。右足の下が北半球、左足の下が南半球
 車の下にある、と教えてくれたひとは、あとから確かめようとしたけど結局誰だかわからなかった。浅野くんによれば、近くのお店のおばさんが教えてくれたらしい、というけど私は、仲間が腕をひねりあげられてるのを見てあわてたグルのおばさんが教えたんじゃないかと思っていた。
 そのあとバス停につくまでに浅野くんに、
「大事なものはひとつにまとめといちゃダメだ。それになんのためのベルトがついてると思ってるんだよ。バッグにいれておくなんてもってのほかだよ」
と弟でもしつけるように叱られた。いや、いつもはこんなことしてないんだ、と反論しかけたけど、よけいおこられそうだからやめた。浅野くんに言い訳してもしょうがない。安全対策に例外があってはいけないんだ。

 さて1時間ばかしバスにのって赤道記念碑についた。赤道のラインが黄色い線でひかれていたのが意外だったけど、英語やスペイン語には赤という意味はないのでまあ当たり前といえば当たり前か。

 浅野くんと30mの高さの記念碑のまわりをぐるっとまわりカメラを取り出そうとふと見ると、バッグのヨコがケバだって、不自然なところから水のボトルが顔を出している。このバッグは出発してからほとんどずっと使ってるやつで、今年の始めぐらいには内側のビニールコーティングがすべてボロボロとはげおち、縫い目が1カ所ほどけて修理したこともあった。また縫い目がほどけてしまったか、と思いよく見たら、バッグのヨコが裂けていた。さっきは動転してたのでバッグのチャックをあけられて盗られたのかと思っていたけど、切られていたのだ。カミソリで一瞬にして切り裂いたものに違いなかった。
切られたバッグ

* * *

 さてここスークレに戻ってもうひと組再会したひとたちがある。それは、やはりブラジルのペンソン荒木で会った、「電脳吟遊詩人世界をゆく」というホームページを作ってる梅原夫妻だ。梅原夫妻はその後1ヶ月サンパウロに滞在し、そこで青山さんという、これまた「Ride Tandem unplugged」というホームページをつくってるひとと待ち合わせしてパラグアイ、チリ、ペルーなどを経てここエクアドルに戻ってきたのだった。

 青山さんていうひととは初対面だったけど、梅原夫妻を通じてすぐに親しくなった。青山さんは梅原さんと同じソニーのバイオ持ってて、それにCD−ROMライターも持ってるということだったので、お願いして私のリブレットから写真やメールのデータをCD−ROMに書き出してもらうことにした。パソコンに万一のことがあった場合でも、日記や写真をCD−ROMに焼いておけば全てを失わなくてすむ。現にアルゼンチンでパソコンを盗難にあったときも、南アでCD−ROMを焼いておいたおかげで私は写真なんかのデータを失わずにすんだ。それで南米でも定期的にCDにしておこうと思ってたんだけど、なかなかそういうサービスをやってるコンピュータ関連の店がなくて、南米半年ぶんの写真をためこんでしまっていたところだった。

 梅原さんの部屋にお邪魔して、私のパソコンを出すと、梅原夫妻のダンナのほうのウメさんが自分のマシンと奥さんの恵(けい)さんのマシンを出してきてならべ、LANカードをインストールして手際よくマシンを接続してくれた。ウメさんと青山さんのSONYのVAIO計2台、恵さんのカシオのFIVA、そして私の使っている東芝のLibrettoのモバイルマシンが4つも並んだのはさすがに壮観だった。ウメさんがはしゃいで記念撮影を始めたら、ちょうどそのときに知佳ちゃんと、マコッちゃんと呼ばれてる男の子がのぞきに来て、独特ののんびりしたしゃべり方で、
「なにこれ?犯罪集団なの?新興宗教とか?」
といって、なかばあきれて去っていった。


左より、私のLibretto、青山さんのVAIO、梅原ダンナのVAIO、恵さんのFIVA

 実は先日いた、ポケットを切られた田胡くんもSONYのVAIOを持って旅をしていたので、そのときにはこの宿になんと日本語のモバイルマシンが5台もあったことになる。こんなとこでモバイル旅行者が5人も集まることからすればモバイル旅行者は確実に増えてきている。「モバイルがなければ旅ができない」という日は来ないにしても、いつかはほんとに私とかウメさんたちみたく、ホテルの部屋で嬉々としてLANをつなぐようなサイバー中毒旅行者が、主流を占めるときが来るのかもしれない。


左から青山さん、梅原ダンナ、奥さんの恵さん
 さてCD−ROMを書き出してもらっているあいだ、今日のスリのできごとを話したら、青山さんが感嘆して、
「そいつはすごい。奇跡的ですよ」
と言った。普通は地元のひとというのは犯罪者からの報復がこわいし、そうでなくてもグルのことも多いから、たとえ車の下にあるなと気づいていてもまわりのひとは協力してくれないものだ、って彼は言うのだった。聞けば青山さんもスリにやられた経験があるらしかった。青山さんは何ヶ月前にも一度キトにいたことがあるんだけど、ある日何か買い物しようとして、デイパック背負って混んだマーケット歩いていたんだそうだ。そしたら子犬売りがうろうろしていて、それに気をとられているうちにデイパックをカミソリらしきもので切られてて、デジカメが盗まれていたんだそうだ。

 考えてみれば彼の前でうろちょろしていた子犬売りは絶対彼の注意をひくためのスリの一味だったに違いなく、警察に知らせたときにも彼はそう告げたらしい。そしたら、なんとまわりじゅうの商店主とかが出てきて、
「そんな子犬売りなんていなかった」
とか、
「この日本人はウソを言ってる」
とか言って訴えをひきさげさせようとしたらしい。警察官もそういう地元の人間がグルになっているのは慣れっこなのでとりあわなかったらしいけど、いくら訴えたところでいまさらカメラが戻ってくる訳じゃない。彼は頭にきて、なんとか現場を押さえてやろうとその後もスパイさながら子犬売りを見張っていた。そしたらこんど別の人間が彼を見張っていて、子犬売りに言いにいき、結局シッポをつかむことはできなかったんだそうだ。そのとき彼は、「市場のなかにいるかぎり周りじゅう敵だらけなんだ」とひしひしと感じたそうだ。私みたいに、盗まれたその場で犯人をつかまえることができ、誰かが教えてくれてすぐにモノが返ってきたなんていうのは、たしかに奇跡中の奇跡にちがいなかった。

 切られたバッグはタテに15センチ近くもざっくり亀裂がはいっており、替えを探そうかと何度かおみやげやとか鞄やを探してみたものの、そう思って探すとなかなかこれほどに理想的なバッグはなかった。軽くて小さくなるわりに容量が多くてペットボトルまでラクにはいる。でも実は、そういう理由でこのバッグが最初から気に入ってたというよりは、このバッグのいいところを見つけてはだんだん好きになっていったというほうが正しいかもしれない。このバッグが理想的というより、旅のはじめから使っていて、旅の生活がこのバッグにあわせて成り立っていったのだから、もうほかでは代用がきかないのだ。しかもこれは私が出発したときに職場の同じプロジェクトチームのひとたちが餞別に贈ってくれたもので、そのことも考えるとここで別れる気にはどうしてもなれなかった。結局私は大きな穴をウラからつまんで同じ色の糸で強力に縫いかため、浅野くんからもらった要らないTシャツの切れ端で補強して、このバッグをそのまま使い続けることにした。

 

* * *

 キトでの日々はめまぐるしく過ぎ、いよいよエクアドルを離れるときがやってきた。会社時代の後輩が1週間の休みをとり中米に来るので、彼女たちと落ち合うため、私はコスタリカに飛ぶことにしたのだった。本当は手前のパナマに飛んでパナマ運河を見てみたかったけど、クリスマスを前にパナマ行きの飛行機は満席。高いチケットならあるけれど、それだとコスタリカ行きよりも高い。中米に飛んでから2週間ほどでグアテマラまで北上し、そこで後輩と落ち合うという段取りになっていたこともあり、パナマからグアテマラまでを2週間ではなにも見るヒマがない、というのもあって、コスタリカに飛ぶことを決めたのだった。

 梅原さんたちは、このあとスペインに飛び、グラナダにいる友だちに会いにいってからその後どうするかを検討すると言っていた。青山さんはホテルスークレに預けてあったバイクをひきとり、これから南下し、南米をもうひとまわりしたらヨーロッパに向かうという。浅野くんはこのあと陸路でコロンビア、ベネズエラからギアナ三国をまわる予定だけど、もうしばらくはホテルスークレにいるということだった。リピーター肌の知佳ちゃんはブラジルからここに来るまでに寄ったイースター島とボリビアがよほど気に入ったのか、一旦ボリビアに戻ってからチリまで南下し、イースターとタヒチを通ってオーストラリア、アジアを経由し、前にボランティアをしていたアイルランドに行きたいといっていた。そこまでやればばっちり世界一周だけど、はずみで出てきてしまった彼女にそういう意識はないらしい。

 別れの日がきた。ここにいるのは、南米を離れてしまうともう会えそうもないひとばかりだった。今日の便の出発時刻は昼の12時半。9時を20分ほどまわって、そろそろ出発の準備をしないといけなくなった。階下におりて11日ぶんの宿代たった8ドル80セントを支払い、上の階にいって宿の従業員のカルロスと洗濯係のおばちゃん、仲良くなったほかのツーリストに挨拶した。部屋に知佳ちゃんとマコッちゃん、浅野くんが来てくれていたので記念写真をとり、階下におりたらちょうど梅原夫妻と青山さんがあがってくるとこだった。お世話になりました、と3人と握手した。

 階段の下におりてマコッちゃんと知佳ちゃんにお別れしようとしたら、マコッちゃんが「それじゃ」といって私の肩を抱いてほっぺたにキスをしたので度肝をぬかれた。日本人の男の人にそんなことされたのは初めてだ。知佳ちゃんもかわいく肩をすくめて近づいて、私のクビに手をまわし、私のほっぺたに彼女の頬をぴったりくっつけた。私はまたびっくりして知佳ちゃんの肩に手をまわすのもチュと音をたてることも忘れていた。知佳ちゃんは離れてるあいだもずっとメールを交換していたし、南米の旅のなかで最も仲良くなった女の子だった。彼女は私が出発の日を決めたときもチケットを買ってきたときも、
「行くのやめれば?ホントに行っちゃうの?」
と言ってくれていた。本気で別れを惜しんだら出発できなくなっちゃいそうな気がした。

 知佳ちゃんから離れたら浅野くんが、
「知佳ちゃんをぎゅっとしてこなくていいのか」
といった。不自然なくらい、私はぎこちなかったんだと思う。
「照れくさいからいいよ」
とふりむいて手をふったら、知佳ちゃんの顔が急にくもってうつむいた。彼女の頬を涙がつたった。私が行くことを、知佳ちゃんもそんなに惜しんでくれてると知って胸がズキっとした。

マコッちゃんと知佳ちゃん

 浅野くんとも今度こそ本当のお別れだ。浅野くんが空港まで見送ってくれるつもりでも、別れの挨拶をするタイミングをのがしそうだから断るつもりでいた。だけどこうなると一緒にいられる時間が惜しくなり、結局一緒にトロリーに乗った。

 北バス停でバスに乗り換えて空港につくと、もうチェックイン手続きは始まっているようだった。チェックインカウンターに見送りのひとは入れないけど、チェックインがおわったらもう一度ゲートから出てもいいようだったので、私は先に手続きをすませ、警備のゲートをぬけて外に出た。浅野くんが今日だけは何でもおごってくれるというから、ファーストフードの店に入り、ハンバーガーとジュースをたのんだ。浅野くんはアメリカンブレックファーストのセットを頼み、大好きな卵を半分くれた。

 食べ終わったら、11時20分で、搭乗予定時間の10分前だった。もう時間がない。イミグレへの入り口に戻る間にあるアイスクリームショップでピスタチオのアイスを買ってもらって食べた。空港の壁にもたれて食べているあいだに浅野くんが封筒を出した。
「あけてもいいの?」
って言ったら、
「まだダメ、あとで読んで。手紙書いたんだけど、期待しないで。いろいろ頭にうかぶんだけど文章にできないから、ちょっとしか書いてない。照れくさいから渡すのどうしようかなと思ってたけど、渡せなくなるまえに渡しちゃおうと思って」
と言った。

 ゲートの前で振り返り、だんだん顔がゆがんでくる私に、浅野くんが、
「また会えるよ」
って言い、
「気を付けて。心配してるから」
って言った。それはこっちの台詞だった。浅野くんは気がむいたら危ないところでもずんずん行っちゃうひとだから。旅のカンのあるひとだし、つまらない犯罪なんかに巻き込まれるようなことはないと思うけど、この先にひかえているのはコロンビア。いつゲリラや強盗に襲われても文句のいえないところだ。ほんとにまた会えるんだろうな。危ないところにいかないって約束するんだろうな、と詰めよりたかった。彼の手をにぎると、涙が一気に何粒か足下めがけて落ちていき、もう顔をあげられなかった。浅野くんの手もこころなしかふるえてるように感じた。汐見荘で会っていらい浅野くんと過ごした日々は5ヶ月にもなろうとしていた。マチュピチュでケガしたときも、スリにあったときも、その前からずっと、危ないときいつも近くにいてガードしてくれていた。デンマークのキムから悲しいメールがきたときは、夜通しつきあって一緒にワインを2本もあけてくれた。浅野くんがいなかった頃私はどんなふうに旅をしてたか、思い出せないぐらい長い間一緒に旅をしていた。

 警備員にチケットを見せてゲートをはいる。出国手続きの別室の手前に1mほどの高さの鉄柵があり、わずかな人垣の隙間があった。浅野くんとそこで鉄柵ごしにもう一度握手した。浅野くんが「しっかりしろよ」というように腕をつかんで私をひきよせた。浅野くんの胸が目の前にあった。出国手続きカウンターへのドアのところで警備員が、はやく来ないとドアを閉めるぞとせかしている。

 顔をあげた。涙でぐしゃぐしゃになってる顔を。浅野くんが、
「大丈夫。中米にいってもいいひとたちと出会えるさ。楽しいことがいっぱいあるさ」
と私を力づけてくれた。そんなことわかってる。だからっていま目の前に迫っている別れがつらくなくなるわけじゃないじゃない。
 私は、
「みんなによろしくね。気を付けてね」
とくりかえし、そっと彼の手を離して出国手続きのドアに近づいた。そして彼をふりかえり、警備員にせかされるままに出国手続きのドアをくぐった。

 浅野くんの字を私はよく知らなかったらしい。封筒をひらくと、見慣れない字で短い手紙がしたためてあった。励ましと別れの言葉の下に、一昨日ショッピングセンターで撮った、浅野くんの人生最初のプリクラの4種類の柄のうち、いちばん華やかな桜の花びらの散った一枚が貼ってあり、その下にホテルの台帳で見慣れたサインがしてあった。胸がしめつけられるようになってまた涙が止まらなくなった。

 アナウンスがあり飛行機に搭乗した。空の上に舞い上がると、雲が石像のようにうずたかくたちあがっている。雲の間近にいながらそのなかにつっこまず、こんな立体的な雲を至近距離でながめられるなんて、まるでCGのようだ。放心したように窓の外を眺めつづけた。空は濃い青からガラパゴスの海の浅瀬のような色へ美しいグラデーションを描いている。コロンビアで一旦着陸して飛行機を乗り換え、しばらく海の上を飛んだあと、雲のあいまを抜けると突然、海と海にはさまれた細い陸地が見えた。あれがパナマだ。そして、この先にはコスタリカが。


浅野くんの部屋からサンフランシスコ広場への眺め