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通りゃんせ
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翌朝、クスコに戻るためまた早朝に起きて荷造りをし、7時前に宿を出た。10分で温泉街の坂の下までくだり、オリャンタ行きの列車にのりこんだ。
この路線の列車は毎日同じダイヤで走ってるんだけど、クスコ行きのローカル列車は1日に1本しかなくて、それが夜、10時過ぎとかにクスコにつく。前にも書いたようにクスコの駅周辺っていうのは治安が悪くて8人組強盗が出るとかクビ締め強盗が出るとかいう評判だ。その時間にクスコ駅につくのを避けようと、用心深いツーリストは帰りだけでも、クスコにもっと早く着く高い列車にしたりするらしい。
ちょっとめんどくさいけど、どちらも回避する方法もある。朝発の列車で、クスコまでは行かないけど1駅手前のオリャンタっていうところまで行くのがあるのだ。アグアスカリエンテスからオリャンタまではバスの走れる道はないけど、オリャンタからクスコまでは立派な舗装道路があって列車よりバスのほうが速いぐらいとかで、オリャンタでおりたらすぐにクスコ行きのバスが接続するということだった。それを見越して早朝発のオリャンタ行きに乗り込んだというわけだ。同じ車両に、昨日温泉でみかけたボウズ頭のひとが乗ってるのがみえたのでまた軽く会釈した。やっぱ日本人だ。中華系のひとや韓国のひとも会釈はするけど、ああいうまあるい顔立ちのひとはまず日本人に決まってる。
![]() オリャンタイタンボ遺跡入り口
2時間ほどで電車はオリャンタについた。ロクな駅舎もホームもない駅だ。列車を降り、駅前で待ってるひとたちにまぎれてしばらく立っていたけどバスが来ない。道行くひとに、
温泉で会ったボウズ頭のひとが歩いてきた。頭にいかにもペルーのおみやげらしいカラフルな帽子をのせている。
1軒の宿の前に立ちつくして、チェックインすべきか迷っていたら背後からワゴンがやってきた。ボウズ頭のひとが乗っている。そのひとのほかに茶髪の40年輩の女のひとと、ポリネシアっぽい顔立ちの関取(でも女性)が乗っていた。関取が窓から顔をだし、スペイン語なまりの英語で、
ボウズ頭はダテじゃなくて、彼は本物のボウズだったのだ。聞けば彼はリマ在住の、チベット仏教僧だという。この、ジーンズはいてたらんとしたTシャツを着てカラフルな帽子のせたひとが!茶髪のひとと関取はどうやらお坊さんのつきびとかなにからしい。ペルー人は大半がキリスト教徒なんだけど、彼女たちはここでは非常に珍しい仏教徒のようだった。
ストなので閑散とした広場で、石畳の上に寝転がり犬のウンコのすぐそばで昼寝したり、物売りの子供の売る巾着袋を物色したりして約束の1時まで時間をつぶした。さっき荷物を置いたワゴン車は、ドアも窓もあけっぱなしで不用心だ。ペルーも都会からちょっと離れると安全なんだなぁと思った。1時ちょいすぎに運転手が戻ってきたので車に乗り込んだら、昨日会った日本人の女の子、あのバスのつづら折りを徒歩であがった彼女も乗り込んでいた。彼女も同じ電車で戻って来ていたのを、お坊さんが見かけてつかまえたらしい。走り出してちょっとしたら、地元の母子連れも乗ってきた。お母さんはちょっとお金持ちでインテリそうな、ひょろりと背の高いひとだった。
だけどワゴン車が走り出して間もなく、道に障害物が目立ちはじめた。平地なのに落石でもあったかみたいに大きな石がちらばってる。そのうち路上に車が停まっているところにでくわした。停まってた車の運転手に訊くと、弱った、という顔で前を指さした。30mほど先を見てみたら、道路をせきとめるように石を腿ほどの高さまでいっぱい敷きつめてその上でタイヤを燃やしている。車を通さないように住民が邪魔しているのだ。南米のストは中途半端なことはしない。自分たちが休むだけじゃ政府を困らせることができないので、国の機能が完璧に麻痺してしまうよう、幹線道路を要所要所で封鎖し、ほかの誰をも働かせまい、移動させまいという意思をはっきり示している。これを無理矢理突破しようとすると投石されることもあるらしい。
![]() こんなのはまだまだなまやさしいほう
困ってうちらの車の運転手とお坊さんが交渉に出ていった。さっき最後に乗ってきた母子連れもお坊さんのあとを追うように出ていったので、地元のひとが交渉に参加してくれるなら心強い、と思った。車に残った髪の茶色い奥さんは鞄から聴診器と血圧計を出し、それを昨日会った日本人の女の子エツコさんに渡した。エツコさんは1年半ぐらいメキシコに住んでいま絵画の勉強をしているとかで、かなりスペイン語が話せる。茶髪の奥さんはエツコさんに看護婦のフリをしろといったようだ。彼女はちょっとおどおどしながら奥さんの腕に血圧計を巻きつけた。どうやら交渉には「心臓の悪い病人がいるので病院に行きたいから通してくれ」と言ってるらしい。それでも交渉がうまくいかず困っていたら、向こうからパトカーがやってきたのでその機に便乗して通過した。石累を通過するときにお坊さんをのせ、その先で母子づれを乗せた。
ところがその先もしばらくいくとまた同じ関所があった。関取が、
お坊さんがしばらく交渉して、やっと通してもらえることになったらしい。道路端の石をどけてくれて通過するあいだ、タイヤの燃えるイヤな匂いがハナをついた。住民の横を通るとき、血に飢えたハイエナのような顔で見上げられてぞっとした。彼らは気がたっているんで、実際こういう場面で相手の気を逆なでするようなことをすると暴力沙汰になったり袋叩きに遭ったりする例はよくあるんだそうだ。
ちょっと行くとさっきの母子連れが道ばたでまた手をあげていたけど、今度は運転手は停まらなかった。このお母さんは小ズルいひとで、さっきも私たちの車を通してくれるよう交渉しに出たんではなく、実はさっさとこの車には見切りをつけ、歩いて道路封鎖を突破し、その先でまた車を見つけようとしていたのだ。また今のような関所があったらこの母子はそそくさと歩いて通過し次のバスを探すんだろう。だったらいま乗せてあげる意味ないや、と運転手は思ったに違いなかった。
その先まで行くと、今度はバスが道路を封鎖していた。最初は、迂回して裏道を通ることで突破できた。だけど、数キロのうちにまたバスで道をせき止めてるところがあって、これは町のおわりのあたりにあって裏通りがないのでもう迂回のしようがなかった。私たちはウルバンバという町のなかに閉じこめられた格好になった。
ところで茶髪のおばさんはストを突破するための仮病じゃなくホントに心臓が悪いらしくて、結局ウルバンバでほんとに総合病院に行くことになった。ちょうどまたパトカーが通りかかったので、お坊さんがバスの道路封鎖について聞いたところ、ストは夕方5時に解除されるのでそれまでは突破は無理だろうといわれた。
4時半になっておばさんの診療がおわって、やっと昼飯にしようってことになった。道路封鎖バスの横の広場に車をとめて近所のレストランにはいった。お坊さんはごはん食べはじめる前に手をあわせ、このときだけは難しい顔をして何か呪文のようなものを唱えた。ふだんはニコニコしてるからわからないけど、このときだけ面差しがちょっと松田優作に似ていた。
「チベット仏教僧なのに禅もやるんですか」
お坊さんに、
お坊さんは昼食にサカナのフライ定食を注文していたんで、
浅野くんがチベットに行ったことがあると聞いてお坊さんは、
中国から攻め入られて国土を占領され、国家の元首でありチベット仏教の盟主でもあったダライラマはインドに亡命したきりチベットの首都ラサに戻ることもできないでいる。チベット仏教のもうひとりの要である「パンチェンラマ」は、先代が亡くなって長年空席だったけど、先年ダライラマから先代の生まれ変わりとして認定された子供がいたそうだ。ところがその子は中国政府に拉致され、中国政府から教育された別の子供が偽パンチェンラマとしてラサいりしたのは私がちょうどインドの北部ダージリンにいた頃だった。ダージリンには多くの亡命チベット人が暮らしており、そのひとりと知り合って偽パンチェンラマについてどう思っているか訊ねると、「僕らにはどうにもできないことだし」と彼はことばを濁したけど、表情にはその立場の難しさをにおわせていた。
多くのチベット人が中国側から押し出されるようにインドに亡命してそこでの暮らしを営んでいるけれど、自分たちの都が異国によって占拠されているということがどれほど彼らの背に重くのしかかっているのだろうか。たとえダラムシャラーでほかの僧や信者とともにあっても、帰る国を失ったひとびとがとても心細い思いをしているだろうということは想像に難くない。それなのにこのひとは、さらに故郷を遠くはなれ、ただひとり、ここ南米で救いをもとめるひとたちに仏の道を説き、禅を指導して生きている。私みたいな凡人は、坊さんや牧師は生まれながらに坊さんや牧師で、悩みもなければ迷いもないんじゃないかと思ってしまいがちだけど、彼には彼の半生があって、それなりに悩むことや克服することがあったんではないだろうか。「通りがかったから」なんて言ってはいるけれど、とても強い信念を持っていなければ、そして、とても強くなければできないことだ。
食事がおわり、5時半になった頃にやっと道路封鎖していたバスが動き始めた。道をかためていた何台かの車の持ち主が、一日の仕事が終わったかのようなすっきりした表情で車で走り去っていく。要求が通ろうが通るまいが、5時になったら終わるというのがこのストのもうひとつの不思議なところでもある。そのあとは、たまに石もおちていたけどキレイな道をひたすら走った。走り出した瞬間に雨が降り出し、ちょうどクスコのほうで稲妻がひかっていた。7時くらいにクスコのサンフランシスコ広場の裏手にワゴンは停まり、エツコさんはオスタル花田に荷物を預けてあるから花田に戻ると言った。お坊さんたちはこのあとリマに戻るらしく、すぐにタクシーをつかまえて荷物を積みはじめた。カルメンがメールアドレスと住所を書きつけ、名刺を私たちにくれた。
あのワゴンでなかったら、今日帰ってくることはできなかっただろう。宿の近くまで連れてきてもらったおかげで、足への負担もほとんどなかった。浅野くんにつきそってもらい、宿について包帯をとってみると、足首の捻挫はすごい青あざになっていたけど、かなり快復してるみたいで朝のような痛みはなかった。ヨコで見ていた浅野くんに痛みがひいていることを伝えると彼は、
クスコにいるあいだに10ドルぶんほどのテレカを買って日本の両親に電話した。ひとつは母の誕生日のお祝いを言うため、もうひとつは保険期間の延長のためだった。私の海外旅行保険はこの10月の中旬で期限が切れる予定だった。前回はアフリカにいるときに延長し、10月中旬までにはいくらなんでも帰ってるだろうと思ったけどふと気づくとまだこんなところにいる。そいで何ヶ月か延長の手続きを頼もうと思ったのだった。とはいっても、何ヶ月延長するかが問題だ。1年の約束で出てきて19ヶ月もほっつきあるいたあげく、まだ延長したいと言ったらいくらなんでも両親は怒るだろう。少なくとも年内に帰ってこいって言われるだろうと思った。
国際電話の番号を押し、それから実家の番号を押した。数回のコールがきこえて、とてもクリアな音で父の声がきこえた。私が母の誕生日に電話するのをわかってたかのように、父は、「もしもし」も言うまえからでっかい声で階下にいる母を呼んだ。まず母にかわってもらい誕生日のお祝いをいい、おなかをこわしていたけどもう大丈夫ってこととか、浅野くんと再会したということを報告した。また父にかわって、だけど保険の延長を切り出しかねていると、父は、奈良にいる祖父母が最近私のことを案じているらしいと告げた。祖父母はだいたい毎年、年末年始には埼玉の実家に遊びにくる。これは年末に帰ってこいっていうことだな、と思ってなおさら保険のことを言い出しかね、ウンウンと聞いていたら父は、
ついにこの瞬間、私の旅の出口が決まった。2月15日、ちょうどまる2年。出発した日付と、同じ日に帰ろう。胸がちくりと痛んだ。「いま半分」とか「あと×万円」と、おぼろに期間や予算を数えながら、その実私は、この旅が終わるということをこれまでほとんど真剣に考えたことがなかったのだろう。その日まであと4ヶ月。南米を終わらせ、中米と北米の一部を通って帰るにはじゅうぶんすぎる期間だ。現実的になってこない「帰国」という言葉を胸に、まだ見ぬ異国を思うように、日本のことを思った。
ここクスコからリマまでは、飛行機で飛ぶことにした。クスコからナスカまでバスで30〜40時間と聞いておそれをなし、その区間が$49で飛べるなら、とマチュピチュに行く前から予約してしまっていたのだった。でも浅野くんによればそのルートも道が改善されて、アンデス越えで雪でも降らないかぎり20時間ほどでナスカまで行くことができるんだそうだ。でもまだ体調は完全ではないし、飛行機で飛ぶことにして正解だったのかもしれない。ここからリマにいって一旦宿に大きい荷物を置き、ナスカを往復する。そしたら北上して南米最後となるエクアドルを目指そう。再会した浅野くんとはここでまた別れることになるけど、このあと彼もナスカからリマに向かうというから、また近くどこかで会うことになるだろう。
そういえば先日フジモリ大統領は部下の汚職事件が発覚した関係で、次期の大統領には就任せず大統領選をやりなおすとかいう話になってるらしい。そんな騒ぎのときにリマに行っていいのか少し不安だ。夜になってどばんどばんという音が遠くから聞こえた。花火ならいいけどゲリラとかだったら困る。
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