虫刺され 捻挫ハライタ 日射病
   ゆうべは具合が悪くて悪くて9時に寝たけど、夜中に暑いのとかゆいので目がさめた。アマゾン産のダニの生き残りが突如として蜂起してこれほどあちこち刺すとは思えないので、そもそもこのベッドに南京がいたんだろう。そうだよな、こんな窓のナイ部屋で南京が繁殖しないわけがない。夜があけたら絶対宿かわる!と怒りに燃えて寝直して、朝7時に目がさめた。夜中に起きたとき測ったら38度ちょいだったけど、いまは熱は下がっている。起きて最初のトイレでまたおなかが下った。こんどばかりはどの抗生物質の薬も効果がない。もう体が大と小をわける機能をなくしてしまったかのようだ。

 ラパスを出てから私はコパカバーナで数泊し、ペルーへの国境をまたいだ。ペルーといえばゲリラ、クビ締め強盗、バスジャックなど、治安の悪いことにかけては南米でもトップクラスに有名だ。ペルーに入って街を歩いたらただちにクビをしめられるにちがいないとド緊張してプーノにはいった。

 プーノはチチカカ湖沿いにある街で、沿岸から近い湖上には葦でできた島がたくさん浮かんでいることで有名だ。プーノからは、この島々をたずね、さらに3時間ほどボートでいったタキーレ島を訪れるという一日ツアーが出ていて、私はそのツアーに参加した。浮島はもともとプーノを追われたひとびとが湖上に住みはじめたのがはじまりだけれど、湖上の生活はいかんせん不便なものでここ5年の間にも葦の島の数は2/3ほどに減ってしまい、現在40ほどある島も、多くは観光目的でつくられている。島民のひとたちも、実際には島での生活はしておらず早朝プーノから「出勤」してきて観光客を迎えることが多いのだそうだ。
タキーレ島の町のゲート

 島々で売られているおみやげは到底ここではつくれそうもない石細工のネックレスやTシャツが多く、なんとも奇妙な雰囲気を醸し出していた。午後に訪れたタキーレ島は民俗的に興味深いところだったけれど、ツアーではあまり自由時間がなく、島に上陸して1時間ほどのハイクで島の中心の広場を訪れ、昼食に高いレストランに連れていかれたらあとは帰るだけだった。しかもこの昼食で食べた魚がいけなかったのか、その晩私は急に高熱を発してブチたおれた。おなかもひどくこわれていた。

 幸い宿のおじさんが日本人びいきで、心配して世話をやいてくれたので助かった。体調がやや落ち着いて受け付けの前でおしゃべりしていて、
「どうして日本人が好きなの?」
と訊ねたときに、このおじさんとは不思議な縁があることがわかった。おじさんの弟が実は日本人女性と結婚して日本に住んでいて、おじさんも日本に行ったことがあるのだそうだ。詳しく聞いたらおじさんの弟は東京の中野区に住んでいるという。
「ほんと!私も中野区に住んでたんだよ、で、弟さんは何をしてるの」
と訊ねたら、
「弟はミュージシャンでね」
と彼は言った。


タキーレ島へのボートの運転手。
伝統的な帽子をかぶっている
 なにかピンとくるものがあってよくよく聞くと、弟さんが演奏してるグループというのは、私が勤めていた頃、よく渋谷駅なんかで見かけた、ストリートライブをやってるグループに間違いなかった。会社帰りに渋谷駅の裏手を歩いているとたまに何ともいえない南米ふうの音楽がきこえて、何度か足をとめて演奏を聴いたことがあったのだ。しかも私は彼らのCDも買っている。そのことを話すとおじさんは、
「ホントかい?私も93年から94年頃に日本にいて弟たちと演奏してたんだよ」
と言った。私が就職したのが93年で、翌年にはオフィスは神田のほうに引っ越しているから、渋谷駅で彼らの演奏を見たのは93年か94年ということになる。ということは私はこのおじさん本人と7年も前に渋谷駅で会っていたことになる。

 さてこのおじさんの世話になって全快とはいかないけどやや体調もおちついたので、クスコにむかって出発した。クスコまでは約8時間。このルートは以前はバスでは14時間もかかったところで、私の持ってる最新の南米版ロンリープラネットにも「列車のほうがずっとラク」となっているので私も列車にしようかと思っていた。だけどプーノの宿のおじさんが「いまは道が整備されて時間も短縮されてるよ」というのでバスにしたのだった。

 フジモリ政権になってからというもの、ペルーでは国中のいたるところで道がつくられ、ゲリラも減り、以前にくらべればずいぶんと環境も整備されたのだそうだ。バスに乗っていると道ばたにはしばしば「FUJIMORI PRESIDENTE」(フジモリ大統領)と壁に書かれた建物があり、その権勢の強さを感じさせる。ただし、フジモリ大統領の独裁的な政治運営については反感をもつ向きも多いらしい。ときどき、先だっての大統領選挙で対立候補だったトレド氏の名前が壁にかかれていることもある。それも堂々「フジモリ」に赤く×がつけてあって「トレド大統領」というふうに書かれているのだからドキリとする。


フジモリ大統領のポスターもよく見かける

 そういえばプーノから葦の島を訪れたとき、水の上の直径20mばかりの島にもかかわらず、葦の小屋のような家々の傍らにソーラーシステムのボードが設置されていて、あまりにアンバランスなので印象に残っていた。それはフジモリ大統領が「ペルーの全家庭に電気を!」という政策で設置させたものなのだそうだ。その話しを聞いたときに「さすが力のある大統領だ」と一瞬私は感銘をうけたものだけど、ガイドの説明を聞いてがっくりきた。フジモリ大統領は電気のきていない全家庭に「ソーラーボードの購入を義務づけ」、その費用が各戸$600ずつ。各家庭は6年のローンで毎年$100ずつ、望んだわけでもないソーラーシステムの代金を返しているのだそうだ。


湖面からいきなり家が建ったような葦の島

 葦の島のひとびとは観光収入があるからまだしも、農業をやってるひとたちにとっては毎年$100はかなり大きい出費にちがいない。しかも、ソーラーシステムは故障が多く、品質が悪いものだと彼らがローンを払ってる6年も保たないときく。政府が修理代を出してくれるわけもないし、あらたな負担を考えれば自ら修理代を出すこともままならず、彼らは使えないソーラーボードのためにローンを支払いつづけることになるだろう。そういうことを考えると、たしかにゲリラ対策や道路建設事業でそれなりの成果をあげたとはいえ、フジモリ政権はやはりなにがしかの問題をかかえた政権だったんだなぁと想像がつく。

 そんなことを考えながらクスコに到着し、プーノのおじさんからの紹介で迎えにきてくれていたホテルの車に乗った。ホテルを営んでいる夫妻はとても親切で、このあたりの名所や列車のチケットの買い方までていねいに教えてくれた。けど、残念ながらこのホテルの部屋というのがどうにもいただけなかった。プーノのおじさんの宿は「この値段でこんないいところに泊まれるの?」というクオリティで、あのおじさんの紹介だったから同じぐらいの質の宿を期待して来たのだけど、正直なところこの宿は、市街地の中心なのはいいけれど部屋に窓はないし、バスルームは狭くて掃除した直後ですら汚れている。部屋が受付に面しているのでいつもうるさい。ツーリストが出入りするのがうるさいなら宿に罪はないけれど、ここの夫妻がえらくツアーの売り込みに熱心で、来る客来る客に市内観光や遺跡ツアーの勧誘をしているのでドアごしに暗記するほど同じ説明を聞かされる。クスコまでのバスの疲れでまた熱がぶりかえしているのにこの声で深夜まで何度も起こされ、深夜から明け方にかけては虫の襲撃で目がさめた。

 まだ宿の旦那と奥さんがいない早朝に宿を出た。もう街は動き始めていて危険はない感じだ。何軒かのホテルを手当たり次第にのぞいているうち、うっかりすごく高級そうなホテルの受付に入ってしまった。値段を聞けば1泊20ドルという。これはまったくお呼びでないと思って出ようとしたらちょっと年季のはいった受付嬢が、
「もっと安い部屋をお探しですか?」
と呼び止めてくれ、奥の15ソルの部屋に通された。20ドルの部屋はバス・トイレ・テレビのゴージャスな部屋なのに対しこっちはちょっとシンプルでバストイレ共同。でも日当たりがよく、部屋は12畳ぐらいあってベッドが1室に3つもあり、15ソル(2ドル強)というのは過ぎた部屋だった。15ドルの聞き間違いかと思って受け付けに戻ったけど確かに15ソルだと言うのでその部屋に泊まることに決めた。

 宿を移って倒れるようにひと休みした。起きたら、虫とお別れするために洗濯をしなければならなかったけど、ここ数日ほぼ何も食べてない状態だったから洗う体力がなく、綿パンや長袖など大きいものはやむなく洗濯やに出した。

 クスコからは南米でも最大のみどころとして名高いマチュピチュ遺跡を見にいくつもりだった。マチュピチュは切り立った山のてっぺんにあるインカの遺跡で、伝説のなかに姿をとどめたまま何世紀もの間誰からも忘れられていたけど、ある情熱ある歴史家によって発見され、今日にいたっている。その姿は山裾からはまったく見ることができず、空中都市という異名すらある。そのマチュピチュへはクスコから列車で数時間。体調が落ち着いてからとは思ったけれど、列車の出発時刻ぐらいは知っておかないと、とそのまま駅前まで歩いていった。

 駅前はひったくりなんかもあってとても危険な地域だと聞かされていたけど、さほど危険をびりびり感じるというほどでもない。おなかがこわれててぼんやりしてるせいかもしれない。駅できいたら、チケットの発売時間も列車の時間も、昨夜の宿の旦那の話とはだいぶちがっていた。チケットについては駅の窓口でなく、入り口に立ってる警備員が教えてくれたんだけど、この警備員がにやけたヤツで、
「彼氏とか一緒に行くやつはいないのか?俺がガイドしてやろうか」
とかなんとか言われたけど丁重にことわった。あんたガイドしてやろうはいいけど、そのあいだ駅の警備は誰がすんの。

 無理して歩いたせいですっかり具合が悪くなって、宿にもどって体温をはかったら、何度はかっても35度ちょいしかなかった。とりあえず下痢にともなう発熱はおさまったようだけどおそろしく体力おちてる感じ。鏡をみると目の下にクマができてしまっている。

 1時間ほど休んで2時頃インターネットカフェにむかった。ペルーはインターネットカフェ大国といっても過言ではない。プーノですらインターネットカフェの利用は1時間あたり70円か80円ぐらいで接続速度も上々だった。クスコはマチュピチュの基地となる一大観光都市なのでツーリストの数にあわせてインターネットカフェの数もハンパじゃなかった。さてそのうちのひとつに入ってしばらくメールの読み書きをしていたときだ。何か私の肩に触れるものがある。黄色い袖が視界にはいった。はてこんなところで、パンパツアーかなんかで会ったひとだろうか、とかいう考えが一瞬頭をよぎった。振り返ったら。

 そこに浅野くんが立っていた。照れくさそうに笑って、
「よ、久しぶり」
と彼は言った。いくつか言葉を交わしたけど、なんか動揺してそれまで書こうとしていたメールの内容をすっかり忘れてしまった。

 メールの送受信がひととおり終わってインターネットカフェを出た。そろそろごはんにしようと思っていたので、日本人のキンちゃんと呼ばれる女の人が経営する「KINTARO」というレストランにはいった。プーノのサカナいらい何を食べても消化しないし、ローカルフードに全く食欲がわかなくなってしまっていた。南アのへんからただでさえ日本食に里心がついてるうえに具合が悪くて、日本のごはんしか考えられなくなってしまっていた。

 注文したかしわうどんは鶏が5切れとほうれんそうとネギがはいってて、うどんは手打ちだというけどふにゃふにゃ。だけどこのふにゃふにゃは、おなかのこわれてる私にはちょうどよかったかもしれない。一生懸命食べてるんだけどうどんは全然減らなくて、大半浅野くんに食べてもらった。だしのきいたつゆはおいしくてほとんどのんだ。鶏は消化に悪いと知りながら、鶏ギライの浅野くんに食べてもらうこともできず食べてしまった。

 それにしても、少なく見積もっても15軒はあると思われるクスコのインターネットカフェのちょうど同じ店にちょうど同じ時間に居合わせるなんて。この旅では数々の偶然の出会いや再会を経験しているけど、先日のプーノのおじさんの件といい、こんなことがあまり続くと、誰かがシナリオでも書いてるんじゃないかと思えてしまう。浅野くんはあのあとラパスに何泊かしてコパカバーナに行き、ホテルの屋上で日光浴していたら風邪ひいてコパカバーナにやや長居して、私と同じルートでクスコに来て初めの数泊はオスタル花田という日本人宿にいたらしい。オスタル花田というのは、イースター島で会った加藤くんも言っていたけど宿のご主人が「そこまでやるか」ってぐらい愛想がわるいので、3泊して出てきていまはバスターミナル近くの安宿に泊まってるということだった。浅野くんもプーノの宿でひどく虫にやられ、駆除したと思ったら花田でも南京にやられたとかで手なんかひどく膿んでて痛々しかった。

 どのぐらい喋ってたのか、1時間ぐらいたってか、KINTAROを出てみると私はまたすっかり具合がわるくなって、もう歩き回ることはできない感じだった。うちの宿の前まできたら浅野くんが、
「明日どうするの?」
っていうから、
「うちでねてる」
って言った。そしたら、
「6年前にもクスコに来たんだけど、そんとき聞いた情報が正しければ土曜は泥棒市があるらしいんだ。行くんだったらつきあうけど」
という。暗に誘われた感じだった。
「具合よくなったら」
って、10時にうちの宿の前で約束した。このあと浅野くんは旅行会社で調べものをするというんで、ふざけて、
「一緒に行ってあげなくていっか?」
って聞いたら、
「いやいいよ。俺は・・・やっぱりひとりがラクだよ」
って言って浅野くんは歩いていった。なんで・・・泥棒市に誘ったの?と思った。

* * *

 翌日浅野くんと一緒に泥棒市を探したけれど、6年のあいだに泥棒市は姿を消してしまったらしい。当時はほんとにお金持ちの家から盗んできたような家具なんかも売られていたというから、まさに泥棒が収穫を売る市だったんだろうけど、それが6年のあいだになくなったとなるとそれもフジモリ政権の成果のひとつかもしれない。浅野くんが昨日「俺は、ひとりがラクだよ」と言ったのがずっとひっかかっていたけど、歩いているあいだに私が一緒にマチュピチュに行くことを提案すると彼は拒むようすではなかった。チケットを買いに駅に行くと昨日の警備員がいて、「よう、来たね」という顔で愛想よく挨拶された。「アミーゴがいるじゃんかよ嘘つき」という表情じゃなかったから、彼がマチュピチュを案内しようかっていったのは下心とかじゃなくてほんとに親切心だったのかなあとちょっと反省した。

 チケットを買い、昼1時頃になって昼食にむかった。おなかは空いていなかったけど、用心して何も食べないでいても治るわけじゃないみたいだし、どうせ下るなら何か少しずつでも食べておくかと思ったのだった。週末だからしょうがないけどツーリストタウンにしてはずいぶん店が閉まっているなぁと思いながらあるいていたら、むこうのほうからアルマス広場にむけて楽隊があるいてきた。楽隊のあと軍隊みたいなひとたちの一団がきて、そのあとに御輿をかつぐひとたちの一団がついてきた。御輿には銀の台がついていて、そのうえにキリスト教の聖人なのだろうか、聖母マリアには見えない花嫁姿のマネキンみたいな立像が乗っていた。かついでるひとたちは軍の制服を着ている。御輿は結構重そうだ。御輿が通っていく瞬間に、通りの片側のバルコニーから、年輩の夫妻がカゴいっぱいの白と赤の花びらを立像にむけて盛大になげかけはじめた。ペルーの高原地帯特有の乾いた青い空に重々しくそびえるアルマス広場の教会。その教会を背景に望みながら見送る行進にあざやかな花びらがふりかかる様子は、テレビの「世界遺産」シリーズの一シーンか写真家が撮った写真のようで、その隅っこに自分がたたずんでることが信じられないような気分だった。クスコは美しいところだ、と思った。


アルマス広場前の教会

 翌朝6時に起きて荷造りし、浅野くんと落ち合って出発した。ローカル電車は泥棒が多いと有名だったので、クスコについた当時は片道$15のツーリスト電車で行こうかしらとも思っていたけど、浅野くんと一緒のこともあってローカル電車に乗った。ローカルといってもプリメーラ(ファーストクラス)とセグンド(セカンドクラス)とあって、乗ってみたらプリメーラのほうはほとんど白人のツーリストでいっぱいで、泥棒の入り込む余地もなさそうだ。だけどプリメーラといってもクオリティはやはりローカルで、イスはものすごく浅くてまっすぐに腰掛けていられない。列車に乗ってるあいだに寝ようと思ったもくろみはかなりはずれた。

 スイッチバックして急な斜面を行ったりきたりしながら列車はかなりのぼり、そのあとはゆるゆると下りにはいったマチュピチュの手前には、インカの遺跡をたどるインカトレイルというトレッキングルートがあり、多くのひとがクスコから88km地点と104km地点にあるトレイルの入り口で降りていった。私たちは終点の、温泉という名の駅、「アグアスカリエンテス」で降りた。クスコから曇り空だったけど、かなり強い雨が降っていた。


Chez Maggy レストランにいたオウム

 荷物を置いたあと町をぐるっとまわって食事できるとこを探した。電車に酔ったのか胃がもたれてはいたものの、ゆうべからおなかは下っていなかった。もう普通のものを食べてもいいかと思ってロンプラにものっているレストランChez Maggyに行った。そしてトーストとスープとパスタとフルーツのセットランチを頼んだら、たいしてお客もはいってないのにやたら料理がくるのが遅い。頼んでから30分ぐらいたってやっとスープがきて、それから20分ぐらいしてやっとパスタがきた。それも、私はにんにく風味のフェットチーネをたのんだのにトマトスパゲティがきた。
「ニンニク風味だよ」
って言ったら店員は、
「あそか」
といってトマトスパゲティを置いたまま奥に戻っていき、にんにくの入った生クリームを別皿に盛って出てきた。スパゲティはさげてもらったら、クリームのかかったスパゲティが出てきた。こういうものなのかなあ?と思いつつ、にんにくの入った別皿の生クリームをスパゲティにかけながら食べていたけど、つけあわせのトーストも来なかったので、
「トーストは?」
ときいたら、
「あそうだったそうだった」
といって10分ばかりして消し炭のような、パンのなれの果てが出てきた。そのあと店員さんたちがくつろいでるようだったので、
「フルーツは?」
ってきいたら、
「あ、わかってるわかってる」
といってフルーツサラダがきて、全部でだいたい1時間半かそこらかかったんではと思う。クスコの「KINTARO」をやってるキンちゃんの言葉をひとづてに聞いたところによれば、ペルー人というのはパニクりやすい性格で、お昼時の忙しいときなんかはずっとついて見ててあげないと、一旦パニクりだすとどんどん注文と違うものをつくりはじめてしまうんだそうだ。お国柄じゃあしょうがないか。

 この町は名前の通り温泉がある。町営かなにからしく、駅からホテルのつらなる細い通りをのぼるとそのつきあたりに料金所がある。今日は雨でマチュピチュ観光はできないので温泉にでも行こうかと思っていたけどやはり昼のパスタはまだ私の胃には早かったらしく、具合が悪くなって出かけられなかった。

 翌早朝に起きてマチュピチュ観光の準備をした。まだ雨が降っていて山の上のほうには雲がかかっている。私は起き抜けにまたひどくおなかがこわれ、パパイヤだけほじくって食べ、水とトイレットペーパーをたくさんもって出発した。 アグアスカリエンテスの町からマチュピチュまでは立派なバスが走っている。マチュピチュ遺跡の真ん前にはかなり高級なホテルが1軒あるだけで、1泊200ドルぐらいするんだとか。そこで観光客の大半はここアグアスカリエンテスに宿をとってマチュピチュに向かう。アグアスからバスは頻繁に出るし、バスのクオリティも相当高い。席がまだ空いてるのに、次から次へとツーリストをつめこんだりせずさっさと出発するのもペルーにしては珍しい。ただしこのバスのチケットはをなんと往復で9ドルもする。たった20分ばかりの道のりにこの値段はペルーの交通費では常識はずれに高い。何組かのツーリストが、この料金に怒りをおぼえてか、遺跡までの急な坂道を自力でのぼっていた。晴れていればいい景色の山道なんだろうけど霧でけむってあたりは何も見えない。

 入場券を買って遺跡の敷地にはいった。入場口の反対側にはインカトレイルのほうから来ているらしいバックパック組が大勢並んでいた。この雨と霧のなかテントをはって泊まり、歩いてきたのがさぞつらかったんだろう、みんな一様に憔悴しきった表情だった。といってもこの1週間の準絶食状況で、むこうから見たら私も似たような顔をしていたに違いない。クスコにつくまでは、私もインカトレイルを歩こうかなんて思っていたのが信じられない。入場口を経てやや上り坂になった小道をあがっただけで立ちくらみがした。そこで会った日本人の女の子がいたので挨拶したら、バスでいまあがってきたあの道を、彼女は徒歩でのぼってきたんだそうだ。タフなひとだ〜。きいただけでまた立ちくらみしそうだった。

 展望台の上のほうまで行ったけど、霧で見えるものは何もない。浅野くんは2時間ほどかけてマチュピチュ背後のワイナピチュ山に登る予定だったので途中まで一緒に歩き、1時頃に入場口ちかくの分岐で待ち合わせした。タタミ2畳ぶんほどの幅で石垣の組まれた段々畑にたたずんで霧が晴れるのを待っていたら、徐々に霧の切れ間に遺跡の一部が見え隠れしはじめた。高い山の上を風が乗り越えていくので霧の流れはとても神秘的な動きを示していた。それはちょうど神聖な遺跡の上を幾人もの天なる白い巨人がまたいでいく儀式のようだった。そして巨人たちが立ち去ったあと、峻険なワイナピチュ山を背後にひかえた空中の要塞、マチュピチュ遺跡がそこに残されていた。
霧の晴れたマチュピチュ遺跡

 マチュピチュの全貌をたしかめたあと、住居跡や神殿跡とよばれる区域を歩き回った。ロンプラにはマチュピチュの詳細については何も書いていないので持ってこなかったけど、さすが南米を代表する遺跡だけあってツアー客が大勢いるので説明を聞くにはことかかない。ツアーについてあるく必要すらなく、何かいわくありげな岩の前にたちどまっていれば数分後には英語か、ともすれば日本語のガイドをつれたグループがやってきて私にも説明をきかせてくれるのだった。

 彼らの説明のよれば、さっき私が立っていた展望小屋の付近の段々畑はこの山のかなり低いところまで続いており、標高差を利用して作物を変えていたらしい、とか、段々畑でこまかく区画がわかれているので作物の病気が流行する心配がなかったとか、畑を支える石組みは土留めの役割をしていた、とか。マチュピチュ遺跡の住居跡には200ほどの家があるので全人口は500〜1000人だったに違いないなどというのも聞いた。ただ、マチュピチュが発見された当時この遺跡は全くの無人で荒れ果てており、インカ文明では文字を廃止した経緯があるのでただひとつの文献すらも残っておらず、「住居跡」や「段々畑」にしても「神殿」にしても、その用途だとか人口だとか歴史についてはいずれも想像の域を出ないんだそうだ。

 ひととおり歩き回り終える頃には空は晴れ渡り、気温も高くなってきた。頭上からは強烈な日差しが遺跡を隅々まで照らしている。ただ、私のおなかは依然雷模様で、ときどきゴロゴロいって力がはいらず、2時間ほど徘徊したあとはもう歩く力がなくなって、さきほどの段々畑の上にのぼり石垣にもたれて1時間ほどマチュピチュの全体像をながめていた。このあたりは標高が高くて空気が薄く、歩き続けるのは結構つらい。そのせいか段々畑には私のほかにも同じように休んでいるひとが大勢いた。ひとつの畑はタタミ6畳から8畳を細長く配置したような広さで、人が増えるにつれ、畑1枚に1グループとか1カップルといった割合で陣取って休むひとが増えてきた。

 遺跡を眺めていたら眠くなってきたので石によりかかり30分ほど昼寝した。インカの遺跡の片隅でまどろむなんて、いそがしいツアーのひと達からしたら顔色青くなってうらやむぐらいの贅沢なんじゃないだろうか。だけどこの日向の昼寝がいまの私にはちょっとよくなかったのかもしれない。12時半ぐらいまで眠ったあと、そろそろ浅野くんが来るかもしれないと立ち上がって歩きはじめた。案の定、段々畑の下のほうに浅野くんらしき黄色いフリース姿が見えた。2度ほど呼んでみたけど気づきそうにない。

 通路に出て階段をおりはじめた。ツアーの団体を追い越して住居跡の横の階段を、降りる。階段はそれほど急じゃなかった。ただ、浅野くんが行ってしまうかもしれないと思って急いだのが悪かったのだろうか、一段とばしで石段を踏んでいるうちにふいに左によろけた。足下の石組みが平らでなかったのかもしれない。めまいがしたのが先だったか、足をひねったのが先だったかよくわからない。ただよろめいた拍子にくるぶしのスジをひどく伸ばしてしまった。たしか階段にしゃがみこんで足首をおさえたと思う。足に体中の全血液が集まったようになった。目の前が真っ白になったり真っ黒になったりをくり返し、貧血を起こしたように耳鳴りがし足と頭の両方がいたんだ。前を歩いていた若いヨーロッパ人ツーリストの3人組が振り返って気づき、
「きみ大丈夫?」
ってきいてくれたのだから、うめいたのかもしれない。とっさに、
「大丈夫」
って言ってはみたものの、一瞬にして寒くなって、胸や背中をぐるぐると悪寒が駆け抜け、戻しちゃいそうだ。私があいかわらず足首おさえて悶絶してるので、彼らは階段をあがってきて、足の様子をみながら、
「誰か呼ぼうか?」
と言ってくれた。
「あそこの黄色いひと呼んでもらえる?」
と浅野くんを指さしだら、3人が声をあげて、
「お〜いそこの黄色いひと〜!」
と注意をひいてくれた。様子を察して浅野くんがこっちに向かってくるところで、
「足ひねっちゃったみたい」
と言ったまでは憶えている。あいかわらず頭は白黒していて砂嵐がかかったように視界がさだかじゃなかった。3人組にお礼を言おうと思ったけど浅野くんが何か言ってくれたようだ。3人が去っていく後ろ姿が見えて、それから真っ暗になった。

 すごく時間が経った気がした。浅野くんが私の体をおこして自分の帽子をかぶせようとしているらしい。
「日にあたりすぎたんだ、日射病か熱射病になったんだよ」
水の中で聴くように浅野くんの声がぼよんぼよんと耳のなかでひびいた。私はその帽子が暑くて、頭からつかみとって押し返そうとしているらしい。浅野くんは私を遺跡の壁の日陰にすわらせようとしている。私は体が倒れるのがいやで逆らっているらしい。そう思ったところでじわじわと我にかえってきた。
「帽子暑いからいいよ」
と言って自分のバッグから水を出して飲み始めたら浅野くんは私の背中の汚れをハタハタとおとしながら顔をのぞきこんで、
「よかった、ひとを呼ばないといけないかと思ったよ」
って言った。

「んな大げさな」
と答えたら浅野くんは、
「大げさじゃないよ、ホントびっくりしたんだから」
とまじめな顔をして怒った。浅野くんによれば、わずか10秒前、私は白目むいて暴れていたらしい。大の字になって手足をつっぱり、一瞬冗談でやってるのかと思ったそうだ。だけど目がマジだったし、ふざけるような場面でもないので「やばいこりゃホントだ」ってあせったようだ。通りがかった夫婦が、
「彼女、大丈夫?手をかそうか?」
と言ってくれたので、ほんとに医務室まで連れていくの手伝ってもらおうかと思ったらしい。でもそれはほんの一瞬で停まり、おとなしくなったと思ったら起きあがってもとに戻ったという。

 我に返ってからは、冬眠のあとのようにだんだんと状況を思い出してきた。プーノで具合悪くなって以来この一週間というもの食べるもの食べるものすべて下ってしまってほとんど何も消化していない状態だったから、たぶん貧血を起こしたんだろう。それにしても、貧血でよろめくぐらいのことはあっても気を失うなんて、ましてやそのあいだ暴れるなんてこといままで一度もなかったので自分でもショックだった。最初は浅野くんが私をおどかそうとして冗談言ってるのかと思ったけど心配そうに私を見る様子が本気だったのでどうやら嘘じゃないらしい。頭うった記憶はないけど、後頭部が少しいたんだ。

「ひとりにしとくとロクなことしないんだから」
と浅野くんがぽつりと言った。でもその目は面倒がっているわけではなく、心底心配している表情だった。
「わざとやったみたいに言わないでよ」
とクチでは憎まれ口をききながら、心では浅野くんに感謝していた。もしあのときインターネットカフェで浅野くんに会っていなかったら・・・。そしたら浅野くんを追ってあわてて階段を下るというシチュエーション自体が存在しなかったことはたしかだけど、今日の体調不良もまた間違いのなかったことで、同じようにどこかでよろめいて、頭ぐらいは打ってたかもしれない。浅野くんが一緒でなかったら、私は誰かに助けてもらうことができただろうか。そう思ったら、あの再会にも感謝しないわけにいかなかった。

 とりあえず足の痛みがやわらぐのを待って、浅野くんの肩を借り、歩いて入場門まで降り、バスに乗って町まで下った。帰りは霧がすっかり晴れて切り立った山々と谷に流れる川が美しい。ここはバスがつづら折りをくだってる間に、車道を貫く階段をかけおり、バスが通るたびに「グ〜ッバ〜イ」と呼びかける男の子「グッバイボーイ」がいるというので有名だ。私たちのバスにも1人グッバイボーイがついてきて、行ったりきたりするバスに毎回グッバイを叫び、坂をおりきったところでバスにのりこんできて、けたたましい声で「グーッバーイ」と叫んで最後にチップを集め始めた。私はこのグッバイボーイを楽しみにしていたんで1ソル用意して、彼にあげた。

 夕方になって湯治に行こうってことになり、足に包帯をきつくまいてサポーターにして、よちよち歩きで温泉に向かった。温泉は5ソル(150円ぐらい)。水着で入る温泉だ。料金所を通り清流のほとりを歩くと小さなゲートがあって、はいってすぐに荷物預かり所がある。ここはあずけた荷物から持ち物がなくなると評判なので荷物はあずけない。温泉は露天風呂で小ぶりのプール1つに、4,5人はいれるぐらいの浴槽と体を洗う洗い場からなっていた。プールのそばにはバーがあってビールなんかを売っており、アメリカンポップスやスペイン語の歌謡曲を流しているけど、その音楽のあいま、塀のむこうを流れる清流の音がさわやかに聞こえた。四方を高い山の壁にかこまれ日没は見えなかった。ただプールにつかっているあいだに日が落ちたらしくあたりは徐々に暗くなっていった。日本の温泉を思い起こさせる、れっきとした硫黄泉のにおい。湯ノ花ではないけどお湯は白濁して底が見えない。浴槽の底には小さい玉砂利みたいのがしいてあって、川底を踏んでいるような感触がある。

 プールには、夕暮れとともにマチュピチュ観光を終えて戻ってきた白人ツーリストが次々ときて、ビール片手に談笑を始めた。プールは主に白人ツーリストでしめられていて、傍らの小さめの浴槽は地元のひとたちがつかっている。最初これはツーリストと地元のひとの使う浴槽をわけてあるのかと思っていたけどそうじゃなく、小さい浴槽のほうが温度が高くてあったかいのだった。両方の浴槽を行ったりきたりしてるのは私たちぐらいかと思っていたら、もうひとり、顔立ちからいって日本人らしき、丸顔でボウズ頭の男の人が行ったりきたりしていて、目があったときに軽く会釈して挨拶した。そのひとはどう見てもブリーフとしか思えない水着で入浴していたんで、ほんとに日本人だったらかなり変わったひとだ・・・と思った。

 お風呂には結局2時間ちかくはいっていただろうか。足のいたみはひかないまでも、体はずいぶんあったまった。こころなしか体がラクになったみたいだ。夕食はひかえてフルーツを少しかじるだけにしたけど、寝る前にトイレいってびっくりした。昼過ぎまであんなにゴロゴロいっていたおなかがいきなり完治していた。