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イグアス移住地
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パラグアイもブラジルとの国境までくると朝からかなりむし暑い。でも昨日泊まった宿「オーストリアホテル」はシウダーデルエステでもかなり高級なほうで、エアコンまでついていたのでぐっすりと眠ることができた。下に降りて朝ご飯を食べ、大きい荷物は、アスンシオンから一緒に来たひとたちに預けて宿を出た。宿か近いスーパーでおみやげにブドウを2キロほど買った。今日はkm48にあるイグアス移住地に住む福井さんちに行くのだ。
宿のオーストリア系の奥さんから教わったとおりのバス停に行きkm48行きのバスを尋ねると、誰もがクチをそろえて、
さてそれは置いといて、km48までダイレクトバスがないかとうろうろしていたら、通行人のなかでも最も知っていそうにないジュース売りのおじさんが、身振りで「ついてこい」という。あやしいんじゃないかなあと思いつつついていったら、大通りを横切り緑地をつっきって、たしかにダイレクトのローカルバスがあるところまで連れてきてくれた。おじさんがお礼にジュースを2本買えというんでいくらか聞いたら1ヘアルという。色水、とよんで差し支えなさそうな、粉ジュースをとかした鮮やかなオレンジ色のジュースが、いかにもひろってきたような500mlの空きペットボトルにつめてある。どう好意的に解釈しても使用されている水は水道水であろう。
ちなみにヘアルというのは隣国ブラジルの通貨だ。だけどここシウダーデルエステは貿易の活性化のため無税地域に指定されているとかで南米各地から貿易商があつまり、国境を接するアルゼンチンのペソやブラジルのヘアル、そして米ドルなんかはそのまま通用するようだった。で、ヘアルで請求されたことじたいはいいとして、1ヘアルは日本円で60円ぐらいに相当する。いくら連れてきてくれたお礼のため、といってもこの色水が60円もしてよいのだろうか。ムムム、と悩んでいたが、ふとパラグアイ通貨のガラニーでは?って聞いてみた。
さて、ここで今日お邪魔する福井さんちについて復習をしておこうと思う。福井さんは、私のかつての上司の藤島さんのいとこであり、トルコでお世話になった伊藤さんのいとこでもある。この説明に関しては藤島さんとその一族の説明を避けてとおることができないのでまずそこからはじめよう。
そもそも上司の藤島さんは私が会社に就職するときに採用の担当をしていたひとで、会社にはいってからも開発の仕事の指導をしてもらったり、かと思うと冬は大勢でスキーに連れていってもらったりととてもお世話になった。人柄に学校は関係ないけど東大出ているくせにエリートを気取ったようなところがまるでなくてスポーツが好きで仕事が好きでひとが好きでまるで子どもみたいなひとで、藤島さんをぬきにして私の6年の社会人生活はまったく語れない。「旅のきっかけ」の冒頭に出てくる眉をハの字にしている上司も実はこの藤島さんだ。私が出発することについて最初は反対されたものの、最後にはとても興味を持ってくれ、出発前には
この伊藤さんというのは、前にも書いたけど幼いうちにご家族とパラグアイに移住してその後25ぐらいまでパラグアイやアルゼンチンで過ごされ、そのあとJICAで働くようになって日本に戻った。数年を経てこんどはトルコでのJICAのプロジェクトを指揮することになり、私がお邪魔したときはトルコに住んで3年になるところだった。伊藤さんと藤島さんはお母さん同士が姉妹。そのお母さんたちのお兄さん、つまり藤島さんと伊藤さんのおじさんも、伊藤さん一家と前後してパラグアイに移住されていた。そのおうちが福井さんちだ。おじさんはほぼ引退されていて、いまは伊藤さんと藤島さんのいとこである一朗さんが一家を支えているらしい。
昨夜のオーストリア・ホテルのおばちゃんから、
さてぎりぎりあいていた席に乗り込んだけどこのバスは網棚もない。荷物を置くすきまもないので、肩掛けバッグとリュックとブドウを膝の上にかかえて座った。隣に座っていた現地人のおばちゃんからしきりとスペイン語で話しかけられた。想像で訳すると、このおばちゃんはkm20に住んでいて、商用でシウダーデルエステの街に来ていたようだ。街には仕事でときどき来るんだそうだ。
やたらスローに走るバスだったんで街道沿いの景色がよく見える。アスンシオンからシウダーデルエステに行く途中にも思ったんだけど、街道沿いの木の葉っぱがときどきクスリでもまいたみたいに一斉に枯れていることがある。パパイヤの木に実がたわわについているのに葉が枯れて真っ茶色になってるのが目につく。いったいどうなっているんだろう、と思いながら揺られているうち眠気に襲われて一眠りした。目がさめたらどこかわからない草原の間を走っていたので一瞬不安になったけど、必要なときの前に目が覚めるのは子どもの頃から私の得意技だ。不安になった一瞬の後にkm41のシロサワ商店の前を通過した。そのあと目を皿のようにしてて46kmの呼び声とともに運転席のヨコにいき、48kmのチャルーアという商店の前でおろしてもらった。チャルーアという商店に行って福井さんちどこですかときくと、
福井さんちはめちゃ広い敷地に囲いがあってたくさんの豚が飼われていた。その奥にひとが座っていたので福井さんですかと話しかけると、それは福井さんちで働いている現地のひとで、福井さんちに雇われているひとのようだ。「福井さんちあそこ」と母屋らしい建物を指さされて、のぞくと洗濯をしてる若い奥さんがいた。一朗さんの奥さんのたまみさんだった。
奥さんに声をかけると、
実は藤島さんのご両親が見えてることはあそびに伺う前から知っていた。ほかのお客さんだったらお邪魔できないところだったけれど藤島さんは会社でも一番お世話になったひとで、そのご両親となると私はぜひお目にかかってみたい、という気になってしまったのだった。おまけに藤島さんは会社でもっとも型破りで知られたひとだ。会社のもと部下が図々しくあそびに来たところで、そのひとのご両親・ご親戚が気にされることもないだろうと想像したのは間違っていなかったようだ。
奥の15畳ぐらいの部屋に通され、荷物を部屋に置かせてもらった。この部屋は本来子供部屋なんだけど、いまは藤島さんのご両親の部屋になっている。今日は私はここに寝ることになってるらしい。藤島さんのお母さんが、
食堂のイスにかけるとたまみさんがオレンジをたくさんしぼってポットにいっぱいジュースをつくってくれた。だけど私は道案内のおじさんから買ったジュースをまずのんだ。ジュースはやっぱり果汁0%の粉ジュースだったけどオレンジの粒のしぼりかすと皮の破片がはいっていたんで少しだけ本物のオレンジの味がした。食堂で旅のはなしなどしていたら2時間かそこら経っただろうか。
しばらくすると植木等にちょっと似た感じのイサおじさんが出てみえた。藤島さんと伊藤さんのおじさんにあたるひとだ。その奥さんの礼子おばさんも出てみえてそれぞれにご挨拶した。礼子おばさんは歯切れのいいしゃべりかたからひとめで竹を割ったような性格の方だろうと見てとれた。しばらくしていとこの一朗さんも仕事から帰ってきた。一朗さんていうのは、実際は35才ぐらいと言われたろうか。電話で話した感じではとても落ち着いて聞こえたからもうちょっと歳上の方かと思っていたんだけれど会ってみると実際の年齢よりだいぶ若く私と同じぐらいの年齢に見えた。奥さんのたまみさんは、ほっそりしていかにも優しい雰囲気のひとだ。たまみさんのやわらかいものごしから絶対まだ結婚されて間もないんだろうと踏んでいたんだけど、ほかにこのおうちには中学生ぐらいの息子さんと娘さんがいて、はてご親戚のお子さんたちだろうか、と思っていたらたまみさんと一朗さんのお嬢さんと息子さんだった。
日中はおうちの方たちが忙しかったら外に出かけて、開拓者だった伊藤さんのお父さんが建てられた日本人学校や、福井さんちのまわりにある農場などを見て来ようかと思っていたけど、藤島さんの幼い頃のはなしだのを訊いていたら喋ることがつきなくて、結局日がくれるまでずっとうちのなかにいた。藤島さんのご両親からは、藤島さんが奥さんと結婚されたときの話しや、結婚後に奥さんが大学に行き始めお医者さんになった経緯なんかをあれこれ聞いた。藤島さんのご両親は仲のいい夫妻で、ふたりの話しているのをきいていると漫才みたいだった。お母さんは静脈瘤があるらしくて、
藤島さんのお父さんは私の上司だった藤島さんのお父さんだけあって喋ってるのを聞いてもおもしろいし話をひきだすのも上手だ。それが社交上手とかいう気取ったもんじゃなく、まるで友だちみたいな感じであれこれ訊いてくださるんで私はつい嬉しくなってあれこれ調子にのって喋ってしまっていた。福井さんちに遊びにきたというのに晩ご飯のお手伝いもしないで私は藤島さんのご両親夫婦と喋ってばかりいた。
さてしばらくしてたまみさんと礼子おばさんが腕によりをかけたごちそうができあがった。晩ご飯は野菜たっぷりのしょうゆ風味の焼きそばに、同じくしょうゆで下味をつけたジューシーな牛肉の香ばしい焼き肉、純正のパラグアイ製のたくあんほかキャベツなど数種類のおつけもの、新鮮で香りいっぱいの春菊のおひたしなど。しょうゆ味に飢えていた私にとっては、唾液が一気に分泌される音が耳もと聞こえてしまうほどおいしそうな料理の数々だった。
そうやってパラグアイの話しをきいたり、私の旅の話しをしてにぎやかに夕食のときを過ごした。特に福井さんちの方たちには、外からやってきてスペイン語もろくに話せないで地理にも交通事情にも暗いわたしがアルゼンチン〜チリ〜ボリビアと通ってパラグアイまで来たこと、自力で福井家をさがしあてて訪ねてきたことにっても驚かれたみたいだった。チリからパラグアイに来ようとしたけれど雪でアンデスが越えられずボリビアに向かった話しや、ボリビアのサンタクルズからパラグアイの首都アスンシオンまでバスで26時間と言われたのに実際には35時間かかったという話しなどには特に興味をもって聞いてくださったみたいだった。南米で育ったひとでもよほど用事がないかぎりそんなルートのバスに乗ることはない。ましてや一朗さん宅は車もあるし、ここはバスの往来も多くシウダーデルエステに行くにもアスンシオンに出るにも便利なところだ。自分たちのほうが身近なはずのパラグアイの交通事情を旅行者の私からきくというところに、とても興味をくすぐられるらしかった。
ところで、喋っていて街道沿いの木の葉が枯れていた理由がわかった。藤島さんのご両親が来たばかりだった2、3週間前、というからちょうどアンデスの上が大雪で国境が封鎖されていた頃のことだろうか。パラグアイは移住生活はじまって以来の冷え込みになって、1週間ばかりたてつづけに霜がおりたらしい。パラグアイはそもそも熱帯の国で、ここらの植物は霜なんてものに堪えられる種類じゃないのでいっせいに枯れてしまったのだそうだ。街道からここにはいってくる通路のわきにも草っぱらがあって普段はそこに雑草が青々と生えてるらしいのに私が見たときは完全に黄色くなってしまっていた。反対側にはバナナの木がたくさんあってこの時期はたわわに実ってるはずが、どの木も葉がすっかり茶色くなって、なってるバナナも途中で冷凍バナナになって育たなくなってしまったのでいまは片端からとってこまかくして豚のエサにあげてるんだそうだ。
街道からの通路を歩いてきたかぎりではわからなかったけど、福井さんちでは現在ちっこいのもいれると全部で360頭もの豚を育てているんだそうだ。でもこの仕事が軌道に乗るまでには長い道のりがあったらしい。よそできいた話では南米の移住というのはどこでもたいへんな苦労があったようだ。パラグアイは当初「家もあります、森は開墾されています、畑ももうできてます、水もふんだんにあります、土地は農作に理想的です」と言って各国対しに移住を誘致する依頼を送ったらしい。しかし実際に来てみると土はやせて赤く水はけは悪く、移住地には畑どころか木々が根をはり農作どころではない。かといって50日もかけて船でやってきたというのにいまさら戻ることもできない。移住家族たちはここでいったいどうやって農業をすればいいのかと途方にくれたそうだ。
ここに移住してからしばらくは自然との闘いをつづけ、少しおちつくとイサおじさんたちはひとを雇ってとうもろこしをつくったり畑をたがやしたりするようになった。けど、作物を育てて売っても、儲けは雇っているひとたちの賃金を払うとなくなってしまうぐらいで、少しも貯えができない。試行錯誤をくり返し、最後におじさんたちは豚を育てることを思いついた。最初は豚を豚舎につないで育てていたけど、あまり母豚が太ると寝ているあいだに子豚をつぶしてしまう。食べるばかりで子供をあまり産まない。体は弱く、病気がはやると一度にばたばたと何匹もの親豚が死んでしまう。何年か苦労したあとに豚もある程度運動させなければならないということがわかった。それで現在のように囲いをつくって放し飼いにする方法を編み出したのだそうだ。その結果、豚たちは大きくなるのにちょっと時間がかかるようになったものの、成長過程での死亡率はぐっと下がり、健康な豚が育つようになったのだとか。
これだけの規模になると経営するのも簡単ではない。豚たちの世話をする地元のひとたちに指示をあたえるのも一朗さんの仕事だ。おまけに一朗さんはこの街ひとたちからの信頼が厚いので農協の運営をまかされていて、週に3日、忙しいときには月水金というとびとびのスケジュールで300km先のアスンシオンまで行って農協の運営に関するうち合わせをしたり調整をしたりに奔走しているそうだ。
食事の席のヨコに息子さんと娘さんがときどき出たりはいったりしていた。藤島さん夫妻はお孫さんがないのでここのおうちのマイちゃんとシンイチくんを自分の孫のように思っているらしい。ふたりの成長の話しをきいては顔をほころばせていた。シンイチくんは食後に食卓に来てスペイン語の勉強をたまみさんに見てもらいながらときどきチラ、とこっちを見て、目が合うとはにかんでにこっと笑った。
ちなみに一朗さん夫妻は子どもの頃からパラグアイにいたのでスペイン語はぺらぺら。ときどき何を喋ってるのかな?と聞き耳をたてるとスペイン語で話していたりする。完全なバイリンガルっていうのは不思議なもんだなあと思った。一朗さんは、生まれは日本だけど幼いときにこちらに来たので通称「1.5世」と呼ばれるらしい。たまみさんはこちらで生まれた2世で、国籍はパラグアイ人なんだそうだ。パラグアイ人だと近隣諸国に行くにはIDの提示だけで済むんだけど、一朗さんは日本のパスポートなので、近隣諸国に行くにもIDだけではすまずビザだとか書類だとか言われて不便なんだとか。日本で生まれたひとがパラグアイの国籍をとるのは結構むずかしいらしいけど、逆にパラグアイで生まれたひとはというと、出生後短期間に届けを出せば日本の国籍は簡単にとれるらしい。
外国で生まれた子どもは20才までは両方の国籍を持っていて、20才のときにどちらか選択することになるんだそうだ。このときにパラグアイを選択すると、日本では二重国籍を認めていないから、パラグアイ国籍だけになってしまう。ところが日本を選択したばあい、パラグアイは国籍を消滅させるという法律がないもんで、両方の国籍を持ち続けられるんだそうだ。そういうひとたちは、日本に行くときには日本のパスポート、近隣諸国に行くときにはパラグアイ人のIDで行くのでさらに便利らしい。
ちなみにたまみさんちのお子さんマイちゃんとシンイチくんのうち、片方は申請する時間がなくてパラグアイ国籍、片方は日本とパラグアイ両方の国籍を持ってるらしい。たまみさんの悩みは息子さんたち3世がスペイン語があまり得意じゃなくて友達が日系人ばかりだということなんだそうだ。彼らは週に3回月水金にスペイン語の学校に行き、残り週3日は日本語の学校に行くけど、どちらの学校でも日系人の友達とばかり喋っているからスペイン語が身に付かない。それでたまみさん夫妻のあいだでもできるだけスペイン語で話すようにしているんだそうだ。
3世の彼らのスペイン語ギライについてはひとつエピソードを聞いた。福井さんちの話しではないんだけど、シンイチくんの友達のひとりがスペイン語学校のテストを受けたときのことだ。問題の文章を読んで内容はわかったけど答えがどうしてもスペイン語で書けない。彼は思いあまってすべて日本語で答えを書いてしまったらしい。内容は合ってるけどパラグアイ人の先生には日本語がわからない。当然全部×をもらってきた。お母さんが驚いて、
福井さんちでは食生活とかいかにも日本的な暮らしをしているけど、パラグアイで生きていくからにはスペイン語はかかせない。成長期にごく自然にスペイン語を話す友だちができてごく自然にスペイン語を身につけた一朗さん夫妻のもとにあってどうして3世の彼らが突然スペイン語を話す地元のひとたちとの間に隔たりをつくってしまったんだろうか。彼らの将来を考えるとたまみさんはちょっと心配になってしまうんだそうだ。
ついでに書いておくと、ここのスペイン語学校は週3日しか授業がなく5年生までは授業が午後からなんだそうだ。日本語学校のほうはスペイン語学校のほうの隙を埋める時間割で授業をやるので日系の子はヒマということはないけど、パラグアイ人の子は5年生までのあいだ週3日間の午後をのぞいては遊んでるんだそうだ。もしかしたらそういう教育にかける手間の違いとか価値観の違いとかが彼らの間に溝をつくってしまったのかもしれなかった。
そのあとも藤島さんたちと福井さん一家とわいわいとおしゃべりしていた。一朗さんは8時くらいに農協の寄り合いで出かけていき、9時頃に戻ってくると、
お店にはいると藤島さんのお父さんがさっそくとびついて歌い始め、私も2番手で歌い始めた。カラオケなんて日本を出て以来だ。ここのスナックのカラオケはLD式で、チェンジャーがないんでママさんがつききりでディスクをかえていた。藤島さんのお父さんが曲目集を見て、
たまみさんは川中美幸が上手なんだけど唄うときははにかんでかならず一朗さんをひっぱっていった。一朗さんは大柄なぶんひびく声で、「マイウェイ」を唄うときに1番は日本語、2番はスペイン語で唄ったりしていてかっこいい。ひかえめなたまみさんを一朗さんがさっそうと射止めてこのカップルが生まれたんだろうなあなどとふたりのデュエットを見ながら私は勝手に想像していたんだけど、それはあながち間違ってないんじゃないだろうか。
11時頃になって一朗さんが時計を見たので、明日の仕事もあるだろうしもうそろそろ帰る時間なんだな、と思ったら別の店にハシゴするだけだった。車で移動するあいだに一朗さんはイグアスの町のなかをダイジェストに観光させてくれた。街道からみると福井さんちからkm41までの一帯は閑散として学校と農協の看板が見えるくらいだったけど、街道から北側に少しはいると野球場があり病院がありスーパーがあり、かなりにぎやかで家々も多かった。開拓者として移住されたひとたちの街だから、街というよりは農村に近いんだろうと私は想像していたけど家々はつくりが大きく道路は広くとってあって街はむしろアメリカの地方都市なんかに近いように見えた。
「次の店は見た目はあまりよくないけどいちばん居心地がいいんだよ」
フィッシャーさんはパラグアイ生まれだけどドイツで大学に行き、彼がイギリスで働いていた頃にイギリス人の奥さんと知り合って結婚されたそうだ。奥さんと結婚してからはアフリカのスーダンで働いたりして、やがてここに戻ってきてシウダーデルエステの街に家を構えた。奥さんは英語の先生で、いまは里帰りしてイギリスに行ってるのでヒマをもてあまして彼は毎日のようにここにいりびたっているんだそうだ。一朗さんはときどきここでフィッシャーさんと顔をあわせるらしい。今日もフィッシャーさんがいたんで、
それはとても素敵なことだな、と私は思った。そういえば、
カウンターで飲んでいたひとのひとりがなんでも知り合いの息子さんだったとかで藤島さんのお父さんは寄っていって、そのままそのひとが帰るまで話し込んでいた。なんでも藤島さんのお父さんがパナマにあそびにいっていたらそのひとのお父さんに会って、日本人会か何かの名簿をつくりたいと言われたのでひきうけてパソコンでタイプをしてあげたんだそうだ。会ったことないひととも気易くうちとけてすぐに話しを始められるところなんかも、藤島さんのお父さんらしい。カラオケを唄っているときに私が、
2時間ぐらい唄っていたらひとがだんだんとはけていって、午前1時頃までいたらもう残りがフィッシャーさんと私たちだけになった。そろそろ帰ろうかといって立ち上がりかけたらフィッシャーさんが、
家にもどったらたまみさんがお風呂をわかしなおしてくれ、久々のバスタブにつかった。バスタブにつかるなんて、トルコの伊藤さんち以来のことじゃなかろうか。実に半年以上私はお風呂にはいっていなかったことになる。半年お風呂にはいってませんでした、って頭のなかで考えながら「なんて人聞き悪いんだろう」とひとりでクスリと笑った。あったまったところで布団にはいった。藤島さんのお父さんは飲み過ぎたらしくて布団にはいってからしばらく具合わるいとうなっていたけどしばらくしていびきが聞こえるようになった。かつての上司のご両親と、遠くパラグアイで同じ部屋で眠るなんて、ひとの縁はほんとに不思議なもんだ。それにしても、家族でもない私に移住地の生活を見せてもらって、おまけにこんなによくしてもらって、こんなに恵まれた旅行者もいないだろうと思いながら眠りにおちた。
翌朝。もの音で目がさめるともう7時半で、藤島さんのご両親はすでに起きたあとだった。顔を洗って食堂に出ていくとすぐにたまみさんがごはんとみそ汁をもってきてくれた。朝食はまた純和風でチリ産の鮭におつけもの、いかの塩からまであった。久々の日本食らしい日本食で、ごはん2膳もいただいて、そのあとフルーツまでいただいた。ごはんをいただいてる間に一朗さんとお母さんの礼子さんが出かけていったのでご挨拶した。
そのあと食堂で藤島さんのお母さんとおしゃべりしたり、かぎ針編みで座布団をつくる編み方を教えてもらっていたら10時くらいになった。住所やメールアドレスをいただいて、そろそろおいとますることにした。一朗さんたちはもっと何日も居たら街を案内してあげられるのに、と残念がってくれたんだけれど、シウダーデルエステではブラジルに一緒に向かう予定のひとたちが待っていて、今夜の夜行で私たちはサンパウロに向かうのだ。パラグアイを抜ける前にお邪魔できただけでもほんとうによかった。藤島さんのお母さんと戸口でお別れし、たまみさんと藤島さんのお父さんが街道まで出て送ってくれた。シウダーデルエステのセントロまで行くバスがちょうど来たので乗り込んだ。
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