イグアス移住地
   パラグアイもブラジルとの国境までくると朝からかなりむし暑い。でも昨日泊まった宿「オーストリアホテル」はシウダーデルエステでもかなり高級なほうで、エアコンまでついていたのでぐっすりと眠ることができた。下に降りて朝ご飯を食べ、大きい荷物は、アスンシオンから一緒に来たひとたちに預けて宿を出た。宿か近いスーパーでおみやげにブドウを2キロほど買った。今日はkm48にあるイグアス移住地に住む福井さんちに行くのだ。


世界三大瀑布のひとつイグアスの滝

 宿のオーストリア系の奥さんから教わったとおりのバス停に行きkm48行きのバスを尋ねると、誰もがクチをそろえて、
「まずキロメートル7まで行ってからそこのバス停で乗り換えろ」
という。km7というのはここシウダーデルエステの中心から7キロという意味だ。こちらの住所のシステムというのはかわっていて、大きな街を起点に、何キロメートル先、という住所のつけかたをしている。それだと同心円状に、10キロ先はすべてkm10だし、20キロ先はすべてkm20となる。つまり都市から離れれば離れるほど同じ住所のつく地域が広くなるんで不便なんじゃないのかと思うけど、だいたい都市から地方にむけてのびる街道が何本もないのでその住所のつけかたでこと足りるみたいだ。

 さてそれは置いといて、km48までダイレクトバスがないかとうろうろしていたら、通行人のなかでも最も知っていそうにないジュース売りのおじさんが、身振りで「ついてこい」という。あやしいんじゃないかなあと思いつつついていったら、大通りを横切り緑地をつっきって、たしかにダイレクトのローカルバスがあるところまで連れてきてくれた。おじさんがお礼にジュースを2本買えというんでいくらか聞いたら1ヘアルという。色水、とよんで差し支えなさそうな、粉ジュースをとかした鮮やかなオレンジ色のジュースが、いかにもひろってきたような500mlの空きペットボトルにつめてある。どう好意的に解釈しても使用されている水は水道水であろう。

 ちなみにヘアルというのは隣国ブラジルの通貨だ。だけどここシウダーデルエステは貿易の活性化のため無税地域に指定されているとかで南米各地から貿易商があつまり、国境を接するアルゼンチンのペソやブラジルのヘアル、そして米ドルなんかはそのまま通用するようだった。で、ヘアルで請求されたことじたいはいいとして、1ヘアルは日本円で60円ぐらいに相当する。いくら連れてきてくれたお礼のため、といってもこの色水が60円もしてよいのだろうか。ムムム、と悩んでいたが、ふとパラグアイ通貨のガラニーでは?って聞いてみた。
「ミル・ガラニー」
という。1000ガラニー。30円である。値段はあってないようなものだ。おじさんは正確な両替率なんか知らないのでどっちでもらってもいいんだろう。たぶん彼はお金を払うときも同じように適当に、言われた通貨で払っているんだろう。もちろん私はガラニーで払った。ボトルのなかをのぞきこんでみた。オレンジ果汁に見せかけるためだろうか、生ジュース屋のしぼりかすであろうオレンジのつぶの、完璧につぶれた薄い袋がごく微量ただよっていた。

 さて、ここで今日お邪魔する福井さんちについて復習をしておこうと思う。福井さんは、私のかつての上司の藤島さんのいとこであり、トルコでお世話になった伊藤さんのいとこでもある。この説明に関しては藤島さんとその一族の説明を避けてとおることができないのでまずそこからはじめよう。

 そもそも上司の藤島さんは私が会社に就職するときに採用の担当をしていたひとで、会社にはいってからも開発の仕事の指導をしてもらったり、かと思うと冬は大勢でスキーに連れていってもらったりととてもお世話になった。人柄に学校は関係ないけど東大出ているくせにエリートを気取ったようなところがまるでなくてスポーツが好きで仕事が好きでひとが好きでまるで子どもみたいなひとで、藤島さんをぬきにして私の6年の社会人生活はまったく語れない。「旅のきっかけ」の冒頭に出てくる眉をハの字にしている上司も実はこの藤島さんだ。私が出発することについて最初は反対されたものの、最後にはとても興味を持ってくれ、出発前には
「トルコに行くことがあったらいとこがいるからあそびに行きなさい」
と、当のいとこの承諾も得ないで言ってくれた。豪気なひとなのだ。そのいとこというのがトルコでお世話になった伊藤さんというわけ。

 この伊藤さんというのは、前にも書いたけど幼いうちにご家族とパラグアイに移住してその後25ぐらいまでパラグアイやアルゼンチンで過ごされ、そのあとJICAで働くようになって日本に戻った。数年を経てこんどはトルコでのJICAのプロジェクトを指揮することになり、私がお邪魔したときはトルコに住んで3年になるところだった。伊藤さんと藤島さんはお母さん同士が姉妹。そのお母さんたちのお兄さん、つまり藤島さんと伊藤さんのおじさんも、伊藤さん一家と前後してパラグアイに移住されていた。そのおうちが福井さんちだ。おじさんはほぼ引退されていて、いまは伊藤さんと藤島さんのいとこである一朗さんが一家を支えているらしい。

* * *

 昨夜のオーストリア・ホテルのおばちゃんから、
「バス代は高くて4000ガラニーぐらいのはずだけど、バス乗り場のへんの商店のおばちゃんに、まずはkm41のシロサワって店までいくらか聞いてごらん、その値段からおおきくはずれる筈はないから参考にしなさい。10000ガラニー札や50000ガラニー札を見せるととりあげられてしまってぼられるかもしれないし、すられるおそれもあるから別のところに入れなさい。見せちゃいけないよ」
と言われていたけど、乗り込むときに値段を訊くのを忘れた。バスの添乗員におそるおそる「いくら」って聞いたら、
「km48ね。2500ガラニー」
といわれ、幸いぼられることはなかった。48kmも走って70円なら安いもんだ。ここらへんは中国や韓国や日本からの移民も多いから、東洋人の顔をしていても現地人であることが多い。私も「観光客」とは呼べないお粗末な身なりをしていたし、それでバスの助手もぼろうとは思わなかったのかもしれない。

 さてぎりぎりあいていた席に乗り込んだけどこのバスは網棚もない。荷物を置くすきまもないので、肩掛けバッグとリュックとブドウを膝の上にかかえて座った。隣に座っていた現地人のおばちゃんからしきりとスペイン語で話しかけられた。想像で訳すると、このおばちゃんはkm20に住んでいて、商用でシウダーデルエステの街に来ていたようだ。街には仕事でときどき来るんだそうだ。
「日本にはいつ帰るんだい?旦那はいるのかい?パラグアイには住まないかい?うちの家族に若いのがいるんだけど会ってみないかい?」
などと彼女は熱心に私を誘った。でも
「私は日本に婚約者がいて、いまは友達の家族を訪ねるところだし、2週間後にサンパウロから日本に帰るので・・・」
などといつものように創作でいいかげんな返事をしているうちにkm20がきておばちゃんは惜しそうに去っていった。


街道から福井さんちの入り口にむかって

 やたらスローに走るバスだったんで街道沿いの景色がよく見える。アスンシオンからシウダーデルエステに行く途中にも思ったんだけど、街道沿いの木の葉っぱがときどきクスリでもまいたみたいに一斉に枯れていることがある。パパイヤの木に実がたわわについているのに葉が枯れて真っ茶色になってるのが目につく。いったいどうなっているんだろう、と思いながら揺られているうち眠気に襲われて一眠りした。目がさめたらどこかわからない草原の間を走っていたので一瞬不安になったけど、必要なときの前に目が覚めるのは子どもの頃から私の得意技だ。不安になった一瞬の後にkm41のシロサワ商店の前を通過した。そのあと目を皿のようにしてて46kmの呼び声とともに運転席のヨコにいき、48kmのチャルーアという商店の前でおろしてもらった。チャルーアという商店に行って福井さんちどこですかときくと、
「あそこにバカ(牛)がおるやろ。その2頭目のバカんとこ通路あるさかいそこで曲がってったらあの全体が福井さんちや」
と(もちろんスペイン語で)教えてくれた。

 福井さんちはめちゃ広い敷地に囲いがあってたくさんの豚が飼われていた。その奥にひとが座っていたので福井さんですかと話しかけると、それは福井さんちで働いている現地のひとで、福井さんちに雇われているひとのようだ。「福井さんちあそこ」と母屋らしい建物を指さされて、のぞくと洗濯をしてる若い奥さんがいた。一朗さんの奥さんのたまみさんだった。

 奥さんに声をかけると、
「あらっ、バスで来たの?!」
といわれた。
「ひとに聞きながら」
とこたえると、
「ま〜、さすがねえ!」
とたまみさんは感心しながら家にとおしてくれた。ドアをあけてすぐが居間と食堂になっていて、ひたいの広いおじさんと、大柄で、髪を茶色に染めた年輩の奥さんがいた。お目にかかるのは初めてで写真を見たこともなかったけれど訊ねるまでもなく、まぎれもない藤島さんのご両親だった。藤島さんのお父さんが立ち上がって、
「いらっしゃい。どうぞくつろいで。私のうちじゃないけど」
と言ってくださった。
「ここは居心地がいいもんで私たち来るのはもう5回目なの」
と藤島さんのお母さんが言った。
 さてどうして藤島さんのご両親がここにいるかというとだ。藤島さんのお父さんはもう引退されていて、ご夫婦で1ヶ月だったか、とにかくゆっくりパラグアイにあそびに見えていたのだった。藤島さんのお母さんの実家の福井さん一家は岩手の出身だけど30年ほど前に何家族かが移住されたんで、中南米にいくつかご親戚がある。それで藤島さん夫妻はときどきあっちこっちの親戚をたずねるためにはるばる南米まで来られるのだそうだ。

 実は藤島さんのご両親が見えてることはあそびに伺う前から知っていた。ほかのお客さんだったらお邪魔できないところだったけれど藤島さんは会社でも一番お世話になったひとで、そのご両親となると私はぜひお目にかかってみたい、という気になってしまったのだった。おまけに藤島さんは会社でもっとも型破りで知られたひとだ。会社のもと部下が図々しくあそびに来たところで、そのひとのご両親・ご親戚が気にされることもないだろうと想像したのは間違っていなかったようだ。

 奥の15畳ぐらいの部屋に通され、荷物を部屋に置かせてもらった。この部屋は本来子供部屋なんだけど、いまは藤島さんのご両親の部屋になっている。今日は私はここに寝ることになってるらしい。藤島さんのお母さんが、
「同じ部屋につめこんでごめんねえ」
と言ってくださったけど、私は藤島さんのご両親と同じ部屋を使わせていただくなんて、とかえって恐縮だったのと同時に「これって家族みたい!」と逆に嬉しくもなったのだった。

 食堂のイスにかけるとたまみさんがオレンジをたくさんしぼってポットにいっぱいジュースをつくってくれた。だけど私は道案内のおじさんから買ったジュースをまずのんだ。ジュースはやっぱり果汁0%の粉ジュースだったけどオレンジの粒のしぼりかすと皮の破片がはいっていたんで少しだけ本物のオレンジの味がした。食堂で旅のはなしなどしていたら2時間かそこら経っただろうか。


イサおじさんと藤島さんのお父さん

 しばらくすると植木等にちょっと似た感じのイサおじさんが出てみえた。藤島さんと伊藤さんのおじさんにあたるひとだ。その奥さんの礼子おばさんも出てみえてそれぞれにご挨拶した。礼子おばさんは歯切れのいいしゃべりかたからひとめで竹を割ったような性格の方だろうと見てとれた。しばらくしていとこの一朗さんも仕事から帰ってきた。一朗さんていうのは、実際は35才ぐらいと言われたろうか。電話で話した感じではとても落ち着いて聞こえたからもうちょっと歳上の方かと思っていたんだけれど会ってみると実際の年齢よりだいぶ若く私と同じぐらいの年齢に見えた。奥さんのたまみさんは、ほっそりしていかにも優しい雰囲気のひとだ。たまみさんのやわらかいものごしから絶対まだ結婚されて間もないんだろうと踏んでいたんだけど、ほかにこのおうちには中学生ぐらいの息子さんと娘さんがいて、はてご親戚のお子さんたちだろうか、と思っていたらたまみさんと一朗さんのお嬢さんと息子さんだった。

 日中はおうちの方たちが忙しかったら外に出かけて、開拓者だった伊藤さんのお父さんが建てられた日本人学校や、福井さんちのまわりにある農場などを見て来ようかと思っていたけど、藤島さんの幼い頃のはなしだのを訊いていたら喋ることがつきなくて、結局日がくれるまでずっとうちのなかにいた。藤島さんのご両親からは、藤島さんが奥さんと結婚されたときの話しや、結婚後に奥さんが大学に行き始めお医者さんになった経緯なんかをあれこれ聞いた。藤島さんのご両親は仲のいい夫妻で、ふたりの話しているのをきいていると漫才みたいだった。お母さんは静脈瘤があるらしくて、
「お母さんは毎日牛乳を飲みすぎなんだよ」
とお父さんが言うと、
「お父さんこそステーキばかり食べてるから太るんだよ」
と反論したりして、それがまるで真剣みがなくて、おもしろがって言い合いしてるのがわかるだけにほほえましい。私がお母さんの加勢したりお父さんの加勢したりして笑っていたら藤島さんのお母さんが、
「ゴメンネお客さんの目の前でこんな言い合いをしたりして、なんだか今日会ったばかりという気がしないもんだから」
と言ってくださって、いよいよ私も家族に加えてもらったみたいでうれしくなった。そして私こそ会ったばかりというのにこのお父さんとお母さんがすっかり好きになってしまったのだった。

 藤島さんのお父さんは私の上司だった藤島さんのお父さんだけあって喋ってるのを聞いてもおもしろいし話をひきだすのも上手だ。それが社交上手とかいう気取ったもんじゃなく、まるで友だちみたいな感じであれこれ訊いてくださるんで私はつい嬉しくなってあれこれ調子にのって喋ってしまっていた。福井さんちに遊びにきたというのに晩ご飯のお手伝いもしないで私は藤島さんのご両親夫婦と喋ってばかりいた。

 さてしばらくしてたまみさんと礼子おばさんが腕によりをかけたごちそうができあがった。晩ご飯は野菜たっぷりのしょうゆ風味の焼きそばに、同じくしょうゆで下味をつけたジューシーな牛肉の香ばしい焼き肉、純正のパラグアイ製のたくあんほかキャベツなど数種類のおつけもの、新鮮で香りいっぱいの春菊のおひたしなど。しょうゆ味に飢えていた私にとっては、唾液が一気に分泌される音が耳もと聞こえてしまうほどおいしそうな料理の数々だった。
「いつもこういう日本食たべてるんですか?それとも今日は私がお邪魔したんで特別?」
と訊くと、
「いやいつも通りです」
ハハッと一朗さんが笑って言った。
 ごはんはふっくらと炊けた日本種のパラグアイ米だ。真っ白でツヤとハリがあってとてもおいしい。
「春菊なんかあるんですねえ、わぁこのお米日本のそのもの」
と感心していると、
「ここは何でも手にはいりますよ。お茶もあるし漬け物もあるし味噌でも納豆でもしょうゆでも。ここで作ってないものは輸入もしているし。パラグアイは海がないけどまわりの国からとりよせてるから、海のものもなんでもあります」
と一朗さんが話してくれた。その話し方には、パラグアイをナメてもらっちゃ困るよ、という、誇りみたいなもんが感じられた。


左から藤島さんのお母さん、イサおじさん、藤島さんのお父さん、礼子おばさん

 そうやってパラグアイの話しをきいたり、私の旅の話しをしてにぎやかに夕食のときを過ごした。特に福井さんちの方たちには、外からやってきてスペイン語もろくに話せないで地理にも交通事情にも暗いわたしがアルゼンチン〜チリ〜ボリビアと通ってパラグアイまで来たこと、自力で福井家をさがしあてて訪ねてきたことにっても驚かれたみたいだった。チリからパラグアイに来ようとしたけれど雪でアンデスが越えられずボリビアに向かった話しや、ボリビアのサンタクルズからパラグアイの首都アスンシオンまでバスで26時間と言われたのに実際には35時間かかったという話しなどには特に興味をもって聞いてくださったみたいだった。南米で育ったひとでもよほど用事がないかぎりそんなルートのバスに乗ることはない。ましてや一朗さん宅は車もあるし、ここはバスの往来も多くシウダーデルエステに行くにもアスンシオンに出るにも便利なところだ。自分たちのほうが身近なはずのパラグアイの交通事情を旅行者の私からきくというところに、とても興味をくすぐられるらしかった。

 ところで、喋っていて街道沿いの木の葉が枯れていた理由がわかった。藤島さんのご両親が来たばかりだった2、3週間前、というからちょうどアンデスの上が大雪で国境が封鎖されていた頃のことだろうか。パラグアイは移住生活はじまって以来の冷え込みになって、1週間ばかりたてつづけに霜がおりたらしい。パラグアイはそもそも熱帯の国で、ここらの植物は霜なんてものに堪えられる種類じゃないのでいっせいに枯れてしまったのだそうだ。街道からここにはいってくる通路のわきにも草っぱらがあって普段はそこに雑草が青々と生えてるらしいのに私が見たときは完全に黄色くなってしまっていた。反対側にはバナナの木がたくさんあってこの時期はたわわに実ってるはずが、どの木も葉がすっかり茶色くなって、なってるバナナも途中で冷凍バナナになって育たなくなってしまったのでいまは片端からとってこまかくして豚のエサにあげてるんだそうだ。

 街道からの通路を歩いてきたかぎりではわからなかったけど、福井さんちでは現在ちっこいのもいれると全部で360頭もの豚を育てているんだそうだ。でもこの仕事が軌道に乗るまでには長い道のりがあったらしい。よそできいた話では南米の移住というのはどこでもたいへんな苦労があったようだ。パラグアイは当初「家もあります、森は開墾されています、畑ももうできてます、水もふんだんにあります、土地は農作に理想的です」と言って各国対しに移住を誘致する依頼を送ったらしい。しかし実際に来てみると土はやせて赤く水はけは悪く、移住地には畑どころか木々が根をはり農作どころではない。かといって50日もかけて船でやってきたというのにいまさら戻ることもできない。移住家族たちはここでいったいどうやって農業をすればいいのかと途方にくれたそうだ。

 ここに移住してからしばらくは自然との闘いをつづけ、少しおちつくとイサおじさんたちはひとを雇ってとうもろこしをつくったり畑をたがやしたりするようになった。けど、作物を育てて売っても、儲けは雇っているひとたちの賃金を払うとなくなってしまうぐらいで、少しも貯えができない。試行錯誤をくり返し、最後におじさんたちは豚を育てることを思いついた。最初は豚を豚舎につないで育てていたけど、あまり母豚が太ると寝ているあいだに子豚をつぶしてしまう。食べるばかりで子供をあまり産まない。体は弱く、病気がはやると一度にばたばたと何匹もの親豚が死んでしまう。何年か苦労したあとに豚もある程度運動させなければならないということがわかった。それで現在のように囲いをつくって放し飼いにする方法を編み出したのだそうだ。その結果、豚たちは大きくなるのにちょっと時間がかかるようになったものの、成長過程での死亡率はぐっと下がり、健康な豚が育つようになったのだとか。


雨で豚も泥だらけ

 これだけの規模になると経営するのも簡単ではない。豚たちの世話をする地元のひとたちに指示をあたえるのも一朗さんの仕事だ。おまけに一朗さんはこの街ひとたちからの信頼が厚いので農協の運営をまかされていて、週に3日、忙しいときには月水金というとびとびのスケジュールで300km先のアスンシオンまで行って農協の運営に関するうち合わせをしたり調整をしたりに奔走しているそうだ。
「忙しいのはいいことじゃない」
と藤島さんのお父さんが言うと、
「でもねおじちゃん、ほとんどボランティア状態なのよ」
とたまみさんが苦笑した。でもその苦笑のかげに、忙しい一朗さんをいたわる優しさと、信頼の厚いひとを夫にもつ誇りのようなものが感じられてその雰囲気はとてもあたたかだった。

 食事の席のヨコに息子さんと娘さんがときどき出たりはいったりしていた。藤島さん夫妻はお孫さんがないのでここのおうちのマイちゃんとシンイチくんを自分の孫のように思っているらしい。ふたりの成長の話しをきいては顔をほころばせていた。シンイチくんは食後に食卓に来てスペイン語の勉強をたまみさんに見てもらいながらときどきチラ、とこっちを見て、目が合うとはにかんでにこっと笑った。

 ちなみに一朗さん夫妻は子どもの頃からパラグアイにいたのでスペイン語はぺらぺら。ときどき何を喋ってるのかな?と聞き耳をたてるとスペイン語で話していたりする。完全なバイリンガルっていうのは不思議なもんだなあと思った。一朗さんは、生まれは日本だけど幼いときにこちらに来たので通称「1.5世」と呼ばれるらしい。たまみさんはこちらで生まれた2世で、国籍はパラグアイ人なんだそうだ。パラグアイ人だと近隣諸国に行くにはIDの提示だけで済むんだけど、一朗さんは日本のパスポートなので、近隣諸国に行くにもIDだけではすまずビザだとか書類だとか言われて不便なんだとか。日本で生まれたひとがパラグアイの国籍をとるのは結構むずかしいらしいけど、逆にパラグアイで生まれたひとはというと、出生後短期間に届けを出せば日本の国籍は簡単にとれるらしい。

 外国で生まれた子どもは20才までは両方の国籍を持っていて、20才のときにどちらか選択することになるんだそうだ。このときにパラグアイを選択すると、日本では二重国籍を認めていないから、パラグアイ国籍だけになってしまう。ところが日本を選択したばあい、パラグアイは国籍を消滅させるという法律がないもんで、両方の国籍を持ち続けられるんだそうだ。そういうひとたちは、日本に行くときには日本のパスポート、近隣諸国に行くときにはパラグアイ人のIDで行くのでさらに便利らしい。

 ちなみにたまみさんちのお子さんマイちゃんとシンイチくんのうち、片方は申請する時間がなくてパラグアイ国籍、片方は日本とパラグアイ両方の国籍を持ってるらしい。たまみさんの悩みは息子さんたち3世がスペイン語があまり得意じゃなくて友達が日系人ばかりだということなんだそうだ。彼らは週に3回月水金にスペイン語の学校に行き、残り週3日は日本語の学校に行くけど、どちらの学校でも日系人の友達とばかり喋っているからスペイン語が身に付かない。それでたまみさん夫妻のあいだでもできるだけスペイン語で話すようにしているんだそうだ。

 3世の彼らのスペイン語ギライについてはひとつエピソードを聞いた。福井さんちの話しではないんだけど、シンイチくんの友達のひとりがスペイン語学校のテストを受けたときのことだ。問題の文章を読んで内容はわかったけど答えがどうしてもスペイン語で書けない。彼は思いあまってすべて日本語で答えを書いてしまったらしい。内容は合ってるけどパラグアイ人の先生には日本語がわからない。当然全部×をもらってきた。お母さんが驚いて、
「どうしてスペイン語で書かないの」
って訊いたら、
「そんなの先生が日本語をおぼえればいいことじゃないか、日本語の分からない先生が悪いんだ」
と彼は反論した。お母さんはうーんと頭をかかえてしまったらしい。

 福井さんちでは食生活とかいかにも日本的な暮らしをしているけど、パラグアイで生きていくからにはスペイン語はかかせない。成長期にごく自然にスペイン語を話す友だちができてごく自然にスペイン語を身につけた一朗さん夫妻のもとにあってどうして3世の彼らが突然スペイン語を話す地元のひとたちとの間に隔たりをつくってしまったんだろうか。彼らの将来を考えるとたまみさんはちょっと心配になってしまうんだそうだ。

 ついでに書いておくと、ここのスペイン語学校は週3日しか授業がなく5年生までは授業が午後からなんだそうだ。日本語学校のほうはスペイン語学校のほうの隙を埋める時間割で授業をやるので日系の子はヒマということはないけど、パラグアイ人の子は5年生までのあいだ週3日間の午後をのぞいては遊んでるんだそうだ。もしかしたらそういう教育にかける手間の違いとか価値観の違いとかが彼らの間に溝をつくってしまったのかもしれなかった。

 そのあとも藤島さんたちと福井さん一家とわいわいとおしゃべりしていた。一朗さんは8時くらいに農協の寄り合いで出かけていき、9時頃に戻ってくると、
「カラオケは好きですか?よかったらこれから一緒に行きましょう」
と誘ってくれた。一朗さんはたまみさんと藤島さんのお父さんと私とのせて車で数キロ離れたスナックにつれてきてくれた。スナックは最初ドアに鍵かかっていて貸し切りかお休みかなと思ったけど用心のためだけらしい。ママさんが店をあけてくれたらお客が全然いなかった。ここらへんも平和そうに見えるけどたまに物騒なこともあるんだそうだ。 たまみさんが教えてくれたんだけど、あるとき別のカラオケ屋で外人さんを入れたら店のひとと喧嘩して興奮したあまり銃を抜き、天井にむかって3発打って出て、もちろんお金も払わないで出ていったんだそうだ。その店ではそれ以来スペイン語の歌を一切置かなくなってしまったんだそうだ。たまみさんがパラグアイのひとのことを「外人さん」と呼ぶのがちょっと不思議な感じだった。

 お店にはいると藤島さんのお父さんがさっそくとびついて歌い始め、私も2番手で歌い始めた。カラオケなんて日本を出て以来だ。ここのスナックのカラオケはLD式で、チェンジャーがないんでママさんがつききりでディスクをかえていた。藤島さんのお父さんが曲目集を見て、
「これ1998年だから新しい曲がないねえ」
って言ったけど、藤島さんのお父さんの唄う歌ときたら「東京花売り娘」とかで1999年の歌必要なのかなあ、と思った。一朗さんが、
「98年のやつはこっちでは新しい方なんですよ」
って言ったのがまたパンチがきいていた。それにしても、気がついたらクチに出してしまうとことか、ほかのひとの順番考えずに、思いついたらすぐに予約いれてしまうところ、息子の藤島さんもまったく一緒だった。思えば藤島さんはこのお父さんにそっくりだったんだなあ。上司の藤島さんがとても懐かしく身近に思えた。

 たまみさんは川中美幸が上手なんだけど唄うときははにかんでかならず一朗さんをひっぱっていった。一朗さんは大柄なぶんひびく声で、「マイウェイ」を唄うときに1番は日本語、2番はスペイン語で唄ったりしていてかっこいい。ひかえめなたまみさんを一朗さんがさっそうと射止めてこのカップルが生まれたんだろうなあなどとふたりのデュエットを見ながら私は勝手に想像していたんだけど、それはあながち間違ってないんじゃないだろうか。

 11時頃になって一朗さんが時計を見たので、明日の仕事もあるだろうしもうそろそろ帰る時間なんだな、と思ったら別の店にハシゴするだけだった。車で移動するあいだに一朗さんはイグアスの町のなかをダイジェストに観光させてくれた。街道からみると福井さんちからkm41までの一帯は閑散として学校と農協の看板が見えるくらいだったけど、街道から北側に少しはいると野球場があり病院がありスーパーがあり、かなりにぎやかで家々も多かった。開拓者として移住されたひとたちの街だから、街というよりは農村に近いんだろうと私は想像していたけど家々はつくりが大きく道路は広くとってあって街はむしろアメリカの地方都市なんかに近いように見えた。


一朗さんとたまみさん

  「次の店は見た目はあまりよくないけどいちばん居心地がいいんだよ」
と一朗さんに言われてはいっていくと、たしかに店のつくりは図書館の談話室みたいな感じでシンプルだけどお客さんがたくさんいてにぎわっていた。カラオケの曲目も日本語の曲、スペイン語の曲や英語の曲がとりまぜてバラエティに富んでいる。店には日系のひとたちのほかにひとりだけフィッシャーさんというドイツ系のひとがきていてほかのお客さんとフィッシャーさんはスペイン語で話していた。パラグアイは世界各地から移住者を募ったので、シウダーデルエステのオーストリアホテルのおばちゃんのようにオーストリアから来ているひともあればドイツ系の移民もいる。イタリア系のひとも多くいるそうだ。

 フィッシャーさんはパラグアイ生まれだけどドイツで大学に行き、彼がイギリスで働いていた頃にイギリス人の奥さんと知り合って結婚されたそうだ。奥さんと結婚してからはアフリカのスーダンで働いたりして、やがてここに戻ってきてシウダーデルエステの街に家を構えた。奥さんは英語の先生で、いまは里帰りしてイギリスに行ってるのでヒマをもてあまして彼は毎日のようにここにいりびたっているんだそうだ。一朗さんはときどきここでフィッシャーさんと顔をあわせるらしい。今日もフィッシャーさんがいたんで、
「フィッシャーさん、どうしてわざわざこんな遠くの店にいりびたってるの」
と訊いたようだった。フィッシャーさんは、
「俺はカラオケが好きなのさセニョール」
と言った。
「カラオケならシウダーデルエステにもあるでしょう」
と一朗さんが言った。実際私も1日シウダーデルエステを見てまわって韓国系人経営のスナックや中華街のスナックなどを何軒も見かけた。フィッシャーさんは、
「そうさなセニョール、俺はここが好きなのさ」
と言った。彼に言わせると日系人と韓国系人と中国系人のなかで、いちばんはいっていきやすいのは日系人の社会なのだそうだ。日本人は壁をつくらないし、ここの店にはいってきたときも変な顔しないで迎えてくれたから、とフィッシャーさんは言うのだった。

 それはとても素敵なことだな、と私は思った。そういえば、
「最近一朗さんが初めて仲人をしたのよ」
といって一朗さんのお母さんが一葉の写真を見せてくれた。この街に済む日系人の青年とドイツ系のお嬢さんの結婚式の写真だった。日本人の生活、日本人としての誇り、文化を守っていく傍らで、彼らは少しずつ融和していっている。同じ国に住み、同じ社会を形作りながらコロニーとコロニーのあいだに隔たりを持つのは悲しいことだ。さっき3世のスペイン語ギライの話しをきいてちょっと心配になったけれど、彼らは文化の違いの隙間からそっと手をのばして手の届くところにいる。こうやって解け合っていくうちにそれぞれの文化のいいところが抽出されて残っていって、こういう言い方はちょっと抽象的だけど、この国ではこの先とても美しい人間関係がいずれできあがっていくんじゃないだろうか。私はパラグアイがこの先どういうふうになっていくのかとても楽しみな気がした。

 カウンターで飲んでいたひとのひとりがなんでも知り合いの息子さんだったとかで藤島さんのお父さんは寄っていって、そのままそのひとが帰るまで話し込んでいた。なんでも藤島さんのお父さんがパナマにあそびにいっていたらそのひとのお父さんに会って、日本人会か何かの名簿をつくりたいと言われたのでひきうけてパソコンでタイプをしてあげたんだそうだ。会ったことないひととも気易くうちとけてすぐに話しを始められるところなんかも、藤島さんのお父さんらしい。カラオケを唄っているときに私が、
「スペイン語の歌謡曲をひとつぐらいおぼえたいんですよ」
といったらたまみさんが、
「『Libro(自由)』という歌がのぶこさんにぴったりよ」
と選んでくれ、
「その唄の内容はね、『お日さまのように自由に生きたい』という意味なの、ね、のぶこさんにぴったりでしょ」
といって提案し、一朗さんが唄ってきかせてくれた。大きなハリのある声でのびのびと唄う一朗さんにこそその唄はふさわしいように思えた。

 2時間ぐらい唄っていたらひとがだんだんとはけていって、午前1時頃までいたらもう残りがフィッシャーさんと私たちだけになった。そろそろ帰ろうかといって立ち上がりかけたらフィッシャーさんが、
「実はおもしろいビデオがあんだよ〜」
と言いだした。なんでもこの前ここで見せようと思ってテープを持ってきてここで見ようとしたけど何度やっても見れなくて、
「こうなったらビデオデッキとテレビセットでもってこないとダメね」
とママに言われたから今日はほんとにデッキもってきたんだよ〜、と言ってるらしい。一朗さんが手伝いにいってテレビとビデオデッキをはこびこむ。夜中に男ふたり車からビデオとテレビ運んでる姿はちょっと夜逃げって感じだった。ともあれカウンターの上に設置してビデオを見始めた。ビデオはヨーデル大会の録画みたいなやつで、ヨーデル歴50年のおかあさんと、その娘のデュエットヨーデルみたいのが流れて、そのあとに日本人のヨーデル歌手が出てきた。鶏を題材にした曲らしく、歌のあいまに「クワッカッ、クワッカッ、クワッカッ」っていう合いの手がはいる。画面に登場する白髪の日本人男性ヨーデル歌手が目をヨリ目にしてほんとに鶏みたいに首を前につきだしながら唄うもんだからフィッシャーさんはいたく気に入って、「この日本人なかなかヤルじゃん」ってんで見せに持ってきてくれたようだった。彼の日本人に対する好意と興味が感じられて嬉しくなった。ビデオを見終わって2時頃私たちはフィッシャーさんにお礼をいいながら車にのりこんだのだった。


マイクをにぎる藤島さんのお父さん

 家にもどったらたまみさんがお風呂をわかしなおしてくれ、久々のバスタブにつかった。バスタブにつかるなんて、トルコの伊藤さんち以来のことじゃなかろうか。実に半年以上私はお風呂にはいっていなかったことになる。半年お風呂にはいってませんでした、って頭のなかで考えながら「なんて人聞き悪いんだろう」とひとりでクスリと笑った。あったまったところで布団にはいった。藤島さんのお父さんは飲み過ぎたらしくて布団にはいってからしばらく具合わるいとうなっていたけどしばらくしていびきが聞こえるようになった。かつての上司のご両親と、遠くパラグアイで同じ部屋で眠るなんて、ひとの縁はほんとに不思議なもんだ。それにしても、家族でもない私に移住地の生活を見せてもらって、おまけにこんなによくしてもらって、こんなに恵まれた旅行者もいないだろうと思いながら眠りにおちた。

* * *

 翌朝。もの音で目がさめるともう7時半で、藤島さんのご両親はすでに起きたあとだった。顔を洗って食堂に出ていくとすぐにたまみさんがごはんとみそ汁をもってきてくれた。朝食はまた純和風でチリ産の鮭におつけもの、いかの塩からまであった。久々の日本食らしい日本食で、ごはん2膳もいただいて、そのあとフルーツまでいただいた。ごはんをいただいてる間に一朗さんとお母さんの礼子さんが出かけていったのでご挨拶した。

 そのあと食堂で藤島さんのお母さんとおしゃべりしたり、かぎ針編みで座布団をつくる編み方を教えてもらっていたら10時くらいになった。住所やメールアドレスをいただいて、そろそろおいとますることにした。一朗さんたちはもっと何日も居たら街を案内してあげられるのに、と残念がってくれたんだけれど、シウダーデルエステではブラジルに一緒に向かう予定のひとたちが待っていて、今夜の夜行で私たちはサンパウロに向かうのだ。パラグアイを抜ける前にお邪魔できただけでもほんとうによかった。藤島さんのお母さんと戸口でお別れし、たまみさんと藤島さんのお父さんが街道まで出て送ってくれた。シウダーデルエステのセントロまで行くバスがちょうど来たので乗り込んだ。
「またパラグアイを通ることがあったらぜひゆっくり寄ってちょうだいね」
とたまみさんが言い、
「今度日本に帰ったらぜひ岩手まであそびにいらっしゃい」
と藤島さんのお父さんが言ってくださった。
。ちいさくなる藤島さんのお父さんとたまみさんの姿をふりかえり、日本に帰ったらぜったい藤島さんのお父さんのとこにあそびに行こうと思った。ちょっと遠いけどスキーシーズンや夏場には藤島さんの後輩とかがよく訪れるそうだ。きっと旅の話しがたくさんできるだろう。そう思いながら。