静かな神々の島
   サンチアゴでお世話になった武井あきこさんに送られて私はバスに乗り、2時間ほどでビーニャデルマールという街にたどりついた。ここは太平洋岸にある街で、夏には避暑客があつまるリゾートになる。すぐ近くにはバルパライソっていう港町もあって、新鮮なチリの海産物が毎日水揚げされることでも有名だ。

 汐見荘はそのバルパライソとビーニャデルマールの中間の小高い丘の途中にある日本人宿だ。日本人の旦那さんとチリ人の奥さんの一家が経営している。町からは歩いて30分かかるし、おもてには看板も出ていない。サンチアゴで明子さんに調べてもらっていなかったら到底たどりつけなかったような住宅地のなかにあって、たたずまいもまったく一般の住宅。でも呼び鈴を押すと旦那さんの山岸さんが「はい〜、ちょっとまってねぇ」といって鍵をあけてくれる。ちょっと期待させる新宅のつるっとした廊下を歩いて中庭に出ると、その先にちょっとがっかりする古びた木造の家があって、それが旅行者用のドミトリーになっていた。家には共同バスルームが1個あってリビングルームとキッチンがついており、ドミトリーが3つ、シングルルームが1こある。

 宿に泊まってるというか、なんか書生として居候してるような感じの宿、それが汐見荘だ。宿の居間には衛星放送のはいるテレビがあって、いつもひとが集まっている。日本人宿というと、えてして長居しているひとのカラーによって雰囲気がずいぶん左右されるもので、たまにすごく閉鎖的で居心地が悪いこともあると聞く。けど、ここはかなり雰囲気がよくって、入ったとたんに私はスイととけ込んで、その晩にはほかのツーリストと餃子なんか一緒につくったりしていた。宿の山岸さんはドラミとブランキータっていう2匹の猫を飼っていて、この猫たちが夕食どきになるといつも居間を訪問してきて夕食をねだる。宿に泊まってるひとたちは自分たちが普段使ってる食器をもってきて猫に残り物をやっていた。

 さて私はここに来るまえ、アフリカで会ったツーリストからイースター島行きのチケットはオフシーズンで最大$400まで割引になると聞いていた。汐見荘に来たのも、情報ノートをみてそのチケットを売ってる旅行会社を調べるためだった。だけど残念ながらここにきてわかったことは、そのチケットがもう昨シーズンで廃止になってしまったということだけだった。今ではツーリストが買えるオフシーズンチケットは$550以下にはならない。そうわかって普段の私なら「やめようかな」って思ってしまうところだけど、そういうときに限ってここに泊まってるツーリスト全員が「イースター島に行ってきました」とか、「これから行くとこです」と言っていたもんで、私も成り行きで行く決心がついた。そしてここの宿で会った浅野くんっていう旅行者がちょうどイースター島行きのチケットの手配するとこだっていうのを聞いて、数日後、私もチケットを手配した。

 フライトはチケットをとった1週間後だった。イースター島に着くと、調べてあったKona Tauっていう宿の旦那が客引きにきていた。ここの宿は総部屋数5部屋ぐらいでとってもアットホームな雰囲気だ。各部屋にバスルームがついていて、この有名観光地にあって朝食つき$10は結構いい条件だった。

 イースター島の人口は現在4000。現在この島に住んでるひとで、100%この島出身の血すじの持ち主はほとんど、あるいはまったくいないらしい。っていうのは、むかしこの島で戦いがあったり飢饉があったりして住民の数が101人まで減ってしまったから、このままじゃいかんってことで移住と混血がすすめられて、本土からのスペイン系移民のひともかなりはいってきたからだそうだ。そのせいで、島にはすごくポリネシアっぽいひともいるし、逆にすごくヨーロッパふうのひともいて不思議な感じ。私が泊まっている宿の奥さんはとってもポリネシアっぽい顔立ちをしていてセクシーで、旦那はすごくヨーロピアンぽい色白のひとだった。


マーケットの目玉
まぐろの屋台
 翌朝は朝食まえにまずマーケットに行ってみた。イースター島のメインストリートはほんとにこぢんまりしてて、スーパーが何軒か、おみやげやが何軒か、レンタカーやが何軒かに、午前中だけ開いてる市場があるぐらいだった。でもこの市場には目玉がある。朝8時頃から出るまぐろの屋台だ。毎日水揚げされたばっかりの小ぶりのマグロがテーブルの上に並べられ、1キロ、とか2キロ、というと適当に輪切りにしてくれるのだ。その値段っていうのがこれまで聞いたこともないような安さで、1キロたったの2ドル!主食のように毎日買いに通うことになった。

 ただしマグロをのぞけばここはきわめて物価の高いところで、野菜なんかは本土の3倍から4倍することもザラ。ホテルは本土の50%から80%増しぐらいだし、両替率なんかも5%ほど悪い。はじめからそのことを知っていた私たちは、本土を出るときスパゲティとかお米とか傷みにくい野菜とかかなりの食料を買い込んできた。
毎日のようにつくっていたまぐろ丼

 初日は町から近いモアイを見物したり、レンタカーやレンタルバイクの値段を調べたりして過ごした。その結果レンタカーは8時間で50ドル、レンタルバイクは最低でも8時間で35ドルするってことがわかり、翌日はとりあえず宿の貸し自転車を一日10ドルで借りることにした。イースター島は周囲60キロぐらいしかないちっこい島だ。島を貫く道路は10キロちょいぐらいだったから、自転車借りて辛抱強く走れば、うまくすれば2日間ぐらいですべての遺跡がみれるんじゃないかと思った。浅野くんはチャリダー(自転車旅行者)で、これから数日キャンプして島じゅうの遺跡とかビーチとかの見所をぐるっとまわろうっていう計画だった。朝食を終えて私は浅野くんについて島の南岸を走り出した。

 しかしこの自転車作戦は大失敗だった。日頃の不摂生がたたった、水の準備が十分じゃなかった、ってこと以上に、自転車のサイズが私の身長にまったく合ってなくって、こぎやすい高さにサドルを合わせると地面に足がとどかないし、サドルを下げればハンドルが遠くてしょうがない。遺跡の多くは島の海岸線にある。イースター島の海岸線はそれなりに起伏がはげしい。その起伏をのぼったりおりたりしてるうちにおシリに激痛が走るようになり、たった半日、十数キロを走っただけで私は浅野くんと別れ、宿に戻った。最後の頃はもうサドルに座ってられない痛みで、翌日はシリ痛で観光どころか起きてることがやっとだった。

 ビーニャデルマールにいたとき汐見荘で会った旅行者のひとりは、イースター島では島内をまわる1日ツアーに参加したって言っていたけど、それでも$35ぐらいしたらしい。こりゃどうやらちゃんと観光できるのは1日がいいとこかな。ツアーにするか、レンタルバイクにするか・・・。宿にほかのツーリストがいれば共同でレンタカーを借りて、ということも考えられたけど、残念ながら宿にはほかに1人しか客がいなくて、そのひとりも今夜の便でタヒチに出発するところだった。

 でも待てよ。発つひとがいるということは、来るひとがいるということじゃないか。イースター島に来る飛行機は週に4便。うち2便がタヒチからイースター経由でサンチアゴに向かう便で、2便がサンチアゴからタヒチに向かう便だ。今夜タヒチに発つひとがいるっていうことは、サンチアゴから来るひともいるってことになる。ここでほかの客をつかまえてレンタカーをシェアするっていう計画はどうだろうか。私は急遽宿の客引きに転身し、日本語と英語で宿の料金とか条件を紙に書いた。夜になって私は宿のご主人の車に乗って空港に向かった。空港のホテルカウンターは登録ホテルスタッフしか入れないらしいので、私はほとんど客引きの役にはたたなかったけど、私が書いた宿泊料金表はそれなり役に立ったらしい。ふと気づくとうちの宿には5人もの客が集まっていた。

 集まった5人のうちひとりは日本人だった。 日本人の旅行者は加藤くん、通称ヨッシーと言って、27歳の「唄う旅行者」だった。彼は前にプロとして売り出してたこともあるシンガーだったんだけど所属事務所の方針と彼の目指すものが違って自分の音楽ができないことがわかっていったん音楽に見切りをつけた。そして日本のあるプロバイダで働いたんだけど、やっぱり自分の音楽をもう一度見つめ直してみたいという気持ちが高まり、結局彼は1年間の世界一周チケットで半年ほどまえに韓国から出発したのだそうだ。ギターを持って旅先の要所要所の路傍で唄い、道ゆくひととふれあったりしながら旅をしてるのだそうだ。

 さて彼と挨拶している間私たちの顔をじっとのぞきこんでる大柄な白人の男の人がいたからなんだろと思っていたら口をひらくなり彼は、
「コンバンハあ。どのぐらいココに泊まってるんですか?」って言った。この「コンバンハ」ってはなしかけてきたひとはロスっていって、いまカナダに住んでるアメリカ人。彼は大学から大学院にかけて4年間も日本語を勉強してて、日本でトータル2年も働いてたことあるんで日本語がぺらぺらだった。その晩、ヨッシーをかこんでU2とかビートルズを唄ったり喋ったりしてるうちに私たちはすっかりうちとけた。

 ロスは大学と院で物理と日本語と二股かけて研究してたらしいんだけどあまりに忙しすぎて最後には自分の人生と研究とに疑問がおこってしまい、思い切って両方に見切りをつけ、日本に渡ってある会社で正社員として働き始めたらしい。ところが彼はそこでもあまりいい人間環境にめぐまれなかったらしくて、1年間深い孤独感に悩まされて帰国したんだそうだ。最終的に彼はカナダでもう一度大学にもどり数ヶ月スペイン語とか中国語をやったりして、結局学ぶことは好きだな、って思ったんだけど、本格的に研究に戻る気にはなれなかったんでしばらくはリハビリするみたいに、簡単な講師の仕事みたいなのをしていて、気持ちの整理をつける意味で3ヶ月の南米の旅に出発したのだって言っていた。

 うちとけた私たちは翌日レンタカーの予約して翌々日にはレンタカーをシェアして島を観光することに決めた。翌日はレンタカーやを何軒かまわった。レンタカーは8時間$50が標準だったけどロスが見つけたいかにもはやっていなさそうなレンタカーやで値段を聞くと、8時間じゃなく24時間$50になった。48時間なら$90になるとか。そこで1泊2日(朝から翌日の夜まで)で$80に下がった。これであまり古い車だったり整備が悪そうだったら借りないところだけど、そこは車の整備工場とレンタカーやが併設だったから整備も問題ないように思われたんで結局ここのレンタカーを予約した。

 予約したあとは3人で近くの海辺に行った。ロスはしばらく岩場をいったりきたりしていたけど、ヨッシーがギターを出して防波堤の上で歌い始めたのを見て、防波堤の上にあがってふたりで歌い始めたみたいだった。私は岩場の上でスペイン語の参考書を読んで過ごした。なんでこんなところで勉強する気になったかというと、それにはちょっと理由があった。実はイースター島への出発数日前、おなかも壊していないのに、咳も出ないのに、急に3日ばかり40度の熱が続いたのだ。ひょっとしてマラリアか?と思ってあわてて治療薬を続けて飲んだらまもなく熱はひいたけど、その間バファリンを飲んでも38度より熱が下がらなかったのがとってもこわかったのだ。南米は今までの国々に比べてもほんとシャレになんないぐらい英語が通じないらしい。熱を出したときも、病院探そうにも言葉が通じないからとりあえず様子みようと思って先のばしにしてしまったし、その前にも、言葉が通じないから荷物預けないでいいやとか、言葉が通じないからよくわかんないけど払っちゃったとか、そういうことが何度か続いていた。このまま言葉がわかんないで旅していくのはあぶない、ってこともあったし、それ以上に楽しめないっていう危惧があって、はやいとこ勉強してせめて片言ぐらいは使えるようにしとかなくちゃと思ったのだった。

 さて海からの帰り道、町を歩いていたら、自転車に乗った日本人の女の子に会った。3人でこんにちは〜って挨拶したあと、
「いまの女の子いつの便で来たのかねえ」
って話になってヨッシーが、
「俺たちの便にほかに日本人いた?いなかったよねえ」
ってロスに訊いたら、ロスがとぼけて、
  「うん、オレたちだけ」
って言った。彼は栗色の髪に緑の目でどっからどう見ても日本人には見えないのにとぼけて「オレたち」って言ったのがおかしくて私たちは笑った。

モアイのマネして倒れるロス


吹きさらしのモアイ
 翌日は9時頃にレンタカーやに行った。ヨッシーはギターを後ろに積みこんだ。ロスのもってきたstingとかのカセットかけて、私たちは海沿いの道を走り出した。モアイは、もともとはアフと呼ばれる祭壇の上に立てられていたものだったらしい。海辺にたてられてるやつのほとんどは戦いの間に倒されてしまい、いま立ってるやつのほとんどは近年になって日本その他外国の資金援助によって立て直されたやつなんだそうだ。それでも海辺のいくつかのアフのまわりにはアタマが胴から離れちゃったモアイとか半身埋まっちゃったモアイとかが倒れたままに吹きさらしになっていて、もの悲しい雰囲気だった。今日はあいにく曇りだったけど、どろりとした海と雲のなかに沈殿したモアイは時の悲哀を訴えていてインパクト大きかった。

 海岸に点在するアフを見ながら東進し、私たちがラノララクに着いたのは昼頃だった。ラノララクっていうのは、モアイを切り出した石切場だ。モアイっていうのは火山岩でつくられている。つまりその石切場っていうのは火山の火口だ。イースター島には大きい火口がふたつあるんだけど、その火山はどっちも決して高い山じゃなく「丘」ていどの高さだ。そのふもとに車を止めると、その丘はにょきにょきと首を出したモアイが見えた。この丘のモアイはたてなおされたものでなく、作って配置されたままになっているものらしい。丘を背にじっと虚空を見つめるモアイはどれも人待ち顔をしているように見えた。
ひと待ち顔のモアイ

 モアイの丘を登ると丘の中腹に出た。そこからは火口が見渡せる。火口の近くには牛が草を喰んでおり、その火口に下るなだらかな坂の途中にも何体かのモアイが建てられていた。

 なんて言う光景なんだろうか。
 私は、いままで見てきた有名観光地のなかでとっても気に入らなかった遺跡のことを思い出した。それはギリシャのアテネのアクロポリス神殿だ。たまたまシーズンとかタイミングが悪かったのかもしれないけど、それにしたって入場料は高いし、遺跡の周りには柵がもうけられていて遺跡に近づくことができないし、遺跡は修理中で足場でかこまれていて、足場のむこうがわではクレーンが動いている。にもかかわらず柵のこっち側は観光客でごったがえしていて、あまりのにぎやかさに私はなにも感じることができなかった。だけど有名になってしまった以上、ある程度不自然なもので囲まれたり、演出されたりしてることはしょうがないといえばしょうがない。訪れるひとが多い以上、ときどきは補修もしなければならないだろう。それ以降私は、有名観光地に行くときにはある程度の不自然さを覚悟するようになった。

 ところがここはどうだろう。これだけ世界に知られた観光地でありながら、この火口の風景にはそんな不自然さはみじんも感じられない。牛も観光客もモアイも、火口の風景にとけこんだごく平凡な登場者でしかない。私たちはモアイのたたずむ風景のなかで、お弁当にもってきたおむすびやチーズやパンをひろげて食べはじめた。おむすびには私とヨッシーがもってきていたふりかけとロスのもってきたツナ缶がはいっていて、まるで日本から直行で遠足に来たような錯覚にとらわれた。それぐらい私にとって自然な光景だった。

 昼食後火山のてっぺんまでいって海を見渡し、ふたたび出発して少しいったビーチで車を降りた。車を降りるとロスが、
「泳ごうかなぁ」
って言った。
 たしかにサンチアゴに比べるとイースター島はすっごくあったかくて昼間はTシャツ1枚でも差し支えないぐらいだったけど、さすがに今日は雨ふりそうな曇りだったしそれに一応もう冬の入り口にさしかかってるんで、やや日も傾きかげんだった。
「寒いよ?」
って私はこたえたけどロスは、
「せっかく来たから。ちょっと失礼」
といって車の陰で海パンに着替え、すたすたと波打ち際に歩いていってしばらく子供みたいにボディボードを楽しんでいた。ヨッシーはそのあいだ岩場の上のほうでギターを出して唄っていて、私はビーチで自分の足を砂に埋めて遊んでいた。私たちはなんか、好き勝手なことをやっていてそれでいてうまくいってる変な3人組だった。


浅野くんとしげる
 しばらくしてロスは寒くなったらしくて服に着替え、また3人車に乗り込んで、夕方日がおちる頃、アナケナビーチについた。このまえ自転車で観光した日、私は浅野くんと別れるときに、
「キャンプ場のほう観光しにくることがあったら水もってきてよ」
って頼まれていた。浅野くんは今日あたりこのビーチ界隈にいるはずだった。イースター島の町は私たちの泊まってるハンガロア限りで、それ以外は民家も珍しい。当然水道設備なんかもないからキャンプするときに水だけは自分で準備しなくちゃいけないらしかった。今日は浅野くんに届けるために水を1.5リットルほどもってきていたんで、ビーチの近くで浅野くんを探すと、遠くの椰子の木陰になったあたりに何人かのひとかげが見えた。近づいていくとはたしてそのうちのひとりが浅野くんだった。浅野くんをかこんで何人かの地元の男たちが集まっており、彼らは魚を焼いたりココナッツを割ったりしておしゃべりしていた。

 浅野くんの知り合いとみると、男たちは私を火の近くに招いて、スペイン語なんか全然わからない私にあれやこれや言って焼けた魚をすすめてくれた。しばらくしてロスと加藤くんもやってきた。彼らはそれぞれ魚をすすめられて、焼けたての熱い魚を手でほぐして食べ始めた。浅野くんに、
「釣ったの?」
ってきくと、
「いや、俺じゃないけど。彼らがね」
ってこたえた。昨日ここのビーチにきて晩ご飯を釣ろうとしていたら、彼らがやってきて、浅野くんがちっこい魚を釣ってる間に大きな獲物をばんばんとって勧めてくれたんだそうだ。

浅野くんと気ままな仲間たち

 彼らの使う釣りの道具っていうのはすごくかわってて、直径15センチぐらいのパイプみたいなものを15センチぐらいに切って管をふさぐように板を1本渡しかけ、それがリールの役割をするらしい。このパイプの一カ所に釣り糸がつけられていて、その先には錘と針がつけられている。彼らが釣りをしてるところを私は実際にみたわけではないけど、彼らが錘を投げるとリール代わりのパイプからくるくると糸がはずれていき、くいくいとひっぱるとおもしろいように魚がかかるんだそうだ。火にくべられている魚は20センチから30センチぐらいのもので、なんの味付けもしてなかったけど海水の塩分でじゅうぶんおいしかった。私たちが魚を骨の髄までほじくって食べているとひとりがココナッツを割ってカップにして、なかの果汁をまわしのみさせてくれた。浅野くんに聞いたところ、さっきまで彼らはビーチ沿いの椰子の木に登ってココナッツの実を落とし、ココナッツ割りに興じていたんだそうだ。

 浅野くんによれば彼らはこの付近に住んでいて、たまに畑仕事をしたり、たまに漁をしたりして、馬で野山を駆け回り自由に暮らしているひとたちなんだそうだ。地元では「ヒッピー」みたいな意味の言葉で呼ばれていて、彼らは自分が食べる以外の魚をハンガロアの町に売りにいったりして生計をたててるらしい。

 彼らのひとりは歌手の松崎しげるにそっくりで、「しげる」と呼ぶことで私は浅野くんと合意した。またほかのひとりはGパンの前があいてるんだけど、どうも下着はいてないらしく窓の奥の密林をのぞかせていたので「しげみ」と呼ぶことになった。私たちが魚をごちそうになってしばらく意志の疎通のないままにおしゃべりしていると「しげみ」が、
「ハンガロアに行きたいんだけど車に乗せてくれないか」
と言い始めた。
 私たちの車には1席空きがあったから私たちはこころよくOKした。ほどなく日が落ちて寒くなりはじめたので私たちはしげみを車に乗せてハンガロアの町へと走り出した。ハンガロアへの道々喋ってみると、驚いたことにしげみは、ずっと昔日本に行ったことがあるって言った。

 ロスがスペイン語を少し話せるんで彼が聞いて通訳してくれたところによれば彼はニッポンマルっていう船にのってアカプルコとかあちこち経由する便で日本に行き、プリンスホテルに泊まったそうだ。東京に滞在してるあいだに彼は六本木にも遊びに行ったと言っていた。だけどいま目の前にいるしげみははだしで服とかもみすぼらしく、観光とかで日本に行きそうにはおよそ見えないんだ。六本木とかプリンスホテルとか、そこまで詳しい話をするからにはウソとは思えなかったけど、はだしでノーパンなのにプリンスホテルと六本木というギャップに私たちの好奇心ははげしくかきたてられた。私とヨッシーはロスをけしかけて、一体全体どういうわけで彼が日本に行ったりプリンスホテルに泊まったりしたのか訊いてもらおうとしたけど、ロスもそこまでつっこんだ話はスペイン語じゃできないらしくて結局彼の訪日の理由は謎につつまれたままだった。

 翌日はチャーハンをおむすびにしてもって出かけた。前日島の南側を走ってビーチ沿いの遺跡を見たんで、今日は北側の丘を中心にした遺跡や洞穴なんかを見てまわった。島のモアイのなかで、唯一海を向いて立っていた7体のモアイを見て、それから海沿いの洞穴を見にいった。

 洞穴のあと私たちはモアイの髪の毛の採石場のあたりに行っておむすびをたべた。そうそう、私はイースター島に来る前はモアイっていうのはハゲとばかり思っていたんだけど、ここにきて初めて、実は彼らにも髪の毛があったということを知った。採石場のラノララクにあるモアイはそうでもないんだけど、立て直されたモアイの多くには赤いシルクハットみたいな形の帽子がのっかっていて、それが実は昔このモアイをつくったひとたちの結っていたマゲをかたちどってつくられたものなんだという。この帽子はモアイ本体とは違う地域でとられた赤い色の石でつくられていて、島の北側の丘にはこのつくりかけの髪の毛がごろごろころがっているのだ。私たちは髪の毛の見渡せる丘の上にあがった。昨日とはうって変わったさわやかな晴天で水平線があざやかなブルーに輝いていた。私たちは丘のうえに腰を下ろしておむすびをほおばった。そしてのんびりと、旅のおしゃべりを楽しんだ。
髪の毛のあるモアイ

 ところでこの話の途中、またイスラエル人をめぐってディープな話題になった。言い出したのはたしかロスだったと思う。ロスは旅の途中で会ったイスラエル人についてかなり怒っているようだった。ロスはここにくるまえペルーでインカ・トレイルのトレッキングを楽しんできたんだけど、彼の会ったイスラエル人たちはよりによって歴史的にも景観的にも価値の高いインカトレイルの真ん中にウンコして紙を放置していったのだそうだ。
「もう、絶対信じられない。もう、絶対許せない」
と彼は憤慨していた。私もあれこれと思い出して、ミャンマーで、すっごく無礼だったイスラエル人とか、南アですっごくうるさかったイスラエル人とかの話をした。そしたらヨッシーはイスラエル人とユダヤ人の関係とか、ユダヤ教の関係とかをよく知らないみたいだったから、私が説明しようとして、
「ユダヤ教徒っていうのは選ばれた人間だ、っていう意識があるから」
って話していたらロスがふと私をさえぎった。
「ユダヤ教徒って言うのは、ユダヤ教を信じるかどうかっていう以上にまずユダヤ人の家に生まれればユダヤ教徒っていうものだからね」
って言ったあと彼は付け加えるように、
「オレみたいに」
って言った。


ロスとヨッシー
 私は一瞬ぐっとつまって、
「ロス、ユダヤ人なの?」
って訊くと、
「そう。あまり真剣じゃないけど」
って答えた。
 ロスはお母さんがユダヤ人で、お父さんはクリスチャンだけど、お父さんはお母さんと結婚してる間、ユダヤ教で禁じられている豚肉は一切食べなかったそうだ。で、ご両親はのちに離婚してしまったんだけど、ユダヤ教っていうのは母系でひきつがれるものなんで、一応ロスはユダヤ人なんだという。子供の頃は毎週木曜になるとユダヤ教の勉強をするために通ったらしい。ただ、ロスはベーコンも食べるし、別に選民思想もない。
「オレはユダヤ人だけど別に神は信じてない。オレ科学を信じてる」
と彼は言った。たぶん彼は新世代のユダヤ人で、たぶんそういうユダヤ人は増えてるとこなんだろう。

 で、ここに来て私はやっと、どうもユダヤ人とイスラエル人はきっちり区別しなくちゃいけないらしいな、ということがわかった。旅先でよく見かける、「うるさくてケチで横柄できたない」っていう典型的なイスラエル人旅行者っていうのは、「ユダヤ人だから」そうなんだっていうわけじゃなく、イスラエルっていう国の成り立ちとか、彼らの多くが旅に出る前に経験してくる徴兵制とかに大きく関係してるものなのかもしれない。もちろんアメリカにも独特の、もみあげ伸ばしたような敬虔なユダヤ人いるから、彼らのイスラエルに対する、あるいはイスラエル人に対する考えかたっていうのはロスとはまた違うんだろう。けど、少なくともロスの目からみてイスラエル人のとる行動っていうのは私たちが見るのと同様我慢できないもので、その感覚っていうのは「同じユダヤ人同士ですから」とかいうふうに免除されるもんでもない。もし私がロスとかほかのイスラエル人をまとめて「同じユダヤ人」っていうふうにくくったらロスに失礼だし、彼としても相当納得いかないに違いない。イスラエルとイスラエル人とか、ユダヤ人とユダヤ教っていうのも、ほかの宗教とか民族とおなじく今現在も変わりつつあるものだろうし、一筋縄では考えることはできないもんだなぁと思ったのだった。

 ディープな話を終えて午後、私たちは昨日のアナケナビーチに向かった。風が強かったけど今日はかなり天気がいいせいかあたたかだった。アナケナビーチにつくとロスとヨッシーがまず水着に着替えて海に飛び込んだ。私はしばらく砂浜で本を読んでたんだけど、風があまりに砂をまきあげるのでそのうち目があけていられなくなり、本をあきらめて、水着もないのに私もTシャツになって海にとびこんだ。ロスとヨッシーが遊び疲れて戻ってしまうとビーチには誰もいなくなった。風のせいか波は結構荒くてちょっとでも足のとどかないところに行くとすっと波間に吸い込まれてしまいそうだった。私は泳ごうとしては戻り、泳ごうとしては波にまきこまれて、しまいにはこわくなって波打ち際に戻った。


夕暮れにたたずむ
 ビーチに2時間ほどいて、またそれぞれ思い思いのことをしたあと私たちは服を着替えて車に戻った。そして夕暮れにたたずむラノララクのモアイの間を散策したあと、ハンガロアの町に戻った。日がとっぷりと暮れてからは、空にはほとんどまんまるの月が浮かんでいた。私たちが約束の時間にレンタカーやに車を返しに行ったら、受け付けてくれるひとは誰もいなかった。ここはレンタカーやっていうか、ふつうの家が片手間に車を貸してるような感じで、居間らしいところには明かりがついてるんだけど、呼んでも窓をたたいても誰も出てこない。今日この時間に車返しにくるってわかってるんだろうに。えらくのんびりしてるなと思ったけど、ひとがいないからって持ってかえるわけにもいかない。明日の朝返しにきたらそれで割増料金になってしまうからだ。イースター島は狭い島だけあって治安もいいし悪い噂もきかないんで、不用心だとは思ったけど結局レンタカーは鍵つけたまま置いてきた。翌日問題なかったかどうか見に行こうかと思っていたけど、結局忘れて私たちはそのままイースター島を去ることになった。

 宿に帰ってからまた話し込んでいたら私たちは居間の壁にふと見慣れない虫をみつけた。エビみたいな変な虫だ。と、近づいてよく見たら背筋が凍った。サソリだ。全長5センチぐらいのサソリが壁にとまってじっとしてるのだ。いままでガラス詰めのサソリの文鎮なんてのは見たことあったけど、ナマの、生きてるやつを見たのは初めてだった。どうしてサソリがこんなとこに!?と思ったけど、地域によってはそれが当たり前なのかもしれない。トルコでお世話になった伊藤さんは子供の頃南米のパラグアイに移住してそこで20年を過ごした方なんだけど、その伊藤さんから
「パラグアイでもサソリ見つけるなんてのは日常茶飯事で、しばらく履かなかった長靴をひっくり返すとサソリが転がり出るなんてよくあることだったよ」
と聞いたことがあったっけ。

壁にいたサソリ

 サソリは、私がフラッシュたいてもものともしないで壁でじっとしていた。近くではじめてじっくり見るサソリっていうのは、顔にとびつくエイリアンそっくりで、小さいんだけどなんかぞっとするような姿をしていた。このままにしておくわけにもいかないから、結局私はサンダルを手にもっておもいきり壁をたたいた。サソリはつぶれて床におちた。ティッシュでひろって見たらおなかに卵をいっぱい持っていて、自分で殺しておいていうのもなんだけど、とても正視に堪えないありさまだったのを覚えている。

 結局雨季にも関わらずイースター島にいる間に雨が降ったのは1日か2日きりだった。イースター島っていうのは、思いの外リラックスできる環境だったなー、というのが10日弱いたあとの印象だった。それは、カーっとくるような、キューっとくるような感動があるだろうと思っていた私にはちょっとパンチが少なくも思えたけど、あれだけの有名観光地でこれほどのんびりとできるのもまた得難い体験だったと思う。

 最終日、浅野くんがキャンプから帰ってきて、自転車を宿の旦那にひき取ってもらっていた。彼はアフリカのジンバブエあたりからチャリダーになって南部アフリカを駆けめぐり、私と同じルートで南米にわたって、ブエノスアイレスから南下してこの自転車でパタゴニアを駆け抜けてきたんだという。そういう思い出深い自転車だけど、自転車はチリまでって決めていたから、ここで別れることにしたんだそうだ。最後の最後に、「しげみ」や「しげる」たちと出会って、本当にイースターを隅々まで楽しむことができたから悔いはないけれど、長い間つきあってきた相棒との別れに彼はちょっとしんみりしていた。

 偶然にも帰りの便は、ロスとヨッシーも同じだった。最終日は現地で働いている日本人ガイドの増田さんっていうひとが宿に訪ねてきて、ピスコっていう南米のお酒をふるまってくれて5人で乾杯した。彼と話していたときに、すごく印象に残ったことばがある。
「オレがね『今日満月だね、っていうと、いや今日はまだ満月じゃないよ。満月は明日』って言われるんだよね。月の満ち欠けとか、潮の満ち干とか、そういうもののなかでいまも生きてるひとがいるっていうことが、オレにとってはほんと、新鮮な驚きで」
って彼は言っていた。

 たぶん、幸いにして、イースター島をほかの陸からはるか隔てている太平洋が、この島をそういう環境に保ち続けているんだろう。世界的な観光地にもかかわらず、観光だけに頼って生きるわけでなく、漁や農牧業で生きているひとがいて、遺跡や謎を決して格式ばったドラマに仕立て上げることをせず、ひとの生活のなかに融合させている島、イースター島。南米であってポリネシアであって、そしてヨーロッパでもある島。
 出発の朝、これまでの数日間にないような激しい雨がふる中、飛行機は静かに離陸した。そして浮上するとすぐに雲のなかにとびこみ、モアイも海も、神々の姿も確かめることはできなかった。だけど、あの人待ち顔のモアイたちは今日もこの島の民を守り、訪れる人々、離れゆくひとびとを見守っているに違いない。