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サンフランシスコまで |
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年末ぐらいからちょっとできごと日記をおろそかにしていたので書くべきことがえらく溜まってしまった。以下のことはのちのちもうちょっと小分けにして詳しく書くつもりだけれど、とりあえず報告として書いておこうと思う。
コスタリカについたあと、私はニカラグア、エルサルバドル、ホンジュラスを通過してグアテマラにはいった。グアテマラでは、念願だった会社の後輩との合流を果たし、一週間ほどを一緒に過ごした。彼女たちを送ったあと私はグアテマラの地方都市をいくつかまわり、そしてベリーズを通過してメキシコのカンクンについた。ここの日本人宿カーサ吉田でクリスマスのついでに31才の誕生日を祝ってもらい、その晩はサルサバーに繰り出して文字通り朝まで踊り狂った。その宿ではまわりのひと誰も彼もがキューバに行くというので、ふと心が揺れてキューバ行きを決意してしまった。宿で会った高松くんという大学生の男の子と船のキャビンをシェアしてキューバに一週間滞在し、2001年の新年は現地で迎えた。
カンクンに戻ってからは、日本人宿に沈没してしまわないようにわずか2日でカンクンを抜け、ビジャエルモッサ、ベラクルスへと進んだ。ベラクルス滞在中にロサンゼルスに3ヶ月ばかり出張中のもと同僚シモン(できごと日記「怪談」に出てくるS山田の通称)からメールがはいり、2月あたまに日本へ帰国との知らせをうけた。シモンとはアメリカで再会することをずっと前から約束してある。そこで急いで北上して1月末にはアメリカいりすることに決めた。
決めたはいいけど、2月あたままでに陸路で行くにはロサンゼルスは遠すぎた。インターネットで調べるとメキシコシティからのフライトは安くても4、5万円ぐらいする模様だ。片道でチケットを買いたいところだけれどアメリカは出国チケットがなければ入国を許さないという厳しい決まりがある。インターネット上で八方探した結果、太平洋岸のマサトランからロスに飛ぶアラスカ航空のwebスペシャルが往復約$190で最も手頃だという結論に達した。ベラクルスのインターネットカフェから予約し、メキシコシティのペンシオンアミーゴを経てグアナファトへ。そこから一気にマサトランまで移動した。マサトランで会った女の子ミエちゃんと2日ほど一緒に行動し、1月29日私はついにメキシコを離れたのだった。このときの気分はなんとも言い表すことができない。これまで煩わしいとさえ思っていたスペイン語圏から、離れると決まったとたんにどうしてこう切なくなるんだろうかと我ながら不思議に思うほどだった。
彼は私が出発するしばらく前からアメリカの会社と提携して開発をするチームで働いていたけどいまから4,5ヶ月ほど前に辞令が出て11月あたまぐらいからこちらでの開発に加わることになったんだそうだ。こちらの会社でも日本との提携は初めてのことで、結構気をつかう面もあったようだ。シモンが来たばかりの頃に彼らは「日本人とのビジネスのしかた」という講座をひらいてアメリカ人の技術者を参加させていたのでシモンも覗いてみたらしい。そしたら「名刺は投げてわたしてはいけません」とか「名刺をもらったらポケットにすぐにねじこんではいけません」とか説明していたそうだ。名刺は相手の分身と思いなさい、と言われてきた私たちには目が点になるようなことだ。この講座では日本の常識なども話題にのぼったんだけど、
彼は冷蔵庫からレンジ、コンロ、電話、テレビ、バスタブのあるお風呂、デスクにテーブル、カウチと、何から何まで見事に揃ったひろびろとしたビジネスホテルの一室に住んでおり、私は彼の部屋にお邪魔して数日間を過ごした。残念なのは出張者用のビジネスホテルだっただけにベッドがひとつしかなかったことで、私は友だちへのおみやげにメキシコで買ってきた毛布を床にしいて寝ていたけど床はふっかりした絨毯だしエアコンは効いてるし、まったく何不自由ない環境だった。
またある日は以前同じ職場でお世話になっていたひとたちにも会うことができた。直接同じ会社の同僚というわけではないんだけど、私が勤めていた会社と繋がりの深かった会社のひとたちだ。私の知っているひとのうち2人までがロサンゼルス支部に転勤になっていて「ロスに来るならぜひゴハンでも」と誘ってくださったのだった。片方の岸田さんは私が出発するときはまだ同じチームにいて送別会をひらいてくださった本人だったのが、ここで再会することになろうとはほんとに予想外だった。
シモンの家にいる間にノアにメールを書いた。ノアは筆無精なひとで、アフリカから南米まで私はしばしばメールを書き続けてきたんだけど2回に1回しか返事をよこさない。実は中米からも一度メールして「もうすぐ行くからね」って言っておいたのに返事がなかった。「あんたもしかして私のこと嫌いなんじゃないの」となかば本気で心配しながらもヨルダンで別れたときの約束を思い出し、重ねてメールを書いた。「どうしても急かさないとメールよこさないみたいだね!」って書き送ったらこんどは返事がきた。冒頭から「僕はこう見えてもそうとうな悪人なんでメールなんか書かないよ」ときた。だけどつづいて「間違いなくサンフランシスコには来るようにね!もうすぐ会えると思うと待ちきれないよ!君が居たいだけいていいからね!最近すごい寒いけど服ならいくらでも貸してあげる。友だちから車が借りられたら空港まで迎えに行くからね」と書いてあった。そうこなくっちゃあ!
さらにもうひとり。私がアメリカにいる間にどうしても会いたいと思っていた友だちがいた。それは大学時代の友人で、名はジェイソン。私がはじめて友だちになったアメリカ人だ。最後に会ったのは私が同僚とドライブ旅行に来たときのことだから、4年半前。彼は1年半ほど前からアリゾナのビジネススクールに行っていて、アリゾナに移動してから間もなく新しいメールアドレスと住所をおくってくれたんだけど、これが前のパソコンにしか入っていなかった。つまり、アルゼンチンで盗まれたときに連絡先がわからなくなってしまったのだ。そのうち彼のほうからメールが来るだろうと思っていたらこんどは私がずっと使っていたフォワーディングサービス(メールを転送するサービス)がおかしくなってむこうからも連絡がつかなくなってしまった。
私は記憶をたよりにYahoo.comで彼の学校を探し、事務局あてにメールを送った。私の記憶では彼は去年あたり卒業すると言っていたようだったから「卒業生に心当たりは」と書いておくったんだけど、そしたら彼はまだ在学していたようで、事務局は彼にメールを転送してくれたらしい。1週間もしないうちに彼からメールが来た。彼はいま卒業を目前にしていてとっても忙しいんだけど、私が来てるならどっかで会えるようにしたいな、と書いてくれ、ちなみに2月の中旬にサンフランシスコに就職フェアで行くことになってる、と結んでいた。それだ!その時期に合わせて私がサンフランシスコに行けばジェイソンに会えるってことでしょ?
私はすぐさまノアに返信して、前回につづいてアラスカ航空のwebスペシャルで往復86ドルという、バスより安いチケットでサンフランシスコ行きの往復を予約した。
ちなみに2月下旬のユージーンという場所はロスからみるとサンフランシスコのむこうにある。一旦ロスに戻るのはたいそうばかげたルートどりなんだけど、これにはワケがある。アメリカでは片道の割引チケットというのがほとんどないので往復の割引チケットを買うほうが片道より安いということが結構あるんだ。たとえば、
【ロス】→【サンフランシスコ】→【ユージーン】→【ロス】
という片道を3つ買うとだいたい600ドルぐらいかかるんだけど、往復チケットだと各航空会社でかなりの割引プランがあって、
【ロス】→【サンフランシスコ】→【ロス】
と2つに分けて往復を買うと合計だいたい300ドルぐらいで済む。時間に余裕があってお金がなくてマイレージをためたい私には一石二鳥。そういうわけでこういうスケジュールになった。
さて私を送り届けてちょっとお茶を飲んだあとシモンは自分の宿に帰っていったんだけど、帰る間際ちょっとしたミスをやらかしていた。私があそびにきてからこの数日寝不足がつづいたせいかもしれない。かなり動揺していたようなんで心配だった。おまけにそのあと10日ちかく連絡がなかったんで、まさか高速で事故ってしんだか?と思ったけどそれは上記のとおり私のメールアカウントがおかしかったせいで、実は彼は無事帰国した連絡をもう送ってくれていたのだった。滞在中はずいぶん迷惑かけたと思っていたけどあっけらかんとした様子で日本に帰ってきたらメシくいに行こうと書いてあったのでともあれひと安心したのだった。
さてサッコについては両親と暮らしているとは聞いていたんだけど、どういう家族構成か聞いていなかった。サッコにはお兄さんがひとり、弟が2人いて、お兄さんは結婚して別に住んでいる。この前ベルギーで会ったときはラフィが「俺は車のエンジニアだ」と言ってたのでてっきりサッコもそうだと思いこんでいたんだけど、実は違っていた。彼はちょっとデラックスなおうちにオーダーメードで豪華なキッチンキャビネットをつくって仕入れるという仕事をしていて、弟2人はサッコと一緒に仕事をしているんだそうだ。サッコのうちは寝室ひとつにキッチンと居間という小ぶりなつくりながら新しい快適なアパートの一室だった。ちなみにお父さんとお母さんはアルメニア語・東アルメニア語・アラブ語・トルコ語・クルド語など5カ国語を操るけど英語は喋れない。ただとてもにこやかで親しみやすいひとたちだということだけはわかった。
サッコは40才で上の弟のラフィ(サッコと旅をしていたラフィとはもちろん別人)は私より少し年上。末の弟ベルジュは25だと言っていたから全員かなり歳が離れている。彼らは全員シリア生まれのシリア育ちだ。サッコが移住してきたのはもう十何年前のことで、当時は3ヶ月どこかの会社で働いて185ドル払えば永住権がもらえた時代だった。
サッコは家族のなかで一番はじめにアメリカに来たのだそうだ。まだアルメニア人の知り合いが全然いなくて英語もわからないし、はじめは泊まるところもなくて道で寝たそうだ。そのうちに偶然アルメニア人と知り合い、そのひとたちの世話で仕事を見つけ3ヶ月たってアメリカ人になった。そのあとラフィがきて、それからご両親と上のお兄さんが来たのだそうだ。ご両親が来たとき末の弟ベルジュは兵役に行っていたらしい。兵役から戻ってきたときは21才を過ぎていたからもう扶養家族として認められず、彼ひとりだけがシリアに残ったのだという。その後ときどきあそびに来ていたりもしたんだけど、シリアパスポートだとなかなかビザがおりず家族に会うのも一苦労だったようだ。
ところが今回お父さんが心臓病だからという理由でやっと許可がおりて会いにきていたらちょうどクリントン大統領が任期満了の置きみやげに「12月末現在アメリカにいるアメリカ市民の家族は1000ドルの手数料をもってアメリカ市民とする」とかいう法律にサインして去っていったらしい。彼らはシリアにひとり残してずっと気がかりになっていた末の弟をやっと迎えることができて心底ホッとしているところだった。
サッコの家にお世話になっている間に一日ラフィんちにお邪魔した。ラフィんちはサッコんちよりもちょっと北西にある閑静な住宅街にあった。そのことも後日またきちんと書くとしてラフィんちに行ってなにより驚いたのはラフィが独り暮らしじゃなかったってことだ。誰と暮らしていたかって?それは・・・・ツマとコドモ。いつの間に結婚したんだ!と思ったら、実はこれがもう10年以上も前のことだそうだ。なんでも2年ほど前というからちょうど私と会った頃彼らはちょっと危機を迎えていたとかで別居していたとかいないとか。まあ今は奥さんとはうまくいっているらしくて私がお邪魔してもとりたててマズいこともなかったようなんだけれど、これにはマイッた。サッコは、
図書館の近くには吉野やがあって、台湾以来の実に20ヶ月ぶりに牛丼を食べた。こちらでは「ビーフボウル」と呼ばれてる。こちらのミニサイズがちょうど日本の「並」ぐらいだ。ジュースもつけて税金をいれて$4ぐらい。ツイこの間まで1食に2ドルかけるのは贅沢だと思っていた身にはツライ金額だ。馴れるのにまだしばらく時間がかかりそうだった。ちなみにこっちのビーフボウルは野菜つきのやつがあって、ブロッコリとカリフラワーとにんじんがはいってる。ほかにてりやきチキンボウルとかエビフライボウルなどもあった。調味料の台の上にはちゃんと紅生姜やキッコーマンのしょうゆがあった。南米にいた頃とっても高くて手がでなくて、あれほど貴重に思ったキッコーマンのしょうゆ。それが無造作に台の上に置かれている。距離はこれほど離れているのに、私はもう日本のすぐ隣にいるのだという実感をおぼえた。
午後もしばらく図書館で過ごし、家に帰るとすぐサッコのママが、
さてサッコんちに数日、ついにサンフランシスコを訪れる日がやってきた。フライトは夜7時半。バスでダウンタウンを経由して空港に向かう予定だったから、ちょっと早いとは思ったけど2時半くらいに家を出た。置いていく荷物をガレージにいれさせてもらって、ママとパパにキスしてサッコの家を出た。家からわずか5分のバス停で待っていたらほどなくバスがきた。ロサンゼルスの公共交通機関というのはとてもとても不便だ。私は図書館で界隈のバスの時刻表をもらっていたんだけど、ダウンタウンやハリウッド界隈をのぞけばほとんどの地域でバスの頻度は1時間に1〜2本。バスの料金箱は機械式で硬貨と紙幣をうけつけるけどお釣りが出ない・・・。この進んだ国でだよ!車を持てないひとたちのために走る公共のバスの料金箱がお釣りを出さないってことには、驚くというかあきれるというしかなかった。
1.35ドルのチケットを買い、ダウンタウンまで。そこから地下鉄に乗り換えた。ものすごい深い駅だけどエスカレーターはこわれていた。 地下鉄で7th通りにあるメトロセンター駅についた。地上にあがってちょっと歩いたらLAX(ロサンゼルス国際空港)行きのバス停がある。ここで待とう、とふと顔をあげると、目の前にフライトセンターの店舗があった。店先が赤で統一されていて目立つつくりで、白地に太く黒で書かれたロゴは南アフリカのケープタウンでも見た。店先に航空券の料金が書いてあって日本行きの最安値が片道299ドル〜。そうだ、サンフランシスコに行って、ユージーンに行って、そしてロスに戻ってきたらもう日本に帰るんだ。私は店先にあったチラシを1枚、デイパックのポケットにつっこんだ。
ほどなくバスがやって来た。バスは1時間ぐらいでLAXについた。100mほど歩くとLAXの無料シャトル乗り場がある。そこからアラスカ航空のターミナルまで10分ぐらいだったろうか。やはりたっぷり2時間はかかった。出発は7時半なのでチェックインまでにとりあえず1時間ぐらいは待たないといけない。それとももうチェックインはできるんだろうか。ふと、アラスカ航空のターミナルの出発便モニターでサンフランシスコ行きを確認ディレイ(遅延)になっている。ベンチに腰掛けて6時半まで待った。またモニターを見たら出発は8時半になっていた。
当初の予定どおりにノアが迎えにきてくれてたら申し訳ない。サンフランシスコに電話することにした。電話の前に立って深呼吸。ノアの携帯の番号にかけたら、留守電につながった。留守電のメッセージは聴いたことないような高い声。ああ、ノアってこんな声だったんだっけ。飛行機が遅れるみたい、とメッセージをいれて電話をきった。電話にはあたりまえのようにモバイルアクセス用のジャックがついている。
6時半になった。これ以上チェックインカウンターの前に座っているのも退屈なのでもうチェックインしてしまうことにした。チケットでは出発は7時半のままになっている。階段をあがって荷物検査をうけ、待合室に行った。荷物検査のときにチケットは確認しないみたいだ。ということは、出発が何時だろうがもう待合室に行ってしまっていてよかったということか。日本でほとんど国内線に乗ったことないので普通こういうものなのかわからないけど、アラスカ航空なんかは待合室にも自動チェックイン機がある。これまで国際線ばかり使ってきて、
天候のせいなのかほかの便も遅れているらしく待合室のなかはほぼ満席のひとであふれていた。待合室の一隅には合計で8台ぐらいの無料インターネットマシンがあった。私の胸ほどの高さの柱のようなもののフタを2枚ほど縦横にひらくとキーボードが現れ、ディスプレイが中に設置されている。シアトル行きの待ち客が多かったのでなかなかあかなかったけど、私の目の前のマシンがあいたのでおもむろにその席に陣取った。
CMはインターネットで注文できる花やのサイトとか通信販売のサイトなどいろいろだ。なかにはe-mailならぬe-カードを送れるコーナーがあって、これなんかは友だちにカード書いてるあいだもCMを見ている時間にカウントされるので、もうほんとに交換条件なしでタダでインターネットを使ってると言って差し支えない。難をいうとすれば日本語フォントがダウンロードできないとか、ウィンドウが複数立ち上げられないということもあるけど、アクセス速度は速いし、飛行機の待ち時間をつぶすのにこれほど気の利いた設備はないなあと思いながら私は1時間半はそこに居座っていたと思う。
さて9時半ちかくなってシアトル行きは出発していったので待合室はだいぶすいた。しかしサンフランシスコ行きはまだ出ない。飛行機そのものが来ていないらしくカウンターで訊ねたら「たぶん9時半ごろにはつくと思うんだけど・・・」という曖昧なこたえ。なんでも天候のせいでほかの飛行場に着陸していまそっちから飛んでくるところだとか言われたように思ったけど、そんなことってあるのかなあ?ノアにまた電話したら、うしろで誰かの話し声がした。まだ家にいるらしい。
電話から戻ると飛行機が到着してたらしくやっとスチュワーデスがのりこんでいった。それを見て待ちくたびれてた誰かがヤホ〜イと歓声をあげた。10時くらいに乗り込み、やがて飛行機は離陸した。機内ではいちどナッツとジュースのサービスがまわってきただけだった。おなかがすいたのでデイパックをさぐったら、先日お寿司に行ったときに岸田さんの奥さんのそのこさんからもらった季節限定のチョコボールが出てきた。チョコボールをかじって飢えをしのいだ。
ぼうっとしているうちに飛行機のおりる感覚がしてきて、やがてサンフランシスコの街の明かりが見えてきた。とてもキレイだ。サンフランシスコの空港は羽田と同じように着陸寸前まで海だ。どこだ、どこに滑走路があるんだ!?ドキドキしていたけど、海につっこむ!と見えた直後、海に張り出した滑走路に無事着陸した。前の席のひとたちが荷物をおろすのをやきもきしながら待つ。飛行機から出た。ターミナルからのびる廊下を歩いて、待合室についたら抱き合ってるひとたちがいる。迎え客がここまで来てるっていうこと?=ノアもここらへんにいるっていうこと?
見回すとベンチの向こう、広い通路にノアがたっていた。私は一歩一歩ノアに近づき、ノアの広い胸にとびこんでぎゅっと顔をうずめた。グレーのフェルトみたいなジャケットによたよたのジーンズ、Tシャツの上に赤茶っぽいセーター、くりくりの髪。もっとぴしっとした格好してるのかと思ったけど全然かわってなかった。荷物をひきあげに行くまでにノアが、
ノアがあまりかわってないので、
空港のなかはあったかだったけど駐車場までおりると外の寒さが感じられた。今日は雨なので余計だろう。ノアが借りてきてくれた車に乗って、ダッシュボードにのってたゴムのカエルを手にとったとたんに足をひきちぎってしまった。私どうも少し緊張しているみたい。彼はこの車を1週間の約束で友だちから借りて今週中ずっと乗り回していたらしくて、もうすでに2枚も切符きられちゃった、と言っていた。
この話題はきっと出るだろうなと予想してたけど、車のなかで、
そのあとも、エジプトでは結局どこに泊まってたの?とか、もうどのぐらい旅してるんだっけ?とかつもる話をしていたらノアの家のあるハートフォード通りについた。ノアの家は3階建てのアパートの1階で、家族用の広いアパートをほかのひととシェアして住んでいる。上の階のひとたちとも行き来があるんで顔見知りはだいたい20人ぐらい、と言っていた。同じ階にいるひとは私をいれると7人になるそうだ。家の前に車をとめて中にはいるときにちょうどノアの電話が鳴った。同じ階の女の子からだった。今日はエドというひとの32才の誕生日パーティだったらしくてその後かたづけをしていて起きてたみたいだ。ノアは「いまもう家の前だから」と言って電話を切った。
アパートは古そうだったけど内部はきれいに塗装されている。それぞれの階には、それぞれ別の階段があるらしくて入り口は正面に3つ。ひとつは1階、ひとつは2階、ひとつは3階に通じている。1階は入ってすぐ廊下で、左にテレビのある居間、右にカスの寝室、左にクレスタの寝室、右にうさぎ部屋、左にニナとマットの寝室、右に共同のバス、トイレ、右つきあたりがナンシーの寝室、左にすこし折れてダイニング、左手にキッチン、右奥がノアの寝室だった。
さっきの電話の女の子はクレスタで、ダイニングで私たちを待っていた。すごく話しやすい感じのいいひとでことばも聞き取りやすい。そのあとニナというひととも顔をあわせた。このひとはとてもオリエンタルな感じのひとだなと思ったらチャイニーズとのハーフだということだった。ニナは大柄で坊主がりのマットというひとと結婚してるらしい。クレスタはうさぎの部屋でうさぎを飼っている。大きな白黒グレーのタレみみうさぎのほかに小さい白いタレみみうさぎがいるなと思いながら前を通ったけど白いほうはぬいぐるみだった。それに気づいたのは翌日のことだ。
もうだいぶ遅いのでシリアルだけ食べてもう寝ることにした。歯を磨いてるときにノアのTシャツ姿を見て、
「僕はポーチ(ベランダ)に住んでるんだ」 といっていたけどそれはほんとで、庭に出るためのちょっとした物置みたいなスペースがノアの部屋だった。窓があって外とは仕切られてるしちゃんとした部屋ではあるけど、実際ノアの部屋の入り口の鍵はダイニング側から開け閉めするようになっていてノアの部屋の中からはかけられないという不思議な鍵だった。ノアは仕事に行ってる間や出かけてる間ドアをあけっぱなしにしていくみたいなんで、この家はよほど信頼できるひとたちが住んでるんだろうってことが想像できた。
ちょっとした物置みたいな、と書いたけど、ノアの部屋は実際には結構な広さがある。8畳くらいの広さをL字型にした部分と、50cmぐらい段差があって高くなってる6畳ぐらいのスペースがあって、ほとんど2部屋といっても差し支えない広さだった。ノアのベッドは高くなってる6畳のほうにあり、その足下に、一見とってもタタミに近いゴザがしいてあった。部屋の隅には行灯ふうのランプが2つある。
「ノア。この部屋のセンス、なんか変」 というと、 「クールっていって」 と言う。 「ノアのセンスはわからない」 と答えたら、 「なぁんだよさっきから!太っただのセンス悪いだのって、久しぶりに会っていう言葉?」 とノアは言って笑った。さっき会ったばかりのときの緊張は消え、中東で一緒にいたとき以来の調子が戻っていた。
ノアの部屋でノアは自分のベッドを私に貸してくれ、ソファがわりにしていたマットをひろげてそのうえに寝袋を出して自分はそっちで寝るといった。
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