サンフランシスコまで

 

 年末ぐらいからちょっとできごと日記をおろそかにしていたので書くべきことがえらく溜まってしまった。以下のことはのちのちもうちょっと小分けにして詳しく書くつもりだけれど、とりあえず報告として書いておこうと思う。

 コスタリカについたあと、私はニカラグア、エルサルバドル、ホンジュラスを通過してグアテマラにはいった。グアテマラでは、念願だった会社の後輩との合流を果たし、一週間ほどを一緒に過ごした。彼女たちを送ったあと私はグアテマラの地方都市をいくつかまわり、そしてベリーズを通過してメキシコのカンクンについた。ここの日本人宿カーサ吉田でクリスマスのついでに31才の誕生日を祝ってもらい、その晩はサルサバーに繰り出して文字通り朝まで踊り狂った。その宿ではまわりのひと誰も彼もがキューバに行くというので、ふと心が揺れてキューバ行きを決意してしまった。宿で会った高松くんという大学生の男の子と船のキャビンをシェアしてキューバに一週間滞在し、2001年の新年は現地で迎えた。

 カンクンに戻ってからは、日本人宿に沈没してしまわないようにわずか2日でカンクンを抜け、ビジャエルモッサ、ベラクルスへと進んだ。ベラクルス滞在中にロサンゼルスに3ヶ月ばかり出張中のもと同僚シモン(できごと日記「怪談」に出てくるS山田の通称)からメールがはいり、2月あたまに日本へ帰国との知らせをうけた。シモンとはアメリカで再会することをずっと前から約束してある。そこで急いで北上して1月末にはアメリカいりすることに決めた。

 決めたはいいけど、2月あたままでに陸路で行くにはロサンゼルスは遠すぎた。インターネットで調べるとメキシコシティからのフライトは安くても4、5万円ぐらいする模様だ。片道でチケットを買いたいところだけれどアメリカは出国チケットがなければ入国を許さないという厳しい決まりがある。インターネット上で八方探した結果、太平洋岸のマサトランからロスに飛ぶアラスカ航空のwebスペシャルが往復約$190で最も手頃だという結論に達した。ベラクルスのインターネットカフェから予約し、メキシコシティのペンシオンアミーゴを経てグアナファトへ。そこから一気にマサトランまで移動した。マサトランで会った女の子ミエちゃんと2日ほど一緒に行動し、1月29日私はついにメキシコを離れたのだった。このときの気分はなんとも言い表すことができない。これまで煩わしいとさえ思っていたスペイン語圏から、離れると決まったとたんにどうしてこう切なくなるんだろうかと我ながら不思議に思うほどだった。


毎晩食べにいったマサトランのタコスや
 ロサンゼルス空港には約束どおりシモンが迎えに来てくれていた。彼は出張先の会社と滞在先が離れているのでレンタカーが支給されていて、仕事を早めにきりあげてこの日はわざわざ迎えにきてくれたのだった。たいそう方向音痴なひとで、同じビルで働いていた頃からエレベーターを降りるとかならず居室と正反対の方向に歩き出すクセがあったけど、久々に会うなり空港のまわりで一気に道に迷っていたので爆笑した。彼はおしゃれなひとでシブい身のこなしをいつも心がけているけどそれがキマらないのが彼のいいところだ、と私は常々思っている。たとえばカッコいいブーツをはいて足取りも軽く歩いていく後ろ姿を見送っていると絨毯の毛足につまづいてコケるとか、さっそうとデスクの角を曲がっていくと思ったらゴミ箱け飛ばして部屋中に大音響ひびかすとか。彼については志村けんでもやらないような「ぶつかり系」の笑いが多かったと思う。それがウケを狙ってやってるわけじゃないからよけいにおかしい。

 彼は私が出発するしばらく前からアメリカの会社と提携して開発をするチームで働いていたけどいまから4,5ヶ月ほど前に辞令が出て11月あたまぐらいからこちらでの開発に加わることになったんだそうだ。こちらの会社でも日本との提携は初めてのことで、結構気をつかう面もあったようだ。シモンが来たばかりの頃に彼らは「日本人とのビジネスのしかた」という講座をひらいてアメリカ人の技術者を参加させていたのでシモンも覗いてみたらしい。そしたら「名刺は投げてわたしてはいけません」とか「名刺をもらったらポケットにすぐにねじこんではいけません」とか説明していたそうだ。名刺は相手の分身と思いなさい、と言われてきた私たちには目が点になるようなことだ。この講座では日本の常識なども話題にのぼったんだけど、
「日本では電車は清潔で安全です」などという話しも出たのでシモンは逆に「そうかこっちでは電車は清潔でも安全でもないのか・・・」とヘンに感心してしまったそうだ。

 彼は冷蔵庫からレンジ、コンロ、電話、テレビ、バスタブのあるお風呂、デスクにテーブル、カウチと、何から何まで見事に揃ったひろびろとしたビジネスホテルの一室に住んでおり、私は彼の部屋にお邪魔して数日間を過ごした。残念なのは出張者用のビジネスホテルだっただけにベッドがひとつしかなかったことで、私は友だちへのおみやげにメキシコで買ってきた毛布を床にしいて寝ていたけど床はふっかりした絨毯だしエアコンは効いてるし、まったく何不自由ない環境だった。


シモンの部屋のキッチン
 シモンの宿にお邪魔しているあいだに、長い間連絡をとりつづけていた田口あっこさんとついに会うことになった。彼女は私が出発した頃から私のホームページを読みつづけて応援してくれたひとで、彼女自身も旅に出たいという希望をもっていた。それが昨年の初夏ついに実現し、彼女は私とは逆に北米から南下するルートで出発した。彼女とは南米のどこかで落ち合おうということになっていたんだけど、あっこさんの親友の結婚式のため彼女が一時帰国したことでその計画は一時お預けになっていた。彼女は一時帰国後アジアに一旦飛んで数カ国を旅し、そのあととってかえしてまたロスに来たところで、やっと初めて会えることになったのだった。


田口あっこさんと
 一度はシモンがダウンタウンにある彼女の宿まで連れていってくれてデニーズで3時間ほどおしゃべりを楽しんだ。メールを交換していたこともあったし、お互いに旅の経過をホームページで読んで知っていたせいもあって初めて会ったとは思えないぐらい話しがはずんだ。それでは話し足りなかったので2日後にもう一度バスに乗って彼女の宿を訊ね、日本人街をうろうろしながらまたこれからとかこれまでの旅の話しなんかをして時を過ごした。あっこさんはこのあとアルゼンチンに飛び、そこから一気に南米最南端のウシュワイアまで飛んで、南極ツアーの船に乗るのだ。

 またある日は以前同じ職場でお世話になっていたひとたちにも会うことができた。直接同じ会社の同僚というわけではないんだけど、私が勤めていた会社と繋がりの深かった会社のひとたちだ。私の知っているひとのうち2人までがロサンゼルス支部に転勤になっていて「ロスに来るならぜひゴハンでも」と誘ってくださったのだった。片方の岸田さんは私が出発するときはまだ同じチームにいて送別会をひらいてくださった本人だったのが、ここで再会することになろうとはほんとに予想外だった。


山室さん一家、岸田さん夫妻と
 またもうひとかた山室さんはもう数年前からアメリカに転勤になっていて、夏休みに同僚と旅行に来たときに、当時シリコンバレーのへんにあった支部やおうちにお邪魔したことがある。そのときはご夫婦ふたりだったのにいつのまにかお子さんが生まれていてすっかり大きくなっていた。山室さんと岸田さんは私を純和風のお寿司やさんに招待してくださって、どちらも奥さん連れ、山室さんはお子さんも連れて来てくださった。どちらの奥さんも前にお目にかかっているのでただもう懐かしくこんなふうに再会できたことが嬉しくて時のたつのも忘れた。

 シモンの家にいる間にノアにメールを書いた。ノアは筆無精なひとで、アフリカから南米まで私はしばしばメールを書き続けてきたんだけど2回に1回しか返事をよこさない。実は中米からも一度メールして「もうすぐ行くからね」って言っておいたのに返事がなかった。「あんたもしかして私のこと嫌いなんじゃないの」となかば本気で心配しながらもヨルダンで別れたときの約束を思い出し、重ねてメールを書いた。「どうしても急かさないとメールよこさないみたいだね!」って書き送ったらこんどは返事がきた。冒頭から「僕はこう見えてもそうとうな悪人なんでメールなんか書かないよ」ときた。だけどつづいて「間違いなくサンフランシスコには来るようにね!もうすぐ会えると思うと待ちきれないよ!君が居たいだけいていいからね!最近すごい寒いけど服ならいくらでも貸してあげる。友だちから車が借りられたら空港まで迎えに行くからね」と書いてあった。そうこなくっちゃあ!

 さらにもうひとり。私がアメリカにいる間にどうしても会いたいと思っていた友だちがいた。それは大学時代の友人で、名はジェイソン。私がはじめて友だちになったアメリカ人だ。最後に会ったのは私が同僚とドライブ旅行に来たときのことだから、4年半前。彼は1年半ほど前からアリゾナのビジネススクールに行っていて、アリゾナに移動してから間もなく新しいメールアドレスと住所をおくってくれたんだけど、これが前のパソコンにしか入っていなかった。つまり、アルゼンチンで盗まれたときに連絡先がわからなくなってしまったのだ。そのうち彼のほうからメールが来るだろうと思っていたらこんどは私がずっと使っていたフォワーディングサービス(メールを転送するサービス)がおかしくなってむこうからも連絡がつかなくなってしまった。

 私は記憶をたよりにYahoo.comで彼の学校を探し、事務局あてにメールを送った。私の記憶では彼は去年あたり卒業すると言っていたようだったから「卒業生に心当たりは」と書いておくったんだけど、そしたら彼はまだ在学していたようで、事務局は彼にメールを転送してくれたらしい。1週間もしないうちに彼からメールが来た。彼はいま卒業を目前にしていてとっても忙しいんだけど、私が来てるならどっかで会えるようにしたいな、と書いてくれ、ちなみに2月の中旬にサンフランシスコに就職フェアで行くことになってる、と結んでいた。それだ!その時期に合わせて私がサンフランシスコに行けばジェイソンに会えるってことでしょ?

 私はすぐさまノアに返信して、前回につづいてアラスカ航空のwebスペシャルで往復86ドルという、バスより安いチケットでサンフランシスコ行きの往復を予約した。
 そういうわけでアメリカでの私の旅程はこんな感じになった。

1月末 アメリカ入国
  • もと同僚宅訪問
  • あっこさんと会う
  • もと提携会社の山室さん・岸田さんと会う
  • 2月上旬
  • サッコ・ラフィと再会
  • 2月中旬 サンフランシスコへ
  • ノアと再会
  • ジェイソンと再会
  • 2月下旬 ロスへ一旦もどる
    ユージーン(オレゴン)へ
  • シンシアと再会
  • 3月中旬 ロスへ戻る
    帰国

     ちなみに2月下旬のユージーンという場所はロスからみるとサンフランシスコのむこうにある。一旦ロスに戻るのはたいそうばかげたルートどりなんだけど、これにはワケがある。アメリカでは片道の割引チケットというのがほとんどないので往復の割引チケットを買うほうが片道より安いということが結構あるんだ。たとえば、

    【ロス】→【サンフランシスコ】→【ユージーン】→【ロス】

    という片道を3つ買うとだいたい600ドルぐらいかかるんだけど、往復チケットだと各航空会社でかなりの割引プランがあって、

    【ロス】→【サンフランシスコ】→【ロス】
    【ロス】→【ユージーン】→【ロス】

    と2つに分けて往復を買うと合計だいたい300ドルぐらいで済む。時間に余裕があってお金がなくてマイレージをためたい私には一石二鳥。そういうわけでこういうスケジュールになった。


    シモンが飲みに連れていってくれたバー
     帰国ぎりぎりまで忙しかったシモンに晩ご飯つくったり、遅くから飲みにつれていってもらったりしながら数日が過ぎた。彼の帰国前日までシモンの宿にいて、最後の晩についにサッコたちのうちにお邪魔することになった。サッコんちは同じロサンゼルスの中とはいってもシモンの宿から車で一時間ばかりのグレンデールというところにある。グレンデールはアルメニア人が多く住むところなんだそうだ。数日前サッコに電話したらちょっと驚いた様子だったけど、いつでも来ていいよということだったのでシモンに送ってもらってお邪魔した。話しをしてみてなんでサッコが驚いていたのかがわかった。サッコはメールアカウントを持ってないんで私はサッコの友だちというひとのところにひっきりなしにメールを送っていたんだけど、どういうわけかその友だちからメールが来てるという知らせがなかったらしい。つまり私からサッコへの連絡はボリビアあたりからず〜っと前に送ったハガキが最後だったわけだ。当時の予定だと年末にはアメリカ入りするはずだったから、彼は私がもうとっくにアメリカを通過して帰ったもんだと思っていたらしい。

     さて私を送り届けてちょっとお茶を飲んだあとシモンは自分の宿に帰っていったんだけど、帰る間際ちょっとしたミスをやらかしていた。私があそびにきてからこの数日寝不足がつづいたせいかもしれない。かなり動揺していたようなんで心配だった。おまけにそのあと10日ちかく連絡がなかったんで、まさか高速で事故ってしんだか?と思ったけどそれは上記のとおり私のメールアカウントがおかしかったせいで、実は彼は無事帰国した連絡をもう送ってくれていたのだった。滞在中はずいぶん迷惑かけたと思っていたけどあっけらかんとした様子で日本に帰ってきたらメシくいに行こうと書いてあったのでともあれひと安心したのだった。

     さてサッコについては両親と暮らしているとは聞いていたんだけど、どういう家族構成か聞いていなかった。サッコにはお兄さんがひとり、弟が2人いて、お兄さんは結婚して別に住んでいる。この前ベルギーで会ったときはラフィが「俺は車のエンジニアだ」と言ってたのでてっきりサッコもそうだと思いこんでいたんだけど、実は違っていた。彼はちょっとデラックスなおうちにオーダーメードで豪華なキッチンキャビネットをつくって仕入れるという仕事をしていて、弟2人はサッコと一緒に仕事をしているんだそうだ。サッコのうちは寝室ひとつにキッチンと居間という小ぶりなつくりながら新しい快適なアパートの一室だった。ちなみにお父さんとお母さんはアルメニア語・東アルメニア語・アラブ語・トルコ語・クルド語など5カ国語を操るけど英語は喋れない。ただとてもにこやかで親しみやすいひとたちだということだけはわかった。

     サッコは40才で上の弟のラフィ(サッコと旅をしていたラフィとはもちろん別人)は私より少し年上。末の弟ベルジュは25だと言っていたから全員かなり歳が離れている。彼らは全員シリア生まれのシリア育ちだ。サッコが移住してきたのはもう十何年前のことで、当時は3ヶ月どこかの会社で働いて185ドル払えば永住権がもらえた時代だった。

     サッコは家族のなかで一番はじめにアメリカに来たのだそうだ。まだアルメニア人の知り合いが全然いなくて英語もわからないし、はじめは泊まるところもなくて道で寝たそうだ。そのうちに偶然アルメニア人と知り合い、そのひとたちの世話で仕事を見つけ3ヶ月たってアメリカ人になった。そのあとラフィがきて、それからご両親と上のお兄さんが来たのだそうだ。ご両親が来たとき末の弟ベルジュは兵役に行っていたらしい。兵役から戻ってきたときは21才を過ぎていたからもう扶養家族として認められず、彼ひとりだけがシリアに残ったのだという。その後ときどきあそびに来ていたりもしたんだけど、シリアパスポートだとなかなかビザがおりず家族に会うのも一苦労だったようだ。

     ところが今回お父さんが心臓病だからという理由でやっと許可がおりて会いにきていたらちょうどクリントン大統領が任期満了の置きみやげに「12月末現在アメリカにいるアメリカ市民の家族は1000ドルの手数料をもってアメリカ市民とする」とかいう法律にサインして去っていったらしい。彼らはシリアにひとり残してずっと気がかりになっていた末の弟をやっと迎えることができて心底ホッとしているところだった。

     サッコの家にお世話になっている間に一日ラフィんちにお邪魔した。ラフィんちはサッコんちよりもちょっと北西にある閑静な住宅街にあった。そのことも後日またきちんと書くとしてラフィんちに行ってなにより驚いたのはラフィが独り暮らしじゃなかったってことだ。誰と暮らしていたかって?それは・・・・ツマとコドモ。いつの間に結婚したんだ!と思ったら、実はこれがもう10年以上も前のことだそうだ。なんでも2年ほど前というからちょうど私と会った頃彼らはちょっと危機を迎えていたとかで別居していたとかいないとか。まあ今は奥さんとはうまくいっているらしくて私がお邪魔してもとりたててマズいこともなかったようなんだけれど、これにはマイッた。サッコは、
    「いやラフィは結婚してるって言ったはずだよ」
    というけど、いやぁ、そんな大事なことを聞き漏らすはずがない。
    「言わなかったよ」
    とラフィをとがめると、
    「コドモの写真見せたと思ったけどな」
    ととぼけている。これはヤラレタなぁ、と思ったのだった。


    左)上の子ヴィッキー、中)いとこ、右)下の子トゥルー
     ラフィんちにお邪魔してアルメニア教会のチャリティに顔を出したり親戚の家に夕食に招かれたりして週末が過ぎると、サッコのうちに戻ってあとは毎日グレンデール図書館に通った。図書館にはタダで使わせてくれるインターネットマシンが20台ぐらいあって1回につき1時間と決まっているけど一日に何回までという制限はない。事実上タダで一日中インターネットが使えるところだ。おまけにアクセススピードはきわめつけに速いしマシンがまた超新しくて速い。アメリカの公立図書館はたいがいインターネットの設備があるようだけれど、ここまで至れり尽くせりの図書館はそうないかもしれない。これというのもグレンデールが非常に豊かな家のひとの多い地域でかなり税収入で潤ってるかららしい。


    グレンデール図書館
     ひろびろとした閲覧席はソファ席と広いデスクにイスが何個かついているグループ席、それに個人ごとに囲いのついた個別デスク席にわかれていた。パソコンをひらいているひとも多い。最初電源をとろうと思って壁際の席を探していたんだけど、ほかのパソコン持参のひとを見ていて気づいた。ほとんど2m四方ごとに床に金属のフタがあってその下に電源がある・・・。とにかく便利にできるところはどこまでも便利になっている。グループ席のひとつ、広い窓から外の見えるところに座ってパソコンをひらいた。ときどき外を眺めると芝生に立っている大木の枝をリスが走り回り木のまだかたい新芽をあつめている。

     図書館の近くには吉野やがあって、台湾以来の実に20ヶ月ぶりに牛丼を食べた。こちらでは「ビーフボウル」と呼ばれてる。こちらのミニサイズがちょうど日本の「並」ぐらいだ。ジュースもつけて税金をいれて$4ぐらい。ツイこの間まで1食に2ドルかけるのは贅沢だと思っていた身にはツライ金額だ。馴れるのにまだしばらく時間がかかりそうだった。ちなみにこっちのビーフボウルは野菜つきのやつがあって、ブロッコリとカリフラワーとにんじんがはいってる。ほかにてりやきチキンボウルとかエビフライボウルなどもあった。調味料の台の上にはちゃんと紅生姜やキッコーマンのしょうゆがあった。南米にいた頃とっても高くて手がでなくて、あれほど貴重に思ったキッコーマンのしょうゆ。それが無造作に台の上に置かれている。距離はこれほど離れているのに、私はもう日本のすぐ隣にいるのだという実感をおぼえた。

     午後もしばらく図書館で過ごし、家に帰るとすぐサッコのママが、
    「ハングリー?」
    といって食事を用意してくれる。サッコの家にお世話になっているとほんとうにアルメニア料理づくしだ。ある日はママがゆうべつくったトマトの詰め物をあっためてくれた。トマトに肉と小麦だか米だかのつめものをして煮たやつで、ほかにピーマンとナスがある。アルメニア料理は概してとてもすっぱくて、つめものは梅肉のような味がした。とても手のこんだ料理だ。サッコはよく、
    「アルメニア料理はとても手がこんでいて難しいんだ」
    という。なるほど、たしかにめんどくさいだけのことはあって見た目もとてもファンシーだ。サッコの悩みは、現在アルメニア人の女性はこういうものをちっとも学ばないということだ。彼はいつかアルメニア料理は滅びてしまうんじゃないかと危惧しているらしい。

    * * *

     さてサッコんちに数日、ついにサンフランシスコを訪れる日がやってきた。フライトは夜7時半。バスでダウンタウンを経由して空港に向かう予定だったから、ちょっと早いとは思ったけど2時半くらいに家を出た。置いていく荷物をガレージにいれさせてもらって、ママとパパにキスしてサッコの家を出た。家からわずか5分のバス停で待っていたらほどなくバスがきた。ロサンゼルスの公共交通機関というのはとてもとても不便だ。私は図書館で界隈のバスの時刻表をもらっていたんだけど、ダウンタウンやハリウッド界隈をのぞけばほとんどの地域でバスの頻度は1時間に1〜2本。バスの料金箱は機械式で硬貨と紙幣をうけつけるけどお釣りが出ない・・・。この進んだ国でだよ!車を持てないひとたちのために走る公共のバスの料金箱がお釣りを出さないってことには、驚くというかあきれるというしかなかった。

     1.35ドルのチケットを買い、ダウンタウンまで。そこから地下鉄に乗り換えた。ものすごい深い駅だけどエスカレーターはこわれていた。 地下鉄で7th通りにあるメトロセンター駅についた。地上にあがってちょっと歩いたらLAX(ロサンゼルス国際空港)行きのバス停がある。ここで待とう、とふと顔をあげると、目の前にフライトセンターの店舗があった。店先が赤で統一されていて目立つつくりで、白地に太く黒で書かれたロゴは南アフリカのケープタウンでも見た。店先に航空券の料金が書いてあって日本行きの最安値が片道299ドル〜。そうだ、サンフランシスコに行って、ユージーンに行って、そしてロスに戻ってきたらもう日本に帰るんだ。私は店先にあったチラシを1枚、デイパックのポケットにつっこんだ。

     ほどなくバスがやって来た。バスは1時間ぐらいでLAXについた。100mほど歩くとLAXの無料シャトル乗り場がある。そこからアラスカ航空のターミナルまで10分ぐらいだったろうか。やはりたっぷり2時間はかかった。出発は7時半なのでチェックインまでにとりあえず1時間ぐらいは待たないといけない。それとももうチェックインはできるんだろうか。ふと、アラスカ航空のターミナルの出発便モニターでサンフランシスコ行きを確認ディレイ(遅延)になっている。ベンチに腰掛けて6時半まで待った。またモニターを見たら出発は8時半になっていた。

     当初の予定どおりにノアが迎えにきてくれてたら申し訳ない。サンフランシスコに電話することにした。電話の前に立って深呼吸。ノアの携帯の番号にかけたら、留守電につながった。留守電のメッセージは聴いたことないような高い声。ああ、ノアってこんな声だったんだっけ。飛行機が遅れるみたい、とメッセージをいれて電話をきった。電話にはあたりまえのようにモバイルアクセス用のジャックがついている。

     6時半になった。これ以上チェックインカウンターの前に座っているのも退屈なのでもうチェックインしてしまうことにした。チケットでは出発は7時半のままになっている。階段をあがって荷物検査をうけ、待合室に行った。荷物検査のときにチケットは確認しないみたいだ。ということは、出発が何時だろうがもう待合室に行ってしまっていてよかったということか。日本でほとんど国内線に乗ったことないので普通こういうものなのかわからないけど、アラスカ航空なんかは待合室にも自動チェックイン機がある。これまで国際線ばかり使ってきて、
    「チェックイン→出国審査→荷物検査→待合室」
    という手順に馴れた私にはちょっと不思議な段取りだ。おみやげやと本屋をうろうろして待合室でまたモニターをみたらこんどは出発が9時10分になっている。またノアに電話した。留守電に「さらに遅れるみたい。今日中に車を返さないといけないようだったら心配しないで、シャトルで行けるから」とメッセージをのこした。

     天候のせいなのかほかの便も遅れているらしく待合室のなかはほぼ満席のひとであふれていた。待合室の一隅には合計で8台ぐらいの無料インターネットマシンがあった。私の胸ほどの高さの柱のようなもののフタを2枚ほど縦横にひらくとキーボードが現れ、ディスプレイが中に設置されている。シアトル行きの待ち客が多かったのでなかなかあかなかったけど、私の目の前のマシンがあいたのでおもむろにその席に陣取った。


    無料のインターネット専用機
     まず最初に使い方の説明があって、そのあとに6つか8つぐらいのコマーシャルサイトを選択するボタンが現れる。コマーシャルを見るのと交換条件にインターネットが使えるという仕組みだ。どこのサイトを選んでもいいんだけど、15秒間はCMが流れてるかなにかしてそのサイトから出ることができない。でも15秒たつとあとは10分間無料で自由にインターネットが利用できる。10分でたりなければ「時間追加」のボタンを押すとさっきと同じCM選択画面に戻り、CMを見れば10分ずつ、いくらでも追加していくことができる。

     CMはインターネットで注文できる花やのサイトとか通信販売のサイトなどいろいろだ。なかにはe-mailならぬe-カードを送れるコーナーがあって、これなんかは友だちにカード書いてるあいだもCMを見ている時間にカウントされるので、もうほんとに交換条件なしでタダでインターネットを使ってると言って差し支えない。難をいうとすれば日本語フォントがダウンロードできないとか、ウィンドウが複数立ち上げられないということもあるけど、アクセス速度は速いし、飛行機の待ち時間をつぶすのにこれほど気の利いた設備はないなあと思いながら私は1時間半はそこに居座っていたと思う。

     さて9時半ちかくなってシアトル行きは出発していったので待合室はだいぶすいた。しかしサンフランシスコ行きはまだ出ない。飛行機そのものが来ていないらしくカウンターで訊ねたら「たぶん9時半ごろにはつくと思うんだけど・・・」という曖昧なこたえ。なんでも天候のせいでほかの飛行場に着陸していまそっちから飛んでくるところだとか言われたように思ったけど、そんなことってあるのかなあ?ノアにまた電話したら、うしろで誰かの話し声がした。まだ家にいるらしい。
    「ハロー」
    っていったら、
    「誰だ!who's there!
    って言われた。いたずらそうな、ノアの言い方。
    「留守電のメッセージ聴いた?飛行機また遅れちゃったの」
    と言ったら、
    「なんだよヌーサン、来たくないの?Hey Noosan, you don' wanna come!?
    ときかれてうっかり、
    「No!」
    と言っちゃった。そんなことないよ、と言うつもりだったんだけど英語だとここで「No」と言ったら「行きたくない」の意味だ。ノアは気がついてアハハと笑い、
    「大丈夫だよ僕はちゃんと迎えにいくからね。電話してくれてありがとう。でもこちらからも航空会社に電話してたしかめてるから大丈夫」
    と言われた。とにかくあと1時間後にはノアに会えるんだ。

     電話から戻ると飛行機が到着してたらしくやっとスチュワーデスがのりこんでいった。それを見て待ちくたびれてた誰かがヤホ〜イと歓声をあげた。10時くらいに乗り込み、やがて飛行機は離陸した。機内ではいちどナッツとジュースのサービスがまわってきただけだった。おなかがすいたのでデイパックをさぐったら、先日お寿司に行ったときに岸田さんの奥さんのそのこさんからもらった季節限定のチョコボールが出てきた。チョコボールをかじって飢えをしのいだ。

     ぼうっとしているうちに飛行機のおりる感覚がしてきて、やがてサンフランシスコの街の明かりが見えてきた。とてもキレイだ。サンフランシスコの空港は羽田と同じように着陸寸前まで海だ。どこだ、どこに滑走路があるんだ!?ドキドキしていたけど、海につっこむ!と見えた直後、海に張り出した滑走路に無事着陸した。前の席のひとたちが荷物をおろすのをやきもきしながら待つ。飛行機から出た。ターミナルからのびる廊下を歩いて、待合室についたら抱き合ってるひとたちがいる。迎え客がここまで来てるっていうこと?=ノアもここらへんにいるっていうこと?

     見回すとベンチの向こう、広い通路にノアがたっていた。私は一歩一歩ノアに近づき、ノアの広い胸にとびこんでぎゅっと顔をうずめた。グレーのフェルトみたいなジャケットによたよたのジーンズ、Tシャツの上に赤茶っぽいセーター、くりくりの髪。もっとぴしっとした格好してるのかと思ったけど全然かわってなかった。荷物をひきあげに行くまでにノアが、
    「ヌーサン、今日はどんな動物を食べたいの?」
    と訊ねた。ノアはベジタリアンなんでメールではいつも私の食欲と好奇心をひやかしていた。私が「ラクダを食べてみたい」って言ったり「象を食べたってひとに会った」とか書くたびに「gros!!(気持ちわるい!)」とか「disgusting!!(サイアク!)」なんてコメントを送ってきたし、ガラパゴスに行く、と言ったら
    「ガラパゴスの動物は食べないでよ!保護されてるんだから!」
    なんて書いてきたり。それで今日も「どんな動物を食べたいの」ときたわけだ。ノアのアフリカ旅行の話しを思い出して、
    「ノア、でも私はバッタを生で食べたことはないよ」
    というと、ノアが
    「バッタじゃないよあれは羽根アリ」
    などと反論して、まわりのひとの静かな視線をあびながら私たちは駐車場への通路を歩いた。

     ノアがあまりかわってないので、
    「ノア、アメリカにいても思ったほど洗練されてないねえ」
    と言ったらノアが、
    「どういうのを期待してたの!」
    とききかえしたので、
    「背広着てたりとか、髪をきちっとしてたりとか」
    というと、
    「僕のどこが不満なの」
    とノアは笑った。

     空港のなかはあったかだったけど駐車場までおりると外の寒さが感じられた。今日は雨なので余計だろう。ノアが借りてきてくれた車に乗って、ダッシュボードにのってたゴムのカエルを手にとったとたんに足をひきちぎってしまった。私どうも少し緊張しているみたい。彼はこの車を1週間の約束で友だちから借りて今週中ずっと乗り回していたらしくて、もうすでに2枚も切符きられちゃった、と言っていた。

     この話題はきっと出るだろうなと予想してたけど、車のなかで、
    「キムと連絡とってる?」
    と聞かれたときにはちょっとドキっとした。キムから「彼女ができた」というメールをもらったときはとてもショックだったけど、私たちはその後も互いの関係にはそしらぬ振りをして、不思議と一度もとぎれることなく連絡をとりつづけていた。ただそれはそれだけのことで、私は旅の日々を書き送っているにすぎなかったし、彼は大学での日々を書きつづってくるにすぎなかった。・・・だけど、ノアが訊いたのは連絡とってるかってことで、とくに深い意味はないんだから普通に答えればいいんだ。
    「とってるよ、今でも1週間か2週間に1回メールくれるよ」
    とこたえた。ノアはキムにクリスマスカード書くといってたのに結局書くの忘れちゃったらしい。
    「キムはどうしてるの?どこにいるの?」
    というから、
    「コペンハーゲンにいるよ。年末はたぶん彼女と一緒にドイツに行くとかって言ってたけどそのあとすぐ試験だって言ってたからすぐ帰ったんじゃない?」
    と言った。ノアはふーん、と言っただけで、「彼女」については何もつっこみをいれなかった。

     そのあとも、エジプトでは結局どこに泊まってたの?とか、もうどのぐらい旅してるんだっけ?とかつもる話をしていたらノアの家のあるハートフォード通りについた。ノアの家は3階建てのアパートの1階で、家族用の広いアパートをほかのひととシェアして住んでいる。上の階のひとたちとも行き来があるんで顔見知りはだいたい20人ぐらい、と言っていた。同じ階にいるひとは私をいれると7人になるそうだ。家の前に車をとめて中にはいるときにちょうどノアの電話が鳴った。同じ階の女の子からだった。今日はエドというひとの32才の誕生日パーティだったらしくてその後かたづけをしていて起きてたみたいだ。ノアは「いまもう家の前だから」と言って電話を切った。

     アパートは古そうだったけど内部はきれいに塗装されている。それぞれの階には、それぞれ別の階段があるらしくて入り口は正面に3つ。ひとつは1階、ひとつは2階、ひとつは3階に通じている。1階は入ってすぐ廊下で、左にテレビのある居間、右にカスの寝室、左にクレスタの寝室、右にうさぎ部屋、左にニナとマットの寝室、右に共同のバス、トイレ、右つきあたりがナンシーの寝室、左にすこし折れてダイニング、左手にキッチン、右奥がノアの寝室だった。

     さっきの電話の女の子はクレスタで、ダイニングで私たちを待っていた。すごく話しやすい感じのいいひとでことばも聞き取りやすい。そのあとニナというひととも顔をあわせた。このひとはとてもオリエンタルな感じのひとだなと思ったらチャイニーズとのハーフだということだった。ニナは大柄で坊主がりのマットというひとと結婚してるらしい。クレスタはうさぎの部屋でうさぎを飼っている。大きな白黒グレーのタレみみうさぎのほかに小さい白いタレみみうさぎがいるなと思いながら前を通ったけど白いほうはぬいぐるみだった。それに気づいたのは翌日のことだ。

     もうだいぶ遅いのでシリアルだけ食べてもう寝ることにした。歯を磨いてるときにノアのTシャツ姿を見て、
    「ノアちょっとふとったね」
    といったら、
    「そりゃないだろ? It's not nice to say?
    と言われた。ちょっとハナとか頬がふっくらとしておなかが少し出てるみたいなんだけど・・・。でも中東にいたとき、
    「見てよ僕こんなに痩せちゃってさあ」
    と言っていたのを思い出した。これが通常の状態なのかもしれない。


    ノアんち
     車でくる途中ノアが、
    「僕はポーチ(ベランダ)に住んでるんだ」
    といっていたけどそれはほんとで、庭に出るためのちょっとした物置みたいなスペースがノアの部屋だった。窓があって外とは仕切られてるしちゃんとした部屋ではあるけど、実際ノアの部屋の入り口の鍵はダイニング側から開け閉めするようになっていてノアの部屋の中からはかけられないという不思議な鍵だった。ノアは仕事に行ってる間や出かけてる間ドアをあけっぱなしにしていくみたいなんで、この家はよほど信頼できるひとたちが住んでるんだろうってことが想像できた。

     ちょっとした物置みたいな、と書いたけど、ノアの部屋は実際には結構な広さがある。8畳くらいの広さをL字型にした部分と、50cmぐらい段差があって高くなってる6畳ぐらいのスペースがあって、ほとんど2部屋といっても差し支えない広さだった。ノアのベッドは高くなってる6畳のほうにあり、その足下に、一見とってもタタミに近いゴザがしいてあった。部屋の隅には行灯ふうのランプが2つある。
    「これタタメでしょ」
    とノアが言うので、
    「タタミ。ん〜、ゴザかな」
    と教えた。ノアはゴザの上に配置してあった電気ストーブをつけた。このまえメールしたときは「うちの部屋暖房がないんだ」と書いてあったけど、私が来るのでわざわざ買ってくれたのかもしれない。ストーブのおかげで少しだけあったかくなった。


    ノアの部屋。散らかっているのは私のもの
     部屋の低くなってる側にはマットをまるめたソファみたいなものとスノコ、オーディオ、それから海賊が盗ってきた宝箱みたいな大きな木箱や本棚があった。ベッドのあるほうの天井には白い生地が不思議な形ではりめぐらしてあり、その上に点滅する電飾が這っている。部屋の一隅には赤いライト。映写機みたいなものもあって、反対側の壁に幾何学模様を映写するようになっている。映写機の真上にミラーボールもぶらさがっている。ゴザに行灯にミラーボール・・・・。ノアの実家はコネチカットでNYからも近く、彼は都会っこだという自負がある。東京育ちの私にはちっともわからないんだけど、もしかしてこれって都会的なセンスなんだろうか。
    「ノア。この部屋のセンス、なんか変」
    というと、
    「クールっていって」
    と言う。
    「ノアのセンスはわからない」
    と答えたら、
    「なぁんだよさっきから!太っただのセンス悪いだのって、久しぶりに会っていう言葉?」
    とノアは言って笑った。さっき会ったばかりのときの緊張は消え、中東で一緒にいたとき以来の調子が戻っていた。

     ノアの部屋でノアは自分のベッドを私に貸してくれ、ソファがわりにしていたマットをひろげてそのうえに寝袋を出して自分はそっちで寝るといった。
    「ノアは働いてるんだからぐっすり寝られるようにちゃんとベッドで寝てよ」
    と遠慮したら、
    「いやこの寝袋は冬用ですごいあったかいし寝なれてるからいいんだよ」
    といってノアはそそくさと寝袋にはいってしまった。そこで私はノアの広いベッドに寝させてもらうことにした。電気を消すとすぐにノアの寝息が聞こえた。もう2時をすぎていた。雨の音がきこえる。・・・さあ、明日から何をしようかな。