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サンフランシスコ最後の日 |
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出かけようとしていたら、ちょうどノアが仕事から帰ってきた。 「ああ、いまから行くの?」 と声をかけられ、 「うん」 と返事した。 「4年ぶりだっけ?」 「そう。いや。4年半」 自分の声がやけにリキんでいるのがわかる。靴のヒモを結びなおしてドアをひっぱった。あかない。 「ヌーサンこのドアを開けたいなら押したほうがいいよ」 とノアがつっこむ。 「そんなに緊張すんなって」 とみんなが言ってくれたけどこれが緊張せずにいられるかってんだ。歩き慣れたカストロ通りもなんだかいつもと違って見える。マリオットホテルにマル印のついた地図を片手ににぎりしめ、地下鉄にとびのった。ほんの数分で電車はサンフランシスコのダウンタウンに到着する。パウエル駅でドアを出て、エスカレーターで地上に出る。気持ちがあせって小走りになっている。緊張するのもムリはないんだ。なにせ4年半ぶりにジェイソンに会いにいくのだから。
ジェイソンは私がはじめて友達になったアメリカ人だ、というのは前に書いたっけ。
ちょっと話しが前後するんだけど、当時私はちょっと手痛い失恋でアメリカに対して心を閉ざしている状態だった。当時私は大学3年。2年生のときからつきあっていた1コ下のサークルの後輩が、アメリカ旅行に行って失踪したばかりだった。最後の手紙によれば、韓国から来ている、とある宗教団体に勧誘され、のこのこワークショップまでついていってマインドコントロールにはまったらしかった。彼の好奇心を恨み、彼自身をを恨み、さらには宗教を恨んだり、韓国を恨んだり、いろいろ恨んだうちの一環として、私はアメリカという巨大な国までその憎しみの対象にしていたようだった。
最初ジェイソンと知り合ったときはそういう状態だったので別に「あのアメリカからきたひとか」ぐらいの意識しかなかった。利己的で個人主義で冷たくて高慢なんだろう、といった印象だ。だけど、顔をあわせるうちにジェイソンが私のイメージにあるアメリカ人とはちと違うことに気づいた。そんとき私のイメージにあったアメリカ人像というのが根本的に間違ってる、ということがわかるのはまだそれから数年後のことだけど、たとえ私が当時から正しい(ゆがんでない)アメリカ人像を持っていたとしても、ジェイソンはそこからさらにちょっと日本よりのアメリカ人だったと思う。情が厚く、納豆が好きで、野球よりはサッカーが好き。自分は人一倍努力家なのに、日本人学生のだらだらした学生生活を批判するでもなし。溶け込もうとしてやってるふうでもないのに、なにやら自然に溶け込んでいた。一緒にギター弾いたり唄ったりしてるうちに友達になって、たまに英語の教材選ぶのを手伝ってもらったり、ジェイソンのレポートを手伝ったりするようになった。ジェイソンと喋っていて「あ、やっぱりガイジン」と思うことは全然なかった。ジェイソンは、私の頭のなかでいつも日本人として位置づけられていた。
ジェイソンは一年の留学を終えて夏に帰っていったけど、その後もときどき手紙のやりとりをした。アメリカに戻ってからの生活はどうだとか、私の就職活動はこんな調子、とか。私はたまに英語で書いて、ジェイソンに採点してもらったりもしていたと思う。そうするうちに就職先が決まり、卒論が終わって最後の春休み。私は卒業旅行にアメリカに行くことにした。かたくるしいことを言えば、「就職のため。ソフトの技術はみんなアメリカから流れてくる。この業界でアメリカに心を閉ざしていては仕事にならない」と考えたというのがひとつ。でも正直なところを言えば、単に好奇心がまさったといったとこだろうか。
当時バックパック旅行を知らなかった私は友人とレンタカーを借りて西海岸めぐり、というリッチな旅の計画をたてた。だけど現地での段取りにあれこれ不安もある。ジェイソンに手紙を書いていろいろ聞いたりしてたら、「まずはうちにおいで」と言ってくれた。ジェイソンは空港まで迎えにきてくれ、私と友人をロングビーチにある自宅に連れていってくれた。ロングビーチといえば、けっこうなお金持ちの住む地域だ。ジェイソンちは地下室もいれると5階建てで、ビリヤード台まであった。バスルームは全階あわせて5つ。デパートじゃないよ個人の家だよ。おまけにメイド部屋もある。メイドさんはヒスパニック系のひとで英語が通じないけどジェイソンは中学高校でスペイン語をやってたので、メイドさんになにか頼むときはスペイン語で話していた。
ジェイソンは当時日本人の彼女とつきあっていて、その彼女が訪ねてきたりしてたそうで、ジェイソンのご家族は日本人の客にもなれたもんだった。ジェイソンはサンタモニカやベニスビーチや、バスケットの試合などに連れていってくれ、彼の大学の寮に泊めてくれ、学生同士のパーティに連れていき、友達の家に連れていき、授業にも参加させてくれた。当時はいまの半分も英語が話せなかった私にとって、日本語ぺらぺらのジェイソンの存在は心強かった。ジェイソンは私たちの旅行プランにも力を貸してくれ、私たちは3週間の旅行のあいだに砂漠から山をへて海まで、何一つトラブルなく旅をすることができたのだった。
初めてみるアメリカは、テレビを通してみる姿とは全く違っていた。広大で、色鮮やかで、便利で、快適で、安いし安全だし、第一親しみやすかった。私は180度見方がかわり、すっかりアメリカの虜になって日本に戻った。思えばジェイソンは私が旅好きになったのと大いに関係のある人物かもしれない。
ただ、それからの数年、私にとって「旅」=「アメリカ」でしかなかった。社会人になって数年後には会社の友達同士でまた西海岸ドライブ旅行に行き、翌年は4人でまた同じあたりを旅した。そのどちらともジェイソンには連絡をとり、1日ずつだけど会って食事に行った。3回目のアメリカ旅行でジェイソンとは最終日、空港近くのホテルのロビーで待ち合わせをした。ジェイソンは車でやってきて、駐車場側の入り口からはいってきて、受付の前に立ってる私と目が合った。1年ぶりの再会だったから、アメリカ人同士だったら肩を抱き合って挨拶するところだろう。そういう挨拶をしてみたい、という気持ちはあった。もしできたらいいな、とその日は朝から思っていた。けど、実際にジェイソンと顔を会わせたら足がすくんで動かなかった。結局2,3歩近づいて、握手するのがせいいっぱいだった。
ところでこの頃私は仕事の都合上、英語でインド人技術者とメールをやりとりしたりしていたので、英語を伸ばすことがちょっとしたマイブームになっていた。TOEICも受けたりして、想像してたよりはだいぶいい点をとったりして、自分なりにそこそこ伸びたというつもりもあった。それで、ジェイソンと会ったときも英語で話そうとしてみたけれど、どうにも通じない。ジェイソンの発音は実に単語同士がよくくっついて流れるようで、何を言ってるのかまるで聞き取れなかった。私にとって、ジェイソンと英語で話す、というのは長年の夢のひとつだった。
そのジェイソンと今日ついに会う。ジェイソンはさっきまでマリオットホテルで開催されてた就職フェアに参加しているはずだった。地下鉄のドアがひらき、階段をのぼって駅を出る。道行くひとのなかにスーツ着た日本人が異常に多いのは、この就職フェアにたくさんの日系企業が参加しているからだろう。「どこか食べにいきますか」「いや明日が本命なんで」という日本語の会話が断片的に耳の横を通り過ぎていく。私はいかにも場違いな、ノアから借りてるオリーブ色のだぶだぶジャケットを着たままマリオットの回転ドアを抜けた。
とたんにひとの多さと、暖房でむっとする空気につつまれた。やわらかいオレンジ系の照明のロビーをぐるりと見渡した。待ち合わせしたのは受付の前。さっと手を挙げたスーツ姿。ジェイソンだ。数年ぶりなのにすぐにわかった。心の中で、ちょっとだけど緊張がはしる。
・・・数年ぶりに会ったジェイソンはすっかりビジネスマンらしく(といってもしばらく学生をやっていたのでビジネスマンらしく、というのは妥当じゃないかもしれないけど)見た目もたくましく男らしくなっていた。ジェイソンは前回会ったときには大阪に本社のあるの日本企業に勤めていた。それが、しばらくたってから会社をやめてご両親の会社を手伝うようになったけれど、そこでの仕事に満足できなくなり、アリゾナのビジネススクールに1年半行って、MBAという資格をとったそうだ。そして日本語と留学経験を武器にしてこのほど日系企業にアプローチしようとしてこの就職フェアに参加することにしたらしい。だけどナマの日本語に触れる機会が少なかったためだろうか、ジェイソンは少し日本語が不自由になったみたいだった。
同じビジネススクールから、日本人のノリコさんというひとも来ているというので、彼女と待ち合わせして一緒に中華街に晩ご飯を食べることにした。ジェイソンは、むかしは自分のこと「僕」と呼んだのに、「私」と呼ぶようになっていた。ジェイソンが日本語に不自由してるのを見るのはちょっと不思議な感じだった。それと同時に、話し方が少し他人行儀になってるのがもどかしくなって私は英語で話しはじめた。
まもなくノリコさんと合流してチャイナタウンに夕食に行くことになった。自己紹介したり雑談したりしながら私たちはチャイナタウンの一軒のレストランにはいった。ノリコさんというのは、もう、ひとめ見て「デキる女性!」って感じだった。いや、そういう能あるところをひけらかした印象じゃなくて、「できた女性」と言うべきだろうか。会話もうまいし、物腰がやわらかだし、心遣いがこまやかで、気取ったところもない。私と年齢はほぼ同じで、以前はたしか銀座のへんで大手の、商社だったか金融だったかで総合職とかでばりばり働いていたんだそうだ。だけど働くうちに日本ではまだ女性の地位はひくく、職場でまかされる仕事についても納得がいかなくなってきた。それで彼女は、それまでの便利で高給で快適な生活をすべて捨てて日本を飛び出し、アメリカでもういちどチャレンジするべくアリゾナのビジネススクールを目指したのだそうだ。アメリカで1年も学んで、現地のひとと同じ講義をうけて対等にやっていけるわけだから当然といえば当然だけど、ノリコさんの英語はほんとにパーフェクトで見事だった。私がうまく説明できないところはノリコさんが英訳してジェイソンに話してくれ、ジェイソンがうまくはなせないところはノリコさんが通訳して私に教えてくれて会話もはずんだ。
プログラマとして働いていた頃、私に誇りはあんまりなかった。会社も環境もとてもよかったし、会社にいくことがつらいと思わなかったのは人間関係に恵まれていたからだけど、自己紹介をするとき「プログラマです」とか言うことにはいつもうしろめたさがつきまとった。仕事は困難で、立ち向かおうとするたびに迷路にまよいこみ、何に立ちむかったらいいのかわからない。最後にはどうやって迷路から抜け出すかってことばかり考えていた。私にとって、仕事っていうものの印象はどっちかというと憂鬱で途方に暮れてしまうもの、だった。だけど、サンフランシスコに来てから私の仕事に対する印象はかなり矯正された。それは、ノアのアパートにいるニナの気楽な態度を見ていてもそうだし、ノアについてもそうだった。
ノアの就職についてはまだ触れてなかったけど、あれは南米にいたときだったろうか、ノアが、
「それが最後まできいたら4万ドル(fourty thousand dollars)だって言うじゃない。前見た映画の主人公を思いだしたね!コーヒー会社に就職が決まるときにさ、相手が百万ドルとかのすっごい金額を提示しようとしてるんだけど、その前に『系列店でのコーヒー生涯無料と・・・』って言うんだ。主人公はそれだけで喜んじゃって『手を打った!(deal!)』って言っちゃうの。
「6年もプログラマやったんだったら絶対それが役にたつことがありますよ〜。どうしてもプログラマをまたやらなければいけないってわけじゃないんだし」 と明るいはきはきした声で励ましてくれて、なんだかすっかりその気になった。私たちは2時間だか3時間だか話していたあいだに4年半のブランクをうめ、ノリコさんともすっかりうちとけ、ビールのほろよいも手伝って上機嫌で店を出た。
私は、ノリコさんていうのはジェイソンの彼女なのかと思っていたけどそういうわけではないらしい。ただよく話したりはする間柄のようで、中心街へのみちみちお互いに、
翌朝はサンフランシスコでの最終日だった。ノアが
徒歩で家の近くの緑地を歩いてレストランBoogalooまで行った。緑地からは高層ビル群がみわたせて美しい。夏にはここの緑地の土手状になったところに半裸のゲイ男性たちが日光浴に訪れ、ずらりとスキマなく横たわるで壮観なんだそうだ。レストランにつくと店はいっぱいで、店の前にもたくさんのひとたちが並んでいた。ここは地元のひとたちに人気で、土日になると夕方まで「朝食」をとりにきたひとたちでにぎわうんだそうだ。席待ちリストに名前を書いたあとノアは
店の窓は外から見えないように白い紙でカバーがされていたけどなかは明るくふつうの雑貨店のようだ。休日の朝っぱらからかなりにぎわっている。ただし男性はノアのほかにはひとりかふたりしかいなくて、女性同士のカップルで来ているひともいる。ある棚にはモロにオトナのおもちゃです〜っといった道具類もあるし、ファンシーな入れ物の香水(潤滑剤?)なんかもあれこれ置いてあった。ノアはくっついてまわって「これは香りを試してもいいやつだよ」とか世話を焼いてくれるのでちょっとはずかしい。でも考えてみると一応「女性むけ」という店だし、ノア自身が居心地悪かったのかもしれない。ある棚には日本のロリコンマンガが完全に英訳されておいてあったし、意外にごくふつうの本みたいなものや、健康マッサージのハウツー本、人種別の写真集やエロビデオなんかも置いてあった。
店を出てレストランに行く途中、さっきのオトナのおもちゃやさんにいた男の人がでっかい紙包みを抱えて前のほうを歩いていた。
さっきのレストランにつくと同時に私たちの名前が呼ばれた。席に通されて私はほうれんそうとチキンとブルーチーズのオムレツにコーンマフィンとコーヒーをたのんだ。料理が来るまでのあいだおしゃべりしていて、ジェイソンA(ノアの友だちのジェイソン)はノアを通じてナンシーとつきあいはじめたということを知った。ノアとジェイソンAは10才ぐらいんときからの友だちなんだそうだ。ノアはもともと、住んでるとこの友だちと、外で知り合う友だちを分けるほうで、ジェイソンAはいつも外の友だちをつくりに行くときの仲間だった。
おなかいっぱいになったあと地下鉄でダウンタウンに行った。雨になってて、外を出あるく天気じゃなくなっていたのでソニーの複合映画館ビル「メイトリアム」に行き、トムハンクスの映画「Cast Away」のチケットを買った。映画の上映時間までのあいだに、明日の朝の空港行きのシャトルバスを予約し、無料の3D映画を見たり、アーケードでプリクラを撮ったりした。ほどなく映画の時間になり、映画館の席についた。映画の料金は今までいたどの国よりも高くて9ドルぐらいしたけれど、それでも日本に比べれば40%も安い。席はおおきくてふっかりと分厚く、少しだけゆりかごのようにスィングしておしりの重心を移動できるようになっていた。
さてここで観た映画「Cast Away」は、日本ではなんていうタイトルになっていたか知らないけど、無人島に置き去りにされたまま年月をすごした男の話だった。そういう話なので全編通じて会話が少ない。ノアが会話の少ないストーリーを選んでくれた、のだと思う。そのせいもあったかもしれないけど、ストーリーについていくのはあまり難しくなくて、しかもたまにあった会話でもわからないところがほとんどなくて、自分でもちょっとおどろいた。これまで、ひととの会話にはいっていこうとしてわからないから後込みしていたのはいったいなんだったんだろう?もしかしたら、私は「わかるはずないや」っていうフタで自分の心の扉を閉じて、ほんとならわかるはずのことにも耳をふさいでいたのかもしれない、と思ったのだった。
映画が終わり、サンフランシスコで心残りのないように少し街をうろついて、新バージョンのスウォッチを買って、Beavis&Butt-head(数年前に流行ったMTVのアニメのキャラクター)のビデオを買って、ロスのサッコとラフィへのお土産にワインを買って、それからノアの家に戻った。もうすっかり日が暮れていた。晩ご飯はノアが用意してくれた。ゆでたポテトをつぶしてバターをまぜこんだマッシュポテトに、ニンニクバターでいためたブロッコリー。しょうゆとタマネギで照り煮にした鮫の切り身に、インスタントみそ汁。夕食をとりながら、今日の映画について喋り、夕食後の片づけは私がやった。
片づけが終わるとノアはもう寝る支度をはじめていた。私は荷物をだいたいパッキングしたあとパソコンをひっぱりだし、メールを受信した。いくつかのメールのなかにキムからメールがはいっていることに気づいた。上から順に読んで、最後にキムのメールをひらく。先日私がノアのバレンタインを台無しにしちゃったと思って泣き言を書いたんで、それに対する返事だった。キムは私をなぐさめて、
「一方僕はといえば。バレンタインにはバレンタイン・カードを1通だけ書いて、誰も夕食には誘わなかったよ。
独り身?
・・・・・・・独り身?
独り身。
何があったんだろうか。書いたかどうか忘れたけど、なんて。いったいいつのこと?どうして?
メールを読み終わって、なぜかひどく落ち込んでいることに気づいた。
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