| クラブのママと画家さん | |||||
さてさっき「マダム」と話しかけてきた男の人はホテルの従業員だった。バス停につくと彼は「私はエデンというホテルの者です。よければあなたをホテルにご案内したいんですが」と丁寧に名乗り、私をサイカー(側車つき自転車)に載せてホテルへとつれてきた。
ここらへんのホテルはモーテルという名がついていた。モーテル・エデンはレストランや市場にも近くて結構よさそうなホテルだった。部屋は広くて快適だしエアコンもシャワーも朝食もついて5ドルだった。ただしお風呂は水シャワーだけ。シャワーのパイプは壊れてしじゅう水がちょろちょろ流れていた。その音をききながら、ジョホールバールのホテルを思い出した。シンガポールからマレーシアに入国した日、ジョホールバールで泊まったビジネスホテルで、洗面台の水がチョロチョロ流れていて、それがとても情けなくてやりきれない思いがした気がする。私の価値観はこの1ヶ月で本当に変わってしまったのだ。旅ってそういうふうになってしまうものなのだ。去年までの私がもしこの部屋に入ったら、窓もないし暗くて水の音が気持ち悪いといって部屋を替えてもらったか、ホテルを移ったかもしれない。
ホテルの従業員の男の人はザウザウさんといった。彼が「長くいるなら割引します」と言ってくれたので、じゃ4日いるって言ったら1日4ドルにしてくれた。4ドル。朝食つきのホテルが1泊約500円。5ドルだって十分に安いと思うのでこれ以上値切るつもりはなかったんだけど、勝手に安くされると不安になる。もしかしたら何か出るんじゃないだろうね、とか。4ドルでももうけが出るんだろうか。
ザウザウさんは、目が鋭すぎる以外は紳士的で英語がうまく、胸毛が首まではえている25才の好青年(胸毛は関係なし)だった。翌朝も廊下で彼の声を聞いたので、「今日もツーリストを案内してきたの?」って言ったら、「うん2人連れてきた。でも僕が部屋に案内して2人で6ドルって言ったら彼らは『その額は高すぎる』って、僕の言う値段を信じなかったんだよ。僕がホテルの従業員じゃなくただの客引きで、コミッションをとってると思ったみたい。僕はホテルから十分な給料もらってるからコミッションはとらないし、毎日ここにいるんだから、ここに泊まれば従業員だってことがわかるよって言ったんだけど。他のところを見に行ってまたもどって来たんだよ」って言っていた。
ザウザウさんがちょっと傷ついてるみたいだったので、私のせいじゃないけど胸がいたんだ。部屋が気に入らないならともかく、たとえ1ドルや2ドルのコミッションがあったからって早朝から荷物かかえてあっちこっち行くほどのことじゃないだろうにって私なんかは思ってしまうけど、それはまだ私自身が貧乏旅行の流儀を徹底できてないからなんだろうか。ザウザウさんから「日本ではそんなにみんなコミッションをとるの?」と聞かれた。「日本ではとらないけど・・・旅行してるとあっちこっちでコミッションを要求されるからツーリストは用心してるんだと思う」って答えるしかなかった。
そのあと私が勤めていた時もらっていた給料の話になった。本当のことはとてもいえなくて、だいたい月1000USドルって言った。実際の半分ぐらいにサバ読んだわけだけど、そもそもミャンマーのお給料とは桁が違うからあまり意味はなかったかもしれない。彼のお給料は月15USドルだと言っていた。月!?それでも「十分にもらっている」と言えるのか・・・。
ザウザウさんは9人兄弟のいる貧しい家庭に生まれ、親からは農業をやれと言われたのだそうだ。でも彼はその仕事は興味がもてなかった。もっと旅行者と話がしたいと思ったので自分でこの仕事をみつけて就職したのだと言っていた。彼は本当はタイや日本に仕事に行きたいと思ってるのだ。でもミャンマーでは日本への就労ビザは6000ドルもする。毎月給料の1/3の5ドルを貯金したとしても100年かかる。なんて気の遠くなるような話だろう。「日本で僕のような仕事をしてるひとはどのくらい稼いでるの?」と聞かれた。ホテルの案内人がどのくらいのお給料をもらってるか見当もつかなかったけど「だいたい500ドルくらいかな」と適当にいうと、彼はぽつりと「すごくいいね」と言った。
![]() 馬車は一日チャーターして500円くらい
この日は何をしようか決めていなくてホテルの廊下でうろうろしていたら、ザウザウさんが「もしヒマなら、ポッパ山にでも行ってみたら?ポッパ山はすごくいいよ。もしよかったらほかのツーリストとタクシーを共同で借りられるように話してみるけど」と言ってくれた。トラックのタクシーは半日12ドルで借りられた。15ドルと言われたのをザウザウさんが話をつけてくれたのだ。
でも半日のタクシーのチャーター料がザウザウさんの月収と同じ?この国では何の価格をきいても納得できない。余談だけど、後日ザウザウさんに頼んで電話局に連れていってもらい日本に電話したら3分で24ドルかかった。私は彼の目の前で24ドルを出すときひどく動揺してしまった。彼が見ないでくれることを願ってサイフからこっそりお金をだしたけどザウザウさんは紳士的な態度をくずさず静かに私がお金を払うところを見守っていた。
話は戻って、その日タクシーをシェアすることになったのは、色白で小柄な日本人の女のひとだった。彼女は鮮やかなオレンジ色のロンジーを着て、きれいに口紅も塗っていた。トラックに乗り込むと、いきなり彼女は「エリです」と名乗った。かわった名字だなーと思いつつ私が「井出です」って言ったら「下の名前は?」と聞くので、「のぶこです」っていうと、「ノブちゃんだ。」とニックネームをつけられた。なんだか、経験したことのない自己紹介だった。
それからお互いの仕事のはなしになった。私がプログラマでしたって名乗ったあとエリさんが「私の仕事当てられます?」っていうので私は「公文式算数教室の先生」と、かなり変わった答えをした。我ながらなんでそんなのしか浮かばないんだ?と思った。「先生」なら「幼稚園の先生」とか、「小学校の先生」とか言いようがあるだろうに。でも、赤いフチの眼鏡をかけてハキハキ喋る彼女は知的でかつ面倒見よさそうな印象で、なんか専門的知識があって手のかかるひとたちを指導したりする仕事のような気がしたのだ。私のアタマの中の分類ではそういう立場のひとは「公文式算数教室の先生」しかいなかったのだと思う。
そういったら彼女は謎めかして「サービス業です。場所と食事を提供する仕事。」と言った。そういわれてもまだピンとこなくて、具体的にはなんですか?って聞いたら彼女は「クラブをやってるんですよ」と言った。エリさんは以前は銀座でホステスしていたのだという。18くらいから10年近く、勉強しながらその仕事をしていたけど、去年からは沖縄の実家のある名護市に戻って妹さんたちとクラブを始めたのだ。いまはママとして店を切り盛りしているという。なんていうか、偏見なんだけれどもそういう職業のひとが個人旅行でミャンマーに来たりすると思っていなかったのでとてもセンセーショナルだった。でも、専門的知識があって手のかかるひとの面倒を見る・・・私の予想はあながち間違ってなかったような気もした。
ポッパ山は舗装道路と未舗装道路を交互に1時間半くらい走りながら行ったところにある。未舗装のところを走っているときはトラックの荷台はほんとによく揺れて、あたまをホロの骨組みにぶつけた。道はほこりっぽくて顔が真っ黒になった。
階段の途中に座っていた行者は「コンニチワ〜。オイノリヲシテイマス〜」と意味不明なことを言って迎えてくれた。彼は帰りには「オイノリヲシテイマス〜。サルナラ〜」といって手を振ってくれ、ご丁寧に手近にいた子供にも「サルナラ〜」と言わせていた。「日本語ではグッバイはサルナラというんだ」とか教えていたのだろう。どこかで「サヨナラ」と「サル」が混じったと思う。おもしろいからそのままにしておこう。
それにしてもエリさんは私のアタマの中で「水商売」とよぶ職業についている女性には見えなかった。実は私も「クラブ」というところでアルバイトをしたことが1度だけある。大学のときだった。まだバブル全盛の頃のことで、時給2000円に目がくらんだのと、水商売も一応経験してみたかったのとで、新宿の「クラブハイツ」というお店で面接を受け、その日のうちに貸衣装でお店に出た。お店は数十個のテーブルが並んだ薄暗いホールで、タバコくさく、お客さんの話は世間知らずの私ではとてもついていくことができなかった。あるお客さんからは「君はまだ来たばかりだな」と見抜かれ、あるひとからは「君はこんなところにいるべきじゃない」と口説かれ、ぼやっと座ったままで4時間がなんとか過ぎたけどそれはそれは苦痛だった。そしてその日の日給のうち5000円だけ日払いしてもらって翌日には辞めてしまった。こりごりして残りの3000円をとりにすら行かなかった。
・・・で、そのとき周りにいた女の人たちは痩せて、声の枯れたうつろな印象のひとたちで、それが私の知っている水商売の女のひとの全てだった。それに比べてエリさんはそういう疲れたイメージがなくて明るい日差しの似合う女性だった。銀座の女は新宿の女とそもそも違うのかもしれないし、いま住んでいる沖縄の影響かもしれないと思った。さらに歳を聞いて驚いた。落ち着いた雰囲気だから絶対2つ3つ年上だと思っていたら、彼女は昭和45年生まれで歳は私より1歳若い28だった(私が自分の年齢を理解してないだけで、決して30代だと思ったわけじゃないです念のため)。といっても彼女はとても話の聴き方がうまく、やはり精神年齢的には私より全然上って感じだ。今まで会ったことのないタイプのひとだった。エリさんとは夕食を一緒にとる約束をした。
またもホロにアタマをぶつけながらバガンの町に戻り、町をうろうろしていたら、ヤンゴンで同じホテルにいた学生さんに会った。エリさんの話をすると、会ってみたいといって彼も晩ご飯に参加することになった。 彼は角田ともひろ(わけあって仮名)くんといって早大理工学部のひとだった。夕食に集まり席につくと、エリさんは彼にも早速「ともひろさん。じゃあ、ともちゃんだ。」と呼び名をつけていた。そこで相手のふところを開かせるのが彼女の近づき方のすごくうまいとこなのだった。
エリさんはすごく回転の速いひとで、「出国前に彼女からふられた」とか、「カンボジアで2ドルで女の子を買った」とか、「ベトナムの女の子は色が白いから3ドル」とか、「女の子を買いに行く途中みんな真剣にベトナム語を勉強する」とかいう話を、ともちゃんから、するすると引き出した。もちろんこんな話ばかりじゃないけどとにかくともちゃんは非常に旅行経験の豊富なひとなので印象的な話がいろいろと出てくるのだ。彼女と会うまえ、ともちゃんは、「銀座で働いてたりしたら最高いくらくらいのプレゼントもらったことがあるか聞いてみたいな」って言っていたけど、質問するどころじゃなかった。彼女のツボを心得たあいづちと質問に、彼の口からは次から次へとおもしろい、あるいはいわくありげなエピソードが飛び出してしまうのだ。
一応言っておくと「ともちゃん」は、かなりかっこいい、渋めの感じの男の子だ。学生さんとはいえ自分なりのポリシーもあって、決してちゃらちゃらしたタイプじゃない。だから食事の席とかでもそんなに喋るタイプに見えなかったのに、エリさんにかかるとすっかり饒舌な青年に早変わりしていたのが驚きだった。エリさんすごい。旅に出て思ったのは、外国ばかりじゃなく日本にも私の知らない場所がたくさんあって、私の知らないジャンルの人々がたくさんいるらしいってことだ。日本にいると、自分の知っているもの、見慣れたものだけを見て日本全部を見た気になっているので、いつも通っている道を歩くだけでは見つけることができない。それをミャンマーで知ることができたっていうのがまた、私の全然予想しなかった旅の収穫だ。
談笑してたら、突然エリさんのヨコに品のいい年輩の女性が立った。「私をおぼえてらっしゃる?」年輩の女性は会話に割り込むことをわびてからエリさんにむかって言った。「あなたがご注文なさった絵ができたんです。ぜひ見にきていただきたいの」彼女はこの街のギャラリーの画家さんのお母さんで、エリさんの肖像画が完成したからと、わざわざホテルまで訪ね、食事に出ていると言われて探しに来てくれたのだ。食事もちょうど終わったところだったので、どさくさにまぎれてともちゃんと私もおじゃますることになった。市場のはずれの家を訪ねるとお父さんと画家さんが待っていた。できあがったエリさんの肖像画はミャンマー風の冠をかぶり凛としたエリさんの雰囲気が描かれている見事な作品だった。この値段を聞くと5ドルだとか。5ドル!手間暇かけて描いた肖像画が約600円。でもそれはザウザウさんの月収の3分の1だ。
![]() 画家さん一家とエリさん(左端)、ともちゃん(右端)
画家さんたちは私たち3人をとても歓迎してくれて「何もなくてごめんなさい」としきりに恐縮しながらも私たちをもてなしてくれた。画家さんの家は土間で電灯も居間に裸電球1個だったけど、ミャンマーにあっては裕福そうに見えた。画家さんのおばあさんの若い頃の写真は、あとづけだけど唇が赤く塗ってあって部分カラーだった。画家さんは学生のころはエレキギターをひいてバンドをやってたりしたらしいし、家もほかの家に比べれば清潔で広かった。それもそのはず画家さんのお父さんは小学校の校長だといっていた。
ところが収入を聞いてまたびっくり。現在のお父さんの給料は月4ドル。それと現物支給でお米をお釜に14杯分だといった。現金に直すと合計で約6USドル。以前はまだマシだったらしいけれど、政府の経済政策の遅れのため生活はくるしくなる一方なのだという。「それでは家族で暮らしていくのに十分ではないので息子が絵を描いているの。この子が画家になってからはずいぶん楽になったのよ」とお母さんが言った。お金がないという話も卑屈な言い方をしないでくれたことが救いだった。エリさんの肖像画だけでもお父さんの1ヶ月ぶんの給料に近い。
このとき、ザウザウさんの「十分にもらっている」という言葉が脳裏によみがえった。ザウザウさんの15ドルは相当な高給とりなのだ。ミャンマーでは、いろいろなものにめちゃくちゃな値段がついていて、ほとんどのひとは、普通に働いていたのでは生活はできない。ミャンマーの経済がマヒしていることが伺われた。
画家さんはエリさんと同じ28才だった。マンダレーの大学で絵を勉強したけど先生が彼の芸術に対して理解を示さず苦労したと言っていた。彼は日本語の勉強にも熱意を示していて、日本語のフレーズブックを開いていろいろな文章を話そうとしていた。聞けば東京に、やはり絵描きをしているショウコという知り合いがいるとか。しかし私たちは見てしまった。フレーズブックの最後のページには「アイシテマス」という文章が自筆で書かれていることを。それはタダの知り合いではないね。
彼は「ニホンニイキタイデス」とか「シンカンセンニノリタイデス」っていう文章の発音を訊ねたりする合間に、ふざけて「アナタト旅行シタイデス」という文章だけエリさんに向かって真顔で言ったりしておかしかった。ショウコはいいのか、ショウコは。と私はひそかに思った。
和やかに夜は更け、話も尽きなかったがエリさんが翌朝早く次の町へ旅立つので帰らねばならない時がきた。画家さんのお母さんは「あなたたちは私の息子、娘みたい。ほんとに寂しいわ。また来てちょうだい」としきりと名残惜しんでくれた。画家さんのお母さんからおみやげにポテトチップをもらい、再会を約束して私たちは画家さんの家をあとにした。今度来たときはこの国とこのひとたちがもっと豊かに、あるいは、せめてもうちょっと暮らしやすくなっていますようにと願わずにいられなかった。
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