ラマダンのシリアへ
   ペッパースプレーを奪われて失意のうちにスペインをあとにした私は、イスタンブールで地震のときにお世話になったカルメンのカフェに顔を出し、久々のブルーモスクに挨拶しにいった。翌朝は、トルコでの日々を復習するようにあの頃何度か訪れたサンドイッチ屋に朝食を買いにいき、バスが出る前のわずかな時間に、ブルーモスクとアヤソフィアの間の広場に行ってみた。地震の朝アヤソフィアの後ろから上ったはずの朝日はいまブルーモスクとアヤソフィア双方の横顔を照らしながらのぼっていた。

 インドからのフライトではじめて訪れたトルコはあれだけヨーロッパらしく見えたのに、ヨーロッパで約3ヶ月の日々を経て再び訪れたトルコは、なんてアジアの顔をして私を迎えるのだろう。スペインのぎざぎざに飾られた教会に慣れていた私の目に、何層もの巨岩を積んだような姿はあらためて新鮮に映った。あぁブルーモスク!あの塔の壁が白くなかったら、こんなにもひとの心を打つだろうか。イスラムの国々の旅が始まる。ブルーモスクは私にそう語り掛けてた。


* * *

 その日のうちにアンカラの伊藤さんちにお邪魔し、私はここでまたお世話になりながらシリアのビザをとりにいった。といってもシリアのビザは1日でとれるので、あとは理由をつけてのんびりさせてもらってただけだけど。前にお世話になってからわずか3ヶ月でまたお邪魔してしまったので、子供たちは倍ぐらいでっかくなってはいなかったけど、小学生や幼稚園の子供の成長は早いんで、お兄ちゃんたちはあれっと思うようなところで大人びたところが見えるようになっていたし、末っ子の玲美ちゃんはいつのまにか英語がぺらぺらになっていた。

 伊藤さんちの日々は平和だ。前に来たときに知り合いになったひとたちに挨拶したり、日本人学校の学芸会を見に行ったりして私はまた伊藤さんちに10日以上泊めてもらってしまった。日本人学校の学芸会は実によかった。ここは小学部、中学部あわせて15人ぐらいしか生徒のいない学校だ。そのせいか過疎の地域の学校みたいなアットホームさがあって、劇のせりふを間違えても極端にはずかしいってこともないし、会場と舞台が一体になって雰囲気をもりあげてるようなあったかさがあった。
劇で小学生を演じる
伊藤家の長男ゆうじくん


吉四六さんにやりこめられる
お侍の役は次男のいさひとくん
 ここの学校には、坂本九が飛行機事故で亡くなったときマネージャーをしていたっていう先生がいて、すごく粋なアイデアで場を盛り上げた。伊藤さんちの次男のいさひとくんの学年は、100%日本人の男の子に、台湾出身のママと日本出身のパパをもつハーフのいさひとくんと、ニュージーランド大使んちの子でやっぱりハーフの男の子の3人だ。音楽発表の「富士山」では、オリジナルの富士山の歌詞のほかに、それぞれ台湾で一番高い山と、ニュージーランドで一番高い山をたたえる歌詞をつけ、それぞれの子がソロで歌い、そして最後にここトルコで一番高いアララット山をたたえる歌詞で3人が合唱して父母の喝采を集めた。

 また独自のシナリオの劇ではしばしば台詞にトルコ語が使われたりしてそのたびにワッと会場から笑いが起こった。父母同士も子供同士もお互いを熟知し、そのバックグラウンドを受け入れることができてるいい関係があって、それがこういういい学芸会をつくってるんだ。こんな環境で育ってる子供たちがちょっとうらやましくも思えた。

 さて、私の旅に話をもどそう。私は、もともとガツガツと精力的に旅行できるほうじゃないなあとインドのへんから思ってはいたんだけど、最近はひときわ、ところかまわずのんびりするようになってしまってる。旅に疲れたつもりはないんだけど、腰が重くなりがちな自分に気づいておやと思ったりもする。この先居心地のいいところがあったら定住してしまうんじゃないだろうか。これはトルコにこの前きた頃から思ってたけど、寒くなって移動が億劫になってるせいか、今回は特にそんな気がした。

 12月の12日、伊藤さんちを出たのは、そんな考えが影響していたと思う。伊藤さんちにお邪魔して、今回だって最初2,3日で出発しますとか言っていたんだけど、ずるずると出発が延びてしまったのは、実は到着するなり甘い誘惑をうけていたからだった。
「よければアンカラでクリスマスとお正月を迎えない?」
伊藤さんちのママの甘いささやきが私の耳をくすぐった。日本では「2000年問題で何が起こるからわからないから」って家族が心配していて、できれば知り合いもつてもないところに行って2000年を迎えてほしくないような雰囲気だった。私もできれば地震のときのような心配をかけたくないんで、お正月を一緒にってお誘いをうけたとき、伊藤さんちで2000年突入の様子を見て、それから出発するんでもいいかなと思ったのだった。

 だけど。今度のクリスマスは私にとって30代を迎える大事な誕生日でもある。伊藤さんちにいると、寝るとこは清潔だしおいしい日本食は食べさせてもらえるし、あったかいし何の心配もなくぬくぬくとしていられるけど、そうやってこのクリスマスを過ごしてしまうのって私にとっては旅をさぼってることみたいに思えた。何が起こるかわからない、どうなるかわからない旅を、この30歳をむかえる誕生日にもちゃんと適用してやらないといけないような気がしはじめたのだった。そいで結局私は出発を決めたのだ。次なる国シリアへ。

 シリアで最初に訪れる街にアレッポを選んだのはたまたまその街が国境から一番近い大きな町だったことのほかに、ブリュッセルで偶然お世話になった(できごと日記「拾う神あり」参照)メロの実家があるからってこともあった。メロは11月に里帰りするから絶対遊びにおいでって言ってくれていたんだけど、別れ際にクチビルを奪われて警戒してたこともあり、いや、それはどうでもいいんだけど、妹のちーさんと11月にスペインで待ち合わせをしてしまったんで結局ここでメロの実家にお邪魔することはできなくなってしまった。でもメロがあれだけ絶賛していた街だし、ラフィたちが子供のころ住んでいたアルメニア人街があるってことだったから見てみようと思っていたのだった。


メロがその美しさを絶賛していたアレッポ城

* * *

 私はアンカラから直行のバスでアレッポに着き、そのあとここらで有名なオリーブ石鹸を買いこみ、2・3日後にはダマスカスに旅立った。ダマスカスは首都といっても地味な街でこれといって見るものもなく、ラマダン(断食月)中のためツーリストも少なくてひっそりとしていた。さらにレバノンへ行ってベイルートの旧市街で内戦のあとを見て、レバノンを代表する遺跡バールベックを観光した。バールベック遺跡はかなり冷え込み、そこで風邪をひいたまま私はシリアに戻ってパルミラに向かった。

 パルミラはたしかに壮大な遺跡だったけれど風邪ひきで訪れた私はほとんど歩いてまわることができないまま数日をほとんどホテルで過ごした。ラマダン中のため日中は食事がとれず、ツナ缶と湿気たビスケットばかり食べて体力は落ちて行く一方だった。しかし12月23日の晩になって、閑散とした商店街を歩いていたら、ちょっと気難しそうな年配のヨーロッパ人の旅行者とたまたま言葉を交わすようになり、私の誕生日でもあるクリスマス・イブの晩は同じレストランで彼と待ち合わせて、名物のベドウィン料理を頼んでチャイで乾杯した。ツーリストのいない時期のせいもあって材料はほとんど冷凍もので、チキンはぱさぱさしていたけどごちそうはごちそうだ。私たちはどっちかっていうとしんみりした気分で外ばっかり見ながら、ときたま自分の国のクリスマスはどうだこうだとかいう話しをしながら食事をすませた。最後にささやかな贅沢に頼もうと思ったアイスクリームは品切れだった。

 彼は翌日には国に戻る予定だったから私たちはまだ早い時間に別れた。私は部屋に戻って、トルコからクリスマスを祝うためにわざわざ持ってきたお酒ラクをステンレスのコップにそそぎながら、スペインで買ったキャンドルにひとりで火をつけた。キャンドルの雪だるまがすっかりなくなる頃にはラクは半分ほどになっていて、私はひとりで赤くなってる顔を鏡でたしかめて、ホテルのベッドのごわごわとかたい毛布にもぐりこんだ。こんなことなら伊藤さんちにいればよかったかな。冷たい足をすりあわせ、なおりきらない風邪にせきこみながらまもなく私は、30歳になってはじめての眠りに落ちた。
イメージ

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 はぁ、鳥肌がたつようだ。あんまりリアルに書いたから自分で読んでいて涙が出てきてしまった。これはフィクションで、事実じゃないです。アンカラからの出発にあたり、私がもっとも戦慄を覚えるクリスマスのシナリオを想像して書いてみただけ。どうしてもこれだけは避けたい、と思ったシナリオ。だからどうあってもせめてこの日のために、一緒にお祝いするツーリスト(いっぱい)に出会わなければ、と私は思ったのだった。まあいつもそうだけど今回はとくに私の神経は、予定を守ることよりもクリスマスを楽しく迎えることだけに集中した。

 しかし私の不安を倍増させるのは、途中で会った日本人の旅行者たちがつぎつぎにイスラエルへと旅立っていったことだった。キリスト教の聖地をかかえるイスラエルでは千年紀にあたる今年のクリスマスは格別盛大だってことが言われてた。だけどスペインにいるとき、日に日にクリスマス飾りが増えるのを見て私は孤独感が増すばかりだった。クリスマスでうかれ盛り上がるにぎやかな街でひとりでいることは命取りだ。といって、ひとの少ない田舎町で誰とも出会うことなく一日ラマダンやって過ごすことにだけはなりたくない。どこにいれば理想的なクリスマスを迎えられるか?幸い妹のちーさんがスペインに来たときに「地球の歩き方」の中東編を持ってきてもらっていたから、私はアレッポの宿で検討に検討をかさねた。

 キムと出会ったのはそんなときだった。アレッポは首都ダマスカスに次いでシリア第2の都市とはいいながら、毎晩のように数分から数十分の停電があるような街だった。私がホテルのロビーのストーブの前で旅びとたちの記した情報ノートを読んでいたら、ふいに電気が消えた。電気がきてないとなると部屋に戻ってもパソコン使えるわけでなし、私はデイパックからマグライト出して情報ノートを読みつづけた。ホテルのスタッフがろうそくを用意してストーブの金枠のふちに立てた。それからしばらくして、暗闇のなかからポストカードを持ってろうそくのあかりの中に現れたひげもじゃのおじさんがいた。それがキムだった。

 私がマグライトの光をあてて彼がポストカードを選ぶのを手伝うと、彼はお礼をいいながらどこから来たのか私に尋ねた。私たちはそのあと暗闇のなかでしばらく自己紹介したりして、彼がデンマークからアラビア語を勉強しにきてるってことを知った。彼はダマスカスで、デンマーク人の友達数人と部屋をシェアして暮らしながら学校に通っていて、クリスマスはダマスで過ごすということだった。私が、
「クリスマスはパルミラのへんで過ごそうかと思うんだけどどう思う?」
って訊くと、彼はウーンとうなって、
「パルミラは何もないとこだよ。いや、つまり、遺跡とかはすごいけど街は地味だし、この時期はツーリストも少ないんじゃないかな。やっぱラマダンだからね」
と言ってから、間髪いれずに、
「クリスマスはうちでみんなで集まって祝うつもりだけど、よかったら来れば?」
と言った。

 最初にクチをきいてから15分もたたないうちに彼が私を誘ったんで、私はちょっと当惑した。会ったばかりで突然クリスマスパーティに誘うなんて、ノリのいいラテン系のひとならともかくデンマーク人でもあることなんだろうか。社交辞令で誘ってくれたんだったら困るな。そんなことも頭をよぎった。
「ほんとにお邪魔していいの?」
半信半疑で聞くと彼は、
「もちろん。クリスマスの前にダマスに来たら泊まってるホテルの名前と電話とか確認して連絡してよ。もしよかったらアルハラメインっていうホテルは僕がよく知ってるとこなんで、そこに泊まったら?そしたら迎えにいきやすいから」
って言ったので私はその名前をひかえた。ダマスカスに留学してるデンマーク人とクリスマスパーティ。想像もしてなかった選択肢が突然沸いてきた。

 しばらくして背の高い白人の男の子ノアがやってきて私たちの会話に加わった。彼はここらへんの旅行者じゃ珍しいアメリカ人だった。反米感情が強いこの地域じゃ、かなりけむたがられてつらい思いもするらしい。加えて彼はトルコとの国境のへんで、まだ封もあけてない新品の救急セットを盗まれて、盗まれたとたんに具合悪くなったけど薬がないから治すこともできず、アレッポに来てちょっと養生してるんだって言った。やがて電気がついたので私たちは一緒に食事にでかけ、キムの超・絶・非オススメの生肉料理とかナスのパテやシリアのチーズを食べながら旅行のはなしをあれこれした。

 ノアはちょっと興味わく男の子だった。彼は25歳で、このあいだ大学院を卒業したとこだけど大学の頃には初めての海外旅行にアフリカに行き、主にタンザニアなんかで約1年をすごしたんだそうだ。そのあとも、中米に行ってアパート借りて何ヶ月か暮らしてたこともあるって言っていた。
「旅行をするのはあまり好きじゃないんだ」
って彼がいうから、
「うそ。いまだって旅行してるじゃないの」
っていうと、彼は、
「いや、旅行するよりも、その土地に住んでみるのが好きなんだよ」
って言った。

水タバコを吸うノア

「へえ。じゃあ、次はどこに行くの?」
って聞いたら、彼は、
「日本に行ってみたいな」
って言った。まんざら冗談でもなさそうな様子だった。キムはこのテーブルでノアもクリスマスパーティに誘った。でもこのときノアは、
「そう、ありがと」
って言っただけだったんで、彼は来るつもりないのかな、と思った。

 シリアの食費はとっても安く、わりとちゃんとしたレストランでおなかいっぱい食べたのに3人で500円くらいで、私とノアはキムにごちそうになってしまった。そのあと私たちはマクハって呼ばれる喫茶店に行き、チャイを飲みながら水タバコをふかした。

 水タバコっていうのは、花瓶みたいなパイプの中の水で煙をいったんろ過して吸うタバコだ。水タバコは私の愛読書の「バックパッカーパラダイス」って漫画で、著者の夫妻の旦那のほうが「なかなか煙が出てこないんでおもいっきり一気に吸い込んでしまってそのあと吐いた」って書いてたから用心していたんだけど、ここのは吸い込むのがそんな難しいということはなく、私たちがたのんだやつはたまたまイチゴのフレーバーがついていて、子供用の歯磨きみたいな香りがしてとってもおいしかった。私はこの水タバコのパイプがすっかり気に入って、3人でまわしのみしながら写真とったりしていた。マクハに集まっていた地元のおじさんたちが、デジカメに興味もってのぞきにきたりして、かなり楽しい雰囲気になって私たちはホテルに戻った。


水タバコのパイプをくわえつつ。右のヒゲ面がキム

 それにしても、シリアではイスラム教ではご法度のお酒はもちろん手にはいらないだろうし、クリスマスなんかもってのほかだろうと思っていたらとんでもない。アレッポではお店にお酒もあったしアルメニア人街では「2000」って書かれた電飾や、クリスマスの窓飾りもいっぱいあった。パキスタンでクリスマスを迎えようとしてるケニチ(できごと日記「立派な設備と手荒な治療」参照)からは「パキスタンのラマダンは厳格で、日中はツーリストといえどほんとにごはんが食べられないし、クリスマスなんてどこ吹く風」っていうメールが来ていたけど、シリアはアルメニア人街以外の場所でもクリスマスの雰囲気が見られないわけじゃなかった。フランス委任統治下だったときの影響なのか、街のあちこちでクリスマスツリーも見かけたし、店先にサンタクロースがかざってある店もあった。

 この国ではサンタは「ババノエル」(※クリスマスのパパという意味。フランス語とアラビア語のまざった呼び名)って呼ばれていて、イスラムの教典コーランの飾りのたっぷりついたバスの車内でも時々ババノエルのぬいぐるみが下がってたりした。実は私はスペインののみの市で買ったサンタの人形を先月末からかばんにつけていた。それは、私はイスラム教徒じゃありませんよ(だからラマダンの月だけど私は断食しませんよ)っていう、異教徒としてのちょっとした抵抗みたいなもんだった。私はキリスト教徒じゃないんで、別にサンタさげて異教徒をアピールするいわれはないんだけど、それがキリスト教のお祝いとして嫌われるのか、それとも彼らが「異教徒なら異教徒でいい」って受け入れてくれるのか見てみたいっていうちょっと挑戦的な意図もあった。ところが彼らが自分からサンタ飾ってたもんだから、私はかなり拍子抜けした。クリスマスなんか地下にもぐって神妙に祝わなくてはならないんじゃないかと思っていたけど、意外にクリスマスは近いところにあるんじゃないか、って気がしてきた。


ほほえむラクダ
 翌朝出発するとき、私はキムとノアに「クリスマスに会おうね」ってメッセージを残し、買いすぎたオリーブ石鹸を彼らに渡してくれるようホテルのオーナーに託してパルミラに出発した。パルミラはとっても印象的な街だった。砂漠のなかに突然姿を現す巨大な神殿とそれに続く列柱。かなたに不自然に盛り上がった丘と、その上の城砦。ツーリストの少ないこの時期、ラクダの背にゆられながら墓の谷を訪れたり、誰もいない遺跡の間を散策するのは孤独感をかきたて、なんともいえずせつない気持ちにさせられた。

 だけど、パルミラに3日いて結局ここでクリスマスにすることにしなくてよかったと思った。やっぱり有名観光地とはいえ、ラマダンなんでひとが少なすぎる。ここでクリスマスをむかえたら、ほんとに気難しい年配ツーリストとすら会えるかどうかわからない。

 ここで3日ばかし遺跡を散策してついにダマスカスに向かおうっていう朝、私はま〜たおなかをこわした。何にあたったのかよくわからないけど、そういえば前日の日中に食べたチキンのシャワルマ(トルコでいうケバブみたいなもので、たてになってる棒に肉を巻きつけてまわしながら表面を焼き、焼けた部分を削り落としてサンドイッチなんかにはさんで食べる)の肉が、なんかぷりんと柔らかくて焼けてない感じしたんだよなあ、と思った。ダマスカスまでの道のりは3時間程度だったんで、幸い道中風雲急を告げることはなかったんだけど、ダマスカスでホテルについたとたんに私はがたがた震えだし、そのあと昏睡状態に陥って39度の熱が2日続いた。

 ここのホテルは共有スペースがたっぷりあって、だいたいのひとが部屋よりはこのスペースに出てきて暇な時間をつぶしてたんで、幸い病気中にひとりきりになる不安はあまりなかった。ここはダマスカスに来た欧米人ツーリストがほとんど全員来るようなホテルなんで、ほかのガラ空きのホテルよりは値段も部屋も条件は悪かったけど、不思議とみんなほかへ動こうって気配はみえなかった。ツーリストたちは意外とさびしがりやだ。自分のこと棚にあげて私はそんなことを思っていた。

 2日目の晩、熱が下がってきてホテルのロビーでほかのツーリストとおしゃべりしていたら、受け付けの前のテレビで九州場所を放映していた。衛星放送らしくて、英語のテロップで力士のしこ名が表示され、英語の解説がついていた。約10ヶ月ぶりに見る力士は、別段出発した頃と変わっていないのに、英語の解説のせいかなんかすごく変わった世界のできごとみたいに見えた。近づいて行くとテレビの前でフランス人の女の人と、オーストラリア人っぽいおじさんが相撲を観戦していた。彼らは力士が倒れるたびにおなかをかかえて笑い、くちぐちに「ベルトがはずれそう」とか「ちょっと見てあのレスラーったら転ぶときにあんなに足ひらいたわよ」って歓声をあげた。

 私は日本にいるときどっちかっていうと相撲はキライな部類だったんで、最初一緒になって笑ってたんだけど、彼らが相撲を「ただの太っちょの投げ合い」だと思ってるみたいなのを見ていたら、いかに相撲がバランスとかけひきを要求される洗練されたスポーツかってことを無性に説明したくなってきたのが不思議だった。私は、自分が彼らとは違う感性を持って育ってきた真性の日本人なんだってことをはじめて感じた。私が化粧回しとか、しこ名は誰がつけるかとかを説明すると彼らはちょっとまじめに相撲を見始めた。見た目滑稽に思えてもヨーロッパ系のひとたちは概して歴史のあるものが好きだ。でも彼らが、マジになって説明はじめちゃった私を茶化すようなひとたちじゃなくってラッキーだったと思う。

 こういうことを説明するにあたって、これまで身近にあってあたりまえに思っていたもの、いままで周りのひとと共通の認識だったことが実は当たり前じゃないってことがとても意外だったし、それを説明するのが自分にとって初めてで、すごく苦労する作業だったってことがまた新鮮だった。私はまた熱が出てふるえが来るまで彼らに相撲のチャンピオンシップの説明とか、外国人力士の紹介なんかを続けた。

 相撲解説のせいもあってか、翌日も熱はきっぱりとは下がらなかった。当初の予定ではクリスマス前に、無料の48時間トランジットビザでレバノンに行ってくるつもりだったんだけど、こう熱が出ちゃ観光どころじゃない。しかもダメ押しで、フラフラしてホテルの階段を降りてたら足をすべらせた。7段目から2段目まで落ちてお尻をしたたか打ち、30直前になって私はおしりにふたたび蒙古斑を作った。私はへんに縁起をかつぐところがあるんで、悪いことが続いたらモノイミにはいることにしてる。そんなわけでレバノン行きはクリスマス以降に延期して、ホテルでアザが治るのを待つことにした。

 シリアではインターネットは使えないってもっぱらの評判だったけど来てみたらダマスカスにはいくつかのインターネットカフェができていて、ホームページのアップはできないけどメールの送受信やwebの閲覧ぐらいはできるようになっていた。私はインターネットカフェからキムにメールを送り、彼が現れるのを待つことにした。部屋にはコンセントが見当たらなかったので、私は1Fのロビーの奥の椅子に陣取って朝からたまっていた日記をつけたりして時間をつぶした。そしたら3日目の午後になって受け付けにどっかで見たようなくりくりの髪の男が現れた。意外にも最初に会ったのはキムではなくて、アメリカ人のノアだった。