いちごバナナは恋の味
   その日も起きたのは昼頃だった。キムがボランティアの募集要項を持って下に降りていったあと私は洗濯物を洗い、身支度をととのえて階段を降りた。そしたら階段の途中で、
「ノーサン」
って呼ぶ声がする。外人だ。でもキムの声じゃない。ここらへんで誰か私をのーさんって呼びそうなひといたかな・・・と思いながらL字型にまがった階段を下ったら。
「ヘーイ ヌーサン。ハワユドゥーイン!」
いきなりノアがそこにいた。ノアは私を軽く右の胸に抱きながら、
「どうしてここにいるの?イスラエルは来ないって言ってたじゃない」
って言った。

「ノアこそどうしてまだここにいるの?もうヨルダンに行ってるはずじゃなかったの?キムに会った?」
って聞いたら、
「いや」
っていうから、私はノアにキムの引越しのいきさつを説明し、わたしもどさくさにまぎれてキムについてきてしまったことを話した。ノアはドミトリーにチェックインして荷物を開いてるとこだった。

 ノアを置いて先にティールームに下りて、書類を読んでたキムに、
「もうすぐびっくりすることがあるよ」
って言ったら、キムは首をひねって、
「わからないなあ。なに?」
と訊ねた。
「あてられるよ」
っていうと、彼はしばらく見当ちがいな答えをくりかえしたあと、
「ノア?!」
って答え、その瞬間ノアがキムの後ろに立った。
「そう!」
とノアが返事をした。
「ノア!!」
「ハイ、キム!」
キムは立ちあがってノアと握手し、3人一緒にゴハンを食べながらクリスマス以降のできごとをお互いに話しあった。

 ノアは年末に友達と会ったあとご両親が尋ねてきてイスラエルで落ち合うってことだったんだけど、結局ご両親は1月末に来ることになったんで、友達と2週間ほどイスラエル内をまわってきて、これから数日後にヨルダンに一旦でてペトラを見にいくつもりだって言った。ノアはもう旅の予算を使い果たしちゃって、そろそろ帰らないといけないから、このあとペトラをみたら、両親に会うためふたたびイスラエルに戻り、それからエジプトへ下って、ルクソールを見たら帰るって言っていた。

 ノアはベジタブルカレーを食べたあとベジタブルスパゲティを頼み、スパゲティに載ってる具ばっか食べながら、
「ヨルダンとかシリアとかだとローストチキンとかケバブとかの肉料理がメインでベジタリアンには豆とかサラダとか食べ物のバリエーションがあまりないじゃない。イスラエルはその点ベジタリアンメニューが多いんで僕こっちきてからつい食べ過ぎてるよ」
って言った。そして缶入りのいちごバナナミックスジュースをひとくち飲んでから顔をしかめて、
「これめちゃくちゃマズくない?」
ってキムに訊いた。いちごバナナジュースは日本では見たことない取り合わせだけど、実際これはフルーツたっぷりって感じですごくおいしいんだ。ノアに同意しそうなキムをさえぎって、

キムとノア
「なに言ってんのこんなおいしいものほかにないよ」
って言ったらそれ以後、私がマンゴージュースやピーチジュースを飲んでるとノアから必ず、
「ヌーサン、いちごバナナじゃないじゃない!!」
ってチェックがはいるようになった。

 それから3人一緒に旧市街を歩き回った。そして夕方になって、旧市街界隈のほとんどの博物館や遺跡の入場時間を過ぎてしまってから聖墳墓教会の近くの喫茶店に入った。喫茶店でアラビックコーヒーをのみながら、私たちはしばらくお喋りに花を咲かせた。

 クリスマスに別れたときノアが「レバノンに行くべきだろうか」って言っていたことが気になっていた私は、ノアに、
「レバノンどうだった?あんとき行こうかどうしようか迷っていたじゃない?」
って訊いた。そしたらノアは、
「レバノンはすごくよかったよ。僕ベイルートは大好きだった。ほんとならあと何日か居たいぐらいだったよ」
って言った。
「でもベイルートには何も見るものないじゃない?」
ってキムが訊いたら彼は、
「いやたしかに観光名所とかはないけど。僕は都会育ちだからね、街が大好きなんだよね」

って答えた。ノアがレバノンを気に入ったときいて、あのときひきとめなくてよかった、と思った。

「で、マットはあのあとどうしたの?」
って訊いたら、ノアは訊かれてはならないことを訊かれてしまったって感じで、フー、とため息を交えながら、
「それについてはねヌーサン、僕きみに言わなくちゃいけないことがあるんだよ」
といい、彼は話し始めた。

 マットはあのあとずーっとノアにくっついてきて、イスラエルにも一緒に来たんだそうだ。


喫茶店のおじさんに腕相撲を挑まれ、
優勢だったのに最後に負けてあげたキム
「僕が友達と落ち合ってからもマットったら行く先々についてきて、まるで前から僕の友達だったみたいな顔してるんだ。シリアとかにいた頃は別によかったんだよ、僕とヤツだけだったときは。だけど今度は僕は僕の友達と一緒なのにあの調子だろ。つまり、あいかわらずすっごい下品なんだ。あいつったら映画の『ケーブル・ガイ』(ジム・キャリーの扮するストーカー男のストーリー)みたいでさ、あげくのはてに酔っ払って夜中の1時に電話してくるんだ。僕はとうとうヤツがなにかやらかしてつかまったのかと思ったよ。そしたらただ酔っ払って、『いまから出てこいよ』なんて言ってるわけ。夜中の1時にだよ?とにかくそれで僕はついにキレてね、『いいかい、今は夜中の一時なんだ。きみもいつまでも遊んでないで寝てくれ。これが明日からの僕の連絡先だからね、明日の朝電話してくれ』って言って僕は友達と姿をくらましたんだよ。」
 なんとマット、この温厚なノアをついに怒らせるとは。マットの下品さは日本人の私が想像できる以上だったみたいだ。そのときおずおずと、タブーをクチにするようにキムが口をひらいた。
「あのさ・・・おとといかその前ぐらい、たぶん僕、彼を聖墳墓教会ん中で見かけたよ」
ノアは一瞬笑顔のままでかたまって、
「冗談やめてよ」
って身震いした。

 そのあと3人でそれぞれのメールを受信しにインターネットカフェに行った。私が日本語キットをダウンロードしようとしたら、どうした具合かダウンロード完了前にシステムがフリーズしてしまった。それでウィンドウズを立ち上げなおしたんだけど、ウィンドウズが立ち上げ時のパスワードを訊いてくるときに私がまごまごしていたら、ノアが隣から、
「知ってる?これOKするんだよ」
っていって私のマシンのマウスをとり、不便そうに左手で動かしていたと思ったらOKじゃなくキャンセルボタンを押してしまった。彼は私と顔を見合わせた。そしたらノアはいたずらそうに笑って、
「君だ!君がやったんだ! You did it! You did it!」
ってふざけて自分のマシンに戻っていった。
 この前あったとき、ノアはすごくアタマのよさそうな礼儀正しいひとで、そういういたずらっぽいとこはまだ見たことがなかったから、ノアっておもしろいひとなんだな、と思った。

 だけど。私は気づいていなかった。そんな和やかな時間に楔を打つように別れの時は刻々と迫っていたのだ。ノアと私がふざけながらメールを受信し終わった頃、キムがため息をついて立ちあがりながら言った。
「来たよ返事が」
私たちはちょっとの間かたまってお互いを見た。キムはちょっと間をおいて続けた。
「あさって来いって書いてある」
・・・とうとう来てしまったんだその時が。わかっていたことだけど、心臓をつかまれたみたいな衝撃が走った。

 その日ノアは疲れて早く寝てしまったから晩御飯は私とキムだけでタバスコホステルのティールームで食べた。キムは身の振り方がはっきりしたというのにちっともうれしそうじゃなかった。金曜のせいかティールームの開いた席は次々と片付けられ、店全体が次第にダンスフロアになっていった。

 店の隅に韓国人の女の子が2人いたんだけど、雰囲気に圧倒されたのか彼女たちはまもなく出ていってしまった。それを見てキムが、
「日本人だったでしょ?」
って言ったんで、
「韓国の人だよ」
って答えた。
「どうしてわかった?」
って彼がいうから、
「喋ってたのも聞こえたけど、顔だちでわかるよ」
って答えると、
「日本人と違う?」
って彼が言った。
「韓国のひとは、あごが大きくて日本人より目が細いひとが多いでしょ」
って見分け方を教えた。
「でも日本人でも100%はあてられないよ。私も、日本人から韓国のひとと間違われることもよくあるし」
っていうと、
「でもきみの目は細くない」
って彼が言った。
「きみの目は、まるくて、表情がすごく豊かで・・・、だけど、わかってるよね、僕が君を好きなのは、目がまるいからってわけじゃなくて・・・」
私は聞き間違えたのかと思って彼の顔を見た。彼はそれ以上は何も言わなかった。

 最終日、私とキムが起きるともうノアは出かけたあとだった。ふと気づくと外でねずみみたいな鳴き声がする。探してみたら、ルーフテラスの隅にクチのあいたスポーツバッグがあって、猫のママが赤ちゃん猫3匹にお乳をやっていた。きっとこのまえ見かけたおなかの大きかった猫が、ゆうべかそこらに赤ちゃんを生んだんだ。

 キムが、
「さわってみなよ」
って私をけしかけたけど、お母さん猫が怒るといけないからガマンした。


マホメットが瞑想中に天使に
運ばれてきたという岩のドーム

 それからJaffa門に向かい、城壁の上にあがって、なんかぽつりぽつりと喋りながら私たちはダマスカス門に向かった。天気のいい午後で、日陰の空気はつめたかったけど、日のさす城壁の上はあったかだった。

 ダマスカス門をすぎたところで私たちは壁の上に座っておしゃべりをはじめた。
「ここで半年暮らすんだぁ、って実感ある?」
って聞いたら、
「いや、まだないね。僕が実際働く場所は、こことはまた全然違う雰囲気のとこだと思うし」
って彼は答えた。

 彼の組んだ指に切り傷のあとがあるのに気づいて、
「これどうしたの?」
って訊いたら、
「子供のとき、なんかのためにペットボトルのキャップを切って輪にしようとしていてうっかり指を切っちゃったんだ。もちろんその時も気を失って、気づいてから自分で手当てしたよ」 って彼が言った。

「どのぐらい気を失ってたの?」
って訊いたら、
「ほんの2,3秒ぐらいだと思うよ」
って彼は言った。
「ただ自分では何が起きたかわからなくていつも『ここはどこ?』から始まるんで、すごい長い時間が経った気がするんだ」
と彼は言った。

「あるときは海岸を歩いていてウニのとげが足にささっちゃってさ、抜こうとしてたら血が出て、そんときも気を失っちゃって」
と彼がいかにも深刻そうに言うんでおかしくなって私が笑い始めると、彼はきまりわるそうに、
「もう、笑わないでよ」
って言った。私が笑うのとめられずにいると、
「実際僕はこんなに血を見るのが苦手なのに、どうしてあれほどピアスするのに夢中になってたかわからないよ」
って言った。彼は以前胸と唇にピアスしてたらしく、見せてもらったら唇の裏側にたしかにそれらしい跡があった。

「どうしてピアスはずしちゃったの?」
って聞いたら、
「スペインに行って彼女の家族とかおじいちゃんおばあちゃんとかと海に行ったことがあってね。僕は肩にタトゥがあるじゃない。これだけだって十分印象悪いのにそのうえピアスなんかしてたらどう思われるかわからないから。それではずしたらもう通らなくなって」
って言った。

 なんとなく、その話はもう聞きたくなくなって、彼の指に目をおとして、
「この傷深かった?」
って私が聞くと、彼は私のひらいた手の上に手をのせて、
「深かったよ」
って言った。傷あとを見て私が彼の手を離したら、逆に彼の手がわたしの手をとらえた。彼の顔を見上げたら彼はまっすぐ私を見つめていた。急に時間がとまったように動けなくなった。

「住むとこきまったら住所メールで送るよ。アフリカからはがきくれるでしょう?」
彼が真顔で言うので、私は視線を落として、
「うん」
とだけ言った。
「この旅が終わって次に海外に行くのはいつ?帰って2ヶ月後かな」
って彼が訊いた。私は首を振って、
「私は帰る頃には文無しだもん、東京に住む家もないんだよ。まず仕事を見つけて、アパートさがして引越しして、身の回りのものをそろえて、軌道に乗るまでに1年かかるよ。旅行できるお金がたまるのは2年後じゃない?」
って答えた。
「2年も。そしたら君はもう誰かと結婚したりしてる頃でしょ」
って彼が言った。同時に、私の涙が袖におちた。一度堰がきれてしまうと、もうとめることはできなくなった。

 もう会えないかもしれない。そういう予感が、なぜだか私のアタマにからみついて、どうしても取り去ることができなかった。訊くべきじゃない。訊いてもしょうがないことだけど、
「私たちまた会えると思う?」
って言葉がクチをついて出てしまった。彼もやっぱり同じ予感を感じとっていたんだと思う。ゆっくりと言葉を選び、
「ずっと夢みつづけていたらいつかは、きっとそういうときが来るよ」
って答えた。
彼は子供をあやすように私の背中をやさしくたたいていたんだけど、私の髪に指を通しながら、
「昨日言おうかどうしようか迷って、結局こんなこと言ったってしょうがないと思って言うのやめたんだ。でも、やっぱ言っておくよ。もしきみがね、日本での生活に疲れたら。コペンハーゲンに来て僕のイージーライフにつきあわない?」
って言った。

 私が落ち着くまで彼は私の髪をなでてくれていたと思う。ちょうど私の涙が枯れた頃、突然ノアが現れた。私たちはどぎまぎして急に離れて座った。ノアは私が泣いてたことには全然気づかなかったように今日どこにいった?とかそういう話をして、そのあと3人で歩き出し、ライオン門で城壁から降りた。彼が私たちに気を使ってあたふたと立ち去ったりしないでくれて、私たちは助かった思いがした。

 墓地をとおって私たちはDung門にむかった。ノアが墓地でピンク色のお墓の写真を撮っていたから、
「どうしてこれが好きなの?」
って聞いたら、
「だって色がいいし彫刻がきれいじゃない?僕のお墓気に入らない?」
って聞いた。
「どこがノアのお墓なの」
って私が笑ったら彼はちょっと満足そうにした。ノアは全部わかっていて、私たちを元気づけようとしてくれてたんだと思う。

 Dung門から戻るとき、岩のドームの前を通って戻ろうとしたんだけれど、なぜか係員に断られて通ることができなかった。キムが岩のドームをかこむ高い壁を見上げ、そんなとこ歩けるわけないのに、
「昨日ぼくらあの上を通らなかったっけ」
って言った。私はノアと顔を見合わせた。
「キムを信用しないで」
って言って笑ったら、ノアも笑った。

 結局「嘆きの壁」の前を通ってタバスコホステルに戻った。ノアは私に合わせてくれたのかどうか、僕も明日出発することにするよって言った。キムが積極的にとりまとめをして、私は明日の朝ノアと一緒にヨルダンに向かうことになった。

 夕食から戻って部屋に帰ろうとすると、屋上部屋の戸口の猫のママは外出中だった。そっと一匹をひろいあげたら、キムが、この前の仕返しをするように、
「触っちゃいけないんだよ」
って言った。手のひらのなかで小さい鳴き声をあげてる子猫をキムに差し出すと、キムは私から子猫をうけとって、
「ニャンコ」
って言った。私がこの数日で教えた日本語のひとつだった。キムは子猫を巣になってるスポーツバッグにそっと返し、そして私をふりむくと、
「このいたずらカンガルー」
と呼びかけた。彼はちょっと叱るような顔をしたあと、寂しげな笑顔をつくって言った。
「ノアと行くことになってよかった。これできみはしばらくひとりにならなくてすむから」

* * *

 翌朝、仔猫の様子をうかがいながら歯を磨き、荷物をつくったらもう出発の時間だった。階下に降り、チェックアウトして私たちはダマスカス門にむかった。キムのバスが出るのは国境へのミニバスが出る場所とは違っていたんだけど、
「僕はいそがないから」
といってキムは私たちを見送りにきてくれた。ダマスカス門の目の前のミニバスオフィスのカウンターでお金を払っていたらキムが、
「なにか飲みたいものはない?」
って言った。私は彼にここにいてほしくて、
「なにもいらないよ」
って言ったけど、彼がコーヒー買いに行ってしまうようだったから、
「じゃあいちごバナナあったら」
ってリクエストした。

 彼がジュース買いに行く後姿を見ていたら、急にまた涙が出てきた。彼が戻ってくる頃、私たちの乗る8人乗りのベンツタクシーの準備ができた。彼からいちごバナナジュースをうけとって飲み始めると、客がタクシーに乗りはじめた。いよいよお別れだ。ノアは、
「それじゃ、もう行く時間みたいだから」
といってキムと握手し、
「今度両親と会うときにまたイスラエルに戻って来るから、そんときできたら連絡するよ。そしたら2,3日また会えるだろ」
って言った。キムは、
「もちろん。楽しみにしてるよ。メール使えたら連絡する」
って言った。

 キムはそのあとまじまじと私の顔をみながら、
「たくさんメールを書いて。写真も送ってよ。君が嫌いだと思ってても僕がいいと思ってる写真はたくさんあるから、選ばずに送ってよ」
といい、それから私の髪に指を通して、
「きみのこと好きだよ、とっても」
って言った。涙が、私の両方の目からふきこぼれ、私が彼に同じことを言ったのはほとんど声にならなかった。私たちが頬をあわせて、
「じゃあ、気をつけてね」
ってお互いに言いあった瞬間、タクシーの運転手が発車の合図のクラクションを鳴らした。キムは最後に私を見つめて、
「またね」
って言った。

 きっと、そんな日は来ないよキム。これはスペイン人の彼女のときとは違うんだから。私たちの国は陸でつながってはいないし、たぶん私にはもうデンマークを訪れるチャンスはない。キムにだって日本に来るチャンスはないだろう。次に会える日がくるという保証なんてない。・・・ただ、そう言わなければ、いま離れていくつらさを乗り越えられないから、だからそう言っただけでしょう?キム。またね、って。

 私が乗りこむとまもなくタクシーは動きだした。さっき荷物おいていたとこに立ってると思ったのに、キムはいなかった。車庫の出口にもいない。もうベツレヘム行きのバス乗り場に行ってしまったんだろうか。そんなはずない。絶対私たちを見送ってるはずだ。振り向いたらセルビスの乗り場のベンチに腰掛けてキムはこっちを見ていた。でもキムの目は私をとらえていない。手をふっても彼はこっちを見ていない。

 窓をあけようとドアのハンドルをまわしたけど、タクシーは対向車を止まらせて反対車線へと走り出した。たった一秒でも見逃しちゃいけないのに涙があふれて見えない。キムの姿がちいさくなって建物の影にかくれた。キム。

 私はいちごバナナジュースの缶をにぎりしめたまま、タオルに顔をおしあてて、これ以上もう息を止めていられなくなるまでじっとしていた。そうして、しばらくして、涙がとまって顔をあげるとノアが私の肩をたたきながら、
「ヌーサン。なかなくても大丈夫。いちごバナナはきっとヨルダンにもあるさ」
って言って、笑わせてくれた。私はノアに感謝して、
「これはすごい貴重な最後の一本だけど、もしどうしてもほしければ少しだけ飲んでもいいよ」
って言って缶を差し出した。ノアはいや結構、って言ったあと、
「味わって飲みなよ」
って言った。

 私はノアがいてくれるから大丈夫。ノアと別れても旅のうつりゆく日々はむしろたやすく私の心を癒すだろう。キムの新しい日々もまた、彼の心を洗っていくだろう。たった1ヶ月の恋だから、2ヶ月したら忘れてしまうよキム。だけど忘れないで。金色の羽根のキム。方向音痴のキム。血が苦手で甘いものが好きで、ねぼすけでとってもそそっかしいキム。たぶんもう会えないキム。どうか彼が迷わずにベツレヘムへたどり着けますように。どうか彼がこの先幸福な出会いに恵まれますように!