聖地エルサレムへ
   ヨルダンのアンマンから、8時半のバスに乗ってイスラエル国境の橋へ向かった。国境の橋は車一台の幅しかないんで、出発するのが遅いと往来するバスがフンづまってえらい時間かかるっていう噂だった。ゆうべ2時まで、万一の衝撃からパソコンをまもるための防護策を検討していたのでまだ眠い。

 結局パソコンはホテルの受付に預けてきた。スポーツバッグの中に洋服や本をていねいに敷き詰め、パソコンがバッグの中央にくるように配置した。

 キムと私のたぐいまれなる方向音痴のおかげで、アンマンで、ダウンタウンのつもりで泊まってたホテルは、実際にはダウンタウンから2キロぐらい離れたバスターミナルのまん前だった。けど、そのおかげでホテルの客の出入りはあまり多くなく、パソコンを入れたバッグを預けていっても、なんとか無事が保証されそうな気配だった。パソコンが入ってますといって預けるわけにいかないから、荷物には「ガラスが入ってます」って札を下げて出発した。パソコンを誰かに預けて何日もどこか行くのははじめてのことだった。でもここでしずかなところに置いといてもらうのと、国境で手荒に扱われるのと天秤にかけたら、やっぱりこっちで安全を確保しといたほうがいいように思った。そう決めることで、私はイスラエルに行く決意をしたのだ。

 国境の橋を越えイスラエル側に来ると、入国手続きの雰囲気がぜんぜんちがっていきなり飛行場みたいになった。飛行場みたいに見えるのは、多分X線の検査機があるからだ。キムはここでX線にひっかかり別室によばれた。留学中に使っていたたくさんの辞書や文法書、歴史解説書みたいなやつが、X線で見とがめられたらしい。ふつうの旅行者でそんなたくさんの分厚い本を持ってるひとはいないからだ。

 別室でどんな検査があるのかみたかったので私もついていったら、ついたてだけの小部屋に入れられて扉がしめられた。キムの荷物から本が全部とりだされ、一冊一冊係員がぱらぱらめくってチェックをする。中になにかはさまっていないかを検査してる感じだったけど、
「どうしてこの本を持ってるの?留学してるの?イスラエルへは何をしにきたの?」
とかいう質問があって、ほかの荷物は検査されずにおわった。意外と簡単だったので、緊張していた私はあっけにとられた。それに国境の係官はきれいな若い女の子ばっかりで、制服すら着ていなかった。でも彼女らは実際には軍の人間なんじゃないかってキムはにらんでいた。この程度で済むならパソコン持ってきてもよかったかも、とも思ったけれど、後日会った旅行者に聞いたら、この国境でも運悪くしつこい検査官に目をつけられるとすみからすみまで調べられ何時間も待たされたというひともいるらしいんで、やっぱりパソコンを持ってこなかったことは正解だったかもしれない。


機関銃を積んだジープ
 1時間ほどで、国境からのセルビスバスはエルサレムについたと思う。私とキムはまだガイドブックを持ってなかったから、適当な門から旧市街の城壁の中にはいり右往左往していたら偶然みつけたタバスコホステルっていうホステルを見つけたのでそこのドミトリーにチェックインした。

 私たちの部屋は、建物の屋上にとってつけたプレハブみたいな小屋の中にあった。このプレハブ小屋の屋根の上はケモノ道になってるみたいで、毎夜猫の活動時間になると足音が雷みたいにひびきわたった。私たちがここに来た日、荷物を置いて外へ出かけようとしたら高いところからのしっのしっとおりてくる大きな猫がいて、キムがそれを見てなんか曇った顔をして、
「何て太った猫だろ。病気かな」
っていった。私が見て、
「赤ちゃんいるんだ。あと2、3日で生まれるんだよ」
って言ったら彼は子供みたいに顔をぱっと輝かせて、
「ほんと?赤ちゃん抱けるかな」
って言った。彼のそういう子供みたいなところがほほえましくって私はちょっとイジワルしたくなった。保護者になったみたいに、
「だめだめ。お母さんにゃんこが怒るから」
って言ったら彼はちょっとくやしそうにクチをとがらせた。

 そのあと宿からあまり遠くない聖墳墓教会をちょっと覗き、教会を出た瞬間、キムが振り返り、
「あれ、いま君が言ってたオーストラリア人を見たような気がする」
って言った。
「マットのこと?」
って訊き返すと、
「そう、クリスマスの晩にマルマル(ルナのバイト先のバー)で会った彼」
とキムが言った。マットが今ごろイスラエルにいるとは思えなかったし、たとえマット会っても彼と私は宇宙人ぐらい意思の疎通ができないので私は特に探しもしないで教会を出た。

ゴルゴダの丘に建てられたとされる
聖墳墓教会にて

 私がアジアからずっと一緒に旅してきた時計はダマスカスで止まってしまい、もう電池を入れ替えても動かなくなったから私は最近時計なしで暮らしていた。キムに、
「今何時なんだろ」
って聞いたらキムがおもむろにバッグから目覚し時計を出した。何時?ってきかれて目覚ましを出すひとっていうのは、かなり異質な存在だ。そういえば彼は初めてアレッポで会ったときも何度か私に、
「いま何時?」
って聞いたもんだった。そんとき私が、
「時計を持ち歩かないの?」
って聞いたら彼は、
「ダマスカスに置いてきたんだ」
って言ってたから腕時計を忘れてきたのかと私は思っていたんだけど、置いてきた時計っていうのはこの目覚ましだったのだ。結局彼の持ってる時計はこれひとつで、彼は腕時計はしないひとなのだった。最初それに気づいたとき、彼は時間に「しばられるのがイヤ」なんだろうなぁと私は思ったけれど、そうじゃなくて、彼は時間に「しばられることができない」ひとなのだった。彼はとってもゆっくりすすむ自分自身の時計を持ってる。そしてとてもゆっくり生きる自分の人生を持ってる。彼と2週間旅してきて私が彼について理解したことはこういうことだったと思う。

* * *

 私たちはついた翌々日にはこの宿で申し込みを受けつけているマサダツアーに参加することにした。マサダツアーの参加費はひとり$20ぐらいだった。このツアーは、早朝からマサダ山に登って日の出を見て、死海で泳いだあと自然公園でハイキングを楽しみ、さらにいくつかの聖地で写真休憩があるっていう盛りだくさんの1日ツアーだ。$20っていえば周辺国では1日の生活費を上回る、と前に書いたことがあったけど、イスラエルは別だ。特に交通費の高いイスラエルでは、エルサレムからバスで死海まで来ただけでも日本円で千いくらかかる。そんな中$20でこれだけの見所をまわってくれるツアーの存在は貴重だ。・・・だけど、唯一の欠点は出発が朝の3時だってことだった。私たちは朝に備えて前夜9時には布団にもぐりこんだ。

 さてマサダツアー当日。夜中の3時に集まってみるとバスはまだ来ていなくて、凍りつくような寒さのなか、約40人ほどの参加者はダマスカス門の前で30分ばかし待たされた。私たちが3台のミニバスに分かれて乗りこむと、バスは1時間ひたすら急な坂を下りつづけ、マサダ山のふもとに私たちを運んだ。

 マサダ山は、ツアーの申し込みのときには「30分くらいの軽い山歩きよ」って言われたけど実際に登り始めてみると詐欺みたいにキツい山登りだった。朝4時からマサダ山で必要以上の体力を消耗した私たちは、次に死海のほとりへと運ばれてきた。いくら標高800mのエルサレムからマイナス400mの死海まで下ってきたとはいえ、まだ時刻は8時くらいで時期は1月だし、寒風ふきすさぶ中水に入るなんてジサツ行為に思えた。でも死海で浮かぶっていうのは、言ってしまえばこのツアーのハイライトだ。このために私たちは水着もバスタオルも用意してきたのに尻ごみして水に入らないで帰ったら末代までの恥。これからまだ数ヶ月イスラエルにいるキムは、今日ここで水にはいるってことにさほど乗り気じゃなかったけど私にとっては死海に入るのは、多分これが一生に最初で最後のチャンスだ。私はキムをひっぱってビーチにおりたった。

 死海のフチに立って水の温度をたしかめたら、気温の低さに比べて水温自体は決して低くはなかった。私とキムは水着に着替え、しずしずと水にあゆみよった。だけど大変なのは温度じゃあなかった。岸辺が結晶した塩で針の山になってて、容易に近づくことができないのだ。死海は海といっても湖だ。ところが湖のくせに立派に海並の波がある。キムはこの波に翻弄されて塩の針山の上ですりおろされ、一旦は水に浮かぶのは断念した。でも私はここでひきさがる気になれなかった。すでに何人かのひとたちが死海の写真みたく浮かんでいたからだった。ほかのひとたちの真似して波の弱いところから思い切ってアプローチすると、ドボンと粘液のなかにおちたような不思議な感覚で死海は私をつつみこんだ。塩分濃度37%という濃い塩水から、空中に押し返されるように浮かびながらキムを呼ぶと、キムは思いなおしてケガした膝を押さえながら再チャレンジし、ついに私のヨコにならんで浮かんだ。私たちは波にのってぷかぷかと浮かび、手足を水の上に高く突き出してはしゃいだ。彼がうつぶせにおよぐと彼の羽根が波にそよぎながら朝の光にまたたいてキラキラとひかった。私はぶつかったついでに何度か彼の羽根にさわった。


 水からあがって着替えを済ませてみると、キムのケガは結構ひどかった。キムは血をみると気を失ってしまうって聞いていたから、そっぽを向かせて私は手や膝のケガを手当てした。キムの手に絆創膏を貼りながら、 「キム、羽根があるんだね」
って言ったら、彼は、え?って聞き返した。
「背中に羽根があるんだね」
っていうと、彼は、
「ああ、毛のことね」
って言った。
「どうして羽根って呼ぶの?」
って彼が聞くので、
「だって金色でキレイだし、羽根みたいなカタチだし。」
っていうと、
「キレイ?僕のいままでつきあった子もこれだけは好きになれないって言ったよ」
って彼は不思議そうにした。

 死海の次はエンゲディ自然公園だった。元気のいいツーリストたちはまだあちこち歩き回って丘の上から大きい滝を見にいったりしていた。なまけもので運動不足の私たちは、途中の小さい滝を見て、藪の中にロックハイラックスっていうねずみみたいな動物を見つけたらそれでもう満足し、あとはのんびり散歩したり写真とったりしていた。自然公園のあと、さらにジェリコの街や、峡谷にたてられた僧院なんかで写真をとり、最後にオリーブ山からエルサレムの旧市街を見下ろしてツアーが終わった。私たちはくたくたになってホテルに戻り、その晩はビールも2本ぐらいしか飲まないで前夜より早く部屋にひきあげた。


エンゲディ自然公園

 エルサレムの町のなかはとっても寒かった。マサダ山ですっかり筋肉痛になった私たちは、毎日気温の上がり始める昼頃まで寝ていて、起きるとのらりくらりと階段を降りて下のティールームで食事をし、2時くらいから観光に出かけた。観光といっても岩のドームやその他の名所の入場時間は早ければ午後1時半までとかで、遅くても4時くらいまでには閉まってしまう。私たちはよくて1日に1個の名所を観光したり、あるいは寺院や教会を外から見るだけで満足した。私たちはおしゃべりしたり、街の中にいる猫にちょっかいかけたりして、繰り返し同じところを散歩した。私たちはときどきキリスト教やイスラム教の歴史について話したり、ときどき恋愛について話したりして、脈絡なくぽつりぽつりと言葉を交わしながら歩いていた。

 旧市街の石畳を歩きながら一度彼に、
「帰ったらなにするの?」
って訊かれたことがある。それは定番の質問だ。いままで何人もの旅行者のひとたちから訊かれてきたことだけど、私はいまだにそれに的確な答えが出せずにいる。日本の経済的な状況はいまでも決していいとは言えないみたいだし、年令も30才になっちゃった。この1年遊んで暮らしてるし、それらは、決して再就職に都合のいい条件じゃない。
 プログラマとして伸びなくて仕事をあきらめたんだから、同じ仕事につきたくはないんだけど、これが私にとって唯一経験のある仕事だってことにはちがいなかった。
「たぶん、派遣会社にでもはいってプログラマをもう一度やるんじゃないかな。私にとって、スキルが伸びないってことが一番のプレッシャーだったから、ほんとはプログラマはもうやりたくないんだけど・・・。」
そう言うとキムはちょっと気の毒そうに、
「そう」
って言った。
「旅の生活は楽ちんだからいいな。やらなくちゃいけないことは移動することと、新しいことを知ることだけだもん。ホームページつくったりとかはしなくちゃいけないけど、それは仕事ってんじゃなくて、楽しんでやってるだけだしね。
 私ほんというとね、帰ること考えるとちょっと気が重いんだ。日本にいると、考えないといけないことすごく増えるから。面接もして、仕事みつけて、みつけたら毎日働いてさ。家もあたらしく探さなくちゃいけないし、ちゃんとした服も買わなくちゃいけないし、人付き合いとかもめんどくさいしさ」
自分が後ろむきなことを言ってるって分かっていたけど、私を非難したりせず、黙って聞いててくれるキムに、私はちょっと甘えたくなってしまってたのかもしれない。キムは私のグチを聞きおわると、
「でもきみはコンピュータできるから、どんな仕事でもあるよ。僕はコンピュータにはまったくうといからうらやましいよ」
って言って励ましてくれた。それからキムは、
「それに旅の生活が楽ちんって言えるなんて君すごいよ」
って言った。
「僕のデンマークの生活はとってもイージーなんだ。デンマークでは大学の学費は政府もちだから、僕は勉強して、ちょっとバイトして、時々友達と飲みに行ってのんびりやってられるっていうせいもあるんだけどさ。
 もちろん学費は政府もちって言ったって、それは税金から支払われるわけだけど、僕の友達なんかは『おまえは勉強しろ。仕事は俺がやる』って言ってくれるし。僕は学生の生活が気にいってるしね」

「キムのお父さんたちは『いい年なんだからそろそろ勉強なんかしてないで働け』って言わないの?」
って私が訊くと、
「いや、父はむしろ僕がこころゆくまで勉強できることを望んでるみたい」 って彼が言った。彼のお父さんの就職当時にはイキのいい労働者はとても歓迎されたんで、彼のお父さんは上の学校に進まず若くして働きはじめたらしい。
「だけどデンマークが不景気になってリストラに遭ったあと、父はとっても苦労したんだ。父は年を経てからも、もっと勉強したいって切に願っていたから、僕が新しいことをいろいろ学んできて知識のおすそわけをするととても喜ぶんだ」
って彼は言った。キムの語るお父さん像はうちの父とよく似ていた。うちの父も「若い労働力は金の卵」といわれて若くして働き始めたけど20代になってどうしてももっと勉強したいという気持ちが高まり、働きながら夜間の学校に通った。私が大学で学んできたことを何よりも知りたがったのは父だったし、コンピュータの会社に就職してパソコンのことに詳しくなってくると、実家に帰るたびにおたがいに新しい知識を交換しあった。

 キムはどっちかっていうとお母さんの家系の血を濃く継いでいて、彼がちいさかったときはお母さん方のおじさんの子供時代に生き写しだったそうだ。
「僕の母の家系はどっちかっていうと小柄で太りやすくて毛深いんだ。いや、もちろん母は、毛深くないけど」
って彼は言った。彼はふと私に目をとめて手のひらを私の頭のてっぺんあたりにかざすと、
「僕のお母さんはちょうどこのぐらいの背だよ」
って言った。彼のお母さんは甘いものが好きで、実家の車を借りると必ずケーキの包装紙が2つ3つころがってるらしい。レバノンにいたときに何度か、
「ねえ君アイス食べたくない?ほんとに食べたくない?」
って言われて彼にアイスやに連れ去られたことを思い出した。それから、家族で車で出かけると、走り出して5分もしないうちにバッグからシュークリームやビスケットを出してすすめ始めるうちの母を思い出した。

 彼の方向音痴でうっかりやなとこもお母さんゆずりなんだと彼は言った。あるときお母さんが運転する車で出発しようとしてなかなかスピードが出ないもんで、キムが、
「もっとスピード出してよ」
って言ったらしい。そしたらお母さんは、
「おかしいわねえちゃんとペダル踏んでるのに」
って言ったけど、彼がたしかめたらお母さんは一生懸命クラッチペダルをふみこんでいたそうだ。

 これと似た、クラッチにまつわるエピソードがうちの母にもある。まだ結婚する前、母が父とドライブに行こうとしてしばらくぶりに運転させてよって言ったらしい。母は運転席にすわるなり父に、
「どれがクラッチだっけ」
って言ったのだ。父はそれを聞いて全身の毛が逆立って、母が齢五十にしてもう一度教習所に通うまでの間、ふたたび彼女にハンドルを握らせることはなかった。

 彼は私ととっても似たような家庭環境で育ったみたいだった。彼といるとなぜかおちつくのも、もしかしたらそんなことが関係していたのかもしれなかった。

 どこか出かけると、それが前に通ったことある道でも、彼は絶対にホテルに戻る道を見つけられなかった。私は自分自身が方向音痴でありながらときどき道案内役を買って出た。そう、たまに学者肌のひとで、どうしても世間と同じように行動できないひとっている。彼はまさにそんなタイプだった。ここまで暴露してしまうと彼が気をわるくするかもしれないけど、実は右と左をすぐに区別できないというのが彼のひとつの悩みだった。
「ときどき考えちゃうんだ。僕は30にもなろうっていうのにどうしていちいち手を差し出して握手するところを思い浮かべないとどっちが右手かわからないんだろう、って」
彼は、ほかのひとが悩むようなところでは悩まない。だけど、ほかのひとが絶対悩まないようなところでつまづいてることもある。そんなところがおかしくて私は笑いころげた。

 そうやって笑い転げながら、わたしはなんとなく、なぜ彼に羽根があるのか、わかったような気がしていた。彼はとても不器用で、方向音痴でうっかりやさんだけど、学ぶことにかける深い情熱と、そしてそのためにささげる努力は誰にもまけないものがある。彼には必ず戻るべき自分の生き方があるから、ときに彼が自分の道を見失うことがあっても、彼は最後にはかならずその金色の羽根をひらいて高く舞い上がり、自分自身の人生へと戻っていくことができるんだ。金色の羽根は、彼が彼の生き方をまっとうできるよう、多分神様が与えたものなんだろう。

* * *

 彼のボランティアの仕事先は、イエスが生まれたとされるベツレヘムの近くのベツ・サフールという町にあるっていうことだった。そこの責任者はまだ彼に採用通知のメールをくれず、彼は少しいらだちはじめていた。イスラエルについて数日してもまだその返事がないのを見てキムは、
「どうなっちゃってるんだろう」
ってつぶやいた。
「もし仕事が決まらなかったらどうするの?」
私が訊くと、キムは、
「そうしたら君と一緒にヨルダンに戻って、エジプトまで一緒にいっちゃおうかな」
って言った。
「そしたらレバノンもいれて1ヶ月半くらい一緒に旅行することになるね」
っていうと、
「そうだよ。今ですでに3週間も一緒にいる。3週間も一緒にいたら、もうほとんどつきあってるみたいなもんだね」
彼が言った。

 私たちは、いつ終わるともしれない宙ぶらりんな毎日を、観光してるふりして過ごした。たいして見たものがなくても、出かけてしばらくすると日がくれ、道にまよいながら宿に戻る頃にはすっかり寒くなっていた。私が寒さで無口になりはじめると、キムは私の手をとって、自分のジャケットのポケットにいれた。キムが、どういうつもりでそうしてるのか、聞きたい衝動にかられながら、私はどうしても聞くことができなかった。