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金色の羽根のキム
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起きてすぐイヴァが、 「二日酔いだ〜」 とつぶやく。キムが、 「あれからどのぐらいで帰ってきたの?」 って聞いたら彼は、 「ん、1時間くらい・・・でももう朝だった」 って言っていた。
私たちは元旦からマクドナルドで朝食だか昼食だかをとった。ベイルートの元日はあったかで、海は青いし海岸線に植えられたやしの木は緑の葉をのびのびと茂らせている。イヴァが上着を脱いで半袖になりながら、
コニシ通りを歩きながら写真のためのベストスポットを探し、適当なところを見つけるとキムは岩場に下りた。暑い雰囲気を演出するために、からっぽなのにわざわざ持ってきたマクドナルドのジュースのカップをヨコに置き、彼はTシャツと靴下を脱いで岩場にすわった。そのうしろ姿に私の目はくぎ付けになってしまった。
シリアとレバノンの間には現在3つの国境が開いている。1つめは海沿いのトリポリ=ラタキアライン。2つめはベイルート北部にあるバールベックからシリアのホムスに抜けるライン。そして3つめはベイルートから最短距離でダマスカスに戻るラインだ。この最後のラインは私たちがベイルートに来るとき通ってきたルートで、ほんとなら私もここを通りたいところだった。
ところが3時間ばかりうつらうつらしたりしていたらキムが「変だな」って言い出した。窓の外に海が見えている。どうやら海沿いの道をきてるみたいだ。ベイルートから海沿いで3時間も来ちゃったら、海沿いのトリポリ=ラタキア間の国境をとおってしまう。そういえば昨日イヴァがデンマークの実家に電話していたときに「レバノン北部でテロがあったってニュースで言ってる」ってご両親が心配していたらしい。もしかするとそのせいで、バスは迂回して勝手に海辺のラインを来てしまったのかもしれなかった。
やがてバスの添乗員がやってきてピンク色のレバノンの出国手続き用紙をくれた。やっぱりもうすぐ国境なんだ。25ドル払わされる海沿いの国境。何のために遠回りして最短コースを避けて北部に来たんだろ。でもいまさら引き返す方法もない。私たちはあきらめてレバノンの出国手続きをした。
つづいてバスに乗ってシリアの入国手続きにたどりつくと、バスの添乗員がやってきて私たちにまたレバノンの出国手続きのピンク色の用紙をくばった。あれっこんどはシリアの入国手続き用紙をくれなくちゃダメでしょう?普通なら突っ返すところだったけど、キムがとにかくこれに書こうというんでなんとなく書いてしまった。私たちはバスの添乗おじさんに連れられてシリアの入国手続きにいき、パスポートとそのピンクの出国手続き用紙を出した。
そしたら係員のおじさんはパスポートと出国用紙にはんこをぺたぺたんと押してよこした。なぜだか再入国ビザ料金についてはなにも言われない。私たちのビザを、複数回入国できる「マルチエントリービザ」と勘違いしたのか、それとも再入国にはビザ代かからなくなったのか・・・でも聞くだけ野暮だ。思い出さないでくれるならそのほうがよかった。
そっと窓口をはなれようとしたら添乗員のおじさんが私たちを呼びとめたので、一瞬「やっぱり払うのかな」と思ったけど、おじさんは別の窓口でほかのひとのパスポートを受け取るあいだ待てって言っただけで、それを受け取ると私たちをつれてバスに戻ってきた。
地元のひとたちが税関で荷物の検査をされているけど私らの荷物はバスに乗ったまま税関を通過してしまっていて、私たちはカスタムの横を歩いて通りすぎただけだった。さっき入国手続きのためバスを出る前に、税関でパソコン見つかって申請しろとか言われたらめんどくさいと思って、パソコンを覆うように服とかをぐちゃっとかぶせておいたけど意味なかった。
バスはそのまま走り出し、もうホムスまで停まることはなかった。何かの間違いだったのか、それともなるべくしてなったことなのかわからない。とにかく私たちは25ドルどころか5ドルすらも免れてしまった。
国境を過ぎたあたりで、キムはうしろのシリア人のおじさんから、
不思議に思ってる私に向き直って、彼はなんか決心したように、
それはちょっとショッキングな告白だった。
イヴァはまあ気難しいところはなかったけれど、例によって家事が苦手なので、回り持ちでしなくちゃいけないことに支障をきたしたりもしたらしい。これはキムから聞いた話だから、キム自身のことは聞かなかったけど、キムはあのとおり人あたりのいい性格なんで、私を誘ったみたく誰かを招待しちゃったり、ほかのひとたちがゆっくりしたいときに近所の子供たちや知り合いを招いたりして彼らの不評を買ったこともあったんじゃないかと思う。彼らは冬のはじめに彼らは別々に住むことを決意し、1月の上旬にはそれぞれ引っ越していくことになったのだそうだ。
ルナは知り合いのシリア人の家に住ませてもらうことにし、イヴァは前から興味を持っていたイスラム教シーア派教徒の多く住む地域の、バストイレやキッチン共同のアパートへ移ることになった。デビッドはひとりで住むのにちょうどいいアパートを見つけたと言っていた。キムもそのままダマスカスに住むことも考えたけれど、そんなときデンマークの友人から「イスラエルでボランティアとして働いてみれば」という誘いを受けたらしい。
まだアラビア語をしばらく使い込まないとモノにならないと思っていた彼にとってそれは朗報だった。イスラエルはユダヤ教徒のひとたちの建国した国といっても公用語にはアラビア語も入っている。このボランティアっていうのは、デンマークのキリスト教団体が出資する学校で子供たちに英語を教えたり、体の不自由なひとの手伝いをしたりする仕事で、食事や住まいを心配する必要はないし、月々わずかだけど手当ても出る。現地のひとたちと話せばアラビア語を訓練することもできる。彼はこのボランティアに志願した。
「まだ返事は来ていないけど、志願者がそんなに大勢いるとは思えないし、彼らが志願を却下する理由は思いつかないから、多分僕はそこで働くことになると思うんだ。もし君がイスラエルに行くんだったら一緒に出発して、仕事がはじまるまで少し観光できたかもしれないんだけど」
彼のこの勇気と情熱はどっから出てくるんだろう。私なんかにしてみると、留学してほかの国に住むというのもずいぶん勇気がいることのように思えるけど、こんどは知り合いもいないイスラエルに移りボランティアの仕事・・・。彼はなんでもスマートにこなすひとじゃないんだ実際。その彼がどうして故郷からこんな離れたアラビアでつぎつぎと居を移し、目的に向かってまっすぐに進んでいけるんだろう・・・。
でも、もし道連れがあるとなったら旅の趣はまったく変わってくるに違いない。私はイスラエルについてはもう一度検討することにして、少なくともヨルダンまでは、彼と行動を共にすることにした。
バスはそのあとも数時間走り、結局9時頃にダマスカスについた。
レバノンから戻るとイヴァが、
ふと気づくと、デビッドはもう新しいアパートに移っていったあとだった。ちょっと気難しいところもあるひとだけど、やっぱりムードメーカーの彼がいなくなるとさびしい。
それから数日の間にキムのアパートはあわただしくかたづいていった。夜遊び好きなルナは、知り合いの家にころがりこむ計画を見直してアパートを探しはじめ、少しずつ荷物をかたづけはじめていたし、イヴァも移動の準備を着々とすすめていた。調理器具とかお皿やカップの類は、ダマスカスにこのあとも住みつづける3人で均等に分けられ、2,3日うちには台所の食器はほとんどなくなった。キムが冷蔵庫のなかの、クリスマスから残っていたサラダとかテリーヌなんかをごみ箱にかたづけ、キッチンの棚の上でちっこい魚が泳いでいた金魚鉢はデビッドが新居に持っていった。私はここにずっと以前から住んでいたかのようにさびしい気持ちに襲われた。
お別れパーティみたいなものが計画され、ルナを除く3人に私が加わって、デビッドの家に集まってビーフステーキを焼き、彼らの好物のバネーズソースをかけて食べた。デビッドの新しい家は、かなりいい家だった。ただし、雨が降るとルーフテラスから水が流れてきて居間に小さい川をつくって玄関にある排水溝に流れ込むってことや、どんなにきっちり閉めたつもりでも20分くらいたつと居間の扉が勝手にギイと開いちゃうことを除けばだ。毎月1万円で、10畳くらいある居間に3畳くらいあるキッチン、6畳くらいある寝室と、ルーフテラスがあるアパート。確かにこの条件はよかった。特に「僕んちは本物のトイレがあるんだ」っていうのが彼の自慢だった。今までのアパートはアラブ式、つまり和式みたいなトイレがついていて、バケツに水をためて流す手動水洗だったから、彼はどうしてもなじめなかったらしい。
イヴァもいなくなるとキムのアパートはがらんとしてほんとに寂しくなった。そしていよいよキムの番だった。最後の晩、例によってルナ以外の全員が集まって、近くに住んでる知り合いのスウェーデン人の教授のうちに挨拶に行った。そこで一杯ひっかけたあとキムのアパートに戻ってきて、イヴァとデビッドは最後の荷物をひきとると、キムとデンマーク語で何か話し、お互いの肩を抱いて別れを惜しんでいた。
もめたりしたこともあったかもしれないけど、やっぱり一緒に学んできて、一緒に暮らしてきた3人だ。やむを得ず別れることになったとはいえ、私にはわからない絆が彼らの間にはあるんだ。彼らは日常の瑣末なことでこの絆が崩れてしまうことを恐れて別れることを決意したに違いなかった。彼らの別れの挨拶を見ていたら、彼らが決してせいせいしてるわけじゃないことがわかった。それで私は少しだけ安心したのだった。
彼らは、それから順に私のアタマを右の胸に抱くようにして、
翌日、私とキムはヨルダンに向けて旅立った。
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