| 旧日本軍の生き残り | |||||||||||
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クアラルンプールから2等寝台に乗ってバタワースという駅までやってきた。寝台車は日本でも乗ったことがなかったから、そりゃあもうエキサイティングだった。そういえば高校の頃、一度寝台車で旅行してみたいって計画をたてたら、寝台車はあぶないからって止められたことがあったっけ。その親がいま同じ娘を世界一周に出してるんだから人生ってわからないもんだね。
私は背が150ちょいしかないので、ベッドの大きさも余裕。とっても快適な旅だった。ただし、チキンサンドを食べてたら、においにつられてやーなムシが集まってきたことをのぞけば。
バタワース駅からペナン島はフェリーで10分。港はまだ真っ暗だった。
ここの受付のおじさんを、私はどうしても忘れることができない。暑いので上着を脱いでて、見事な太鼓腹の上に、私の倍くらいありそうな大きい胸がのっていた。見てはいけない、見てはいけない、って自分に言い聞かせるんだけど、こわいもの見たさっていうのか、どうしても目がいってしまう。頼むからブラだけでもしてくださいって、心の中で唱えながらほかのホテルをあたった。
しらじらと明けてくるペナンの町、ジョージタウンは全体が中華街っていう感じだった。ほとんどの店が漢字の看板を掲げてるし、中華風のお寺の門がちらほら見える。中華街の一帯を取り囲むように高いビルが建っていた。ペナンってビーチリゾートだけかと思っていたら、こんな都会だとは知らなかった。どうりでインターネットのアクセスポイントがあるわけだ。
さてホテルを決めて、ひと休みしたら街へ出る。ああ、ここで歩きすぎなければ足のマメが治るのに。でもだめだ。まだ朝早いので、至る所で朝市をやっていて楽しすぎる。魚やエビが、今にも腐りそうな状態で置かれている。3歳児ほどもありそうなジャックフルーツがゴロゴロころがっている。
![]() ジャックフルーツ
生きたままの鶏も売られていた。生きたままならべておけば腐らないからかもしれない。鶏の首をかき切るところを初めて見てしまった。絞めるんじゃないんだなぁ。のどぼとけを切られてポリバケツに入れられてもガタガタあばれている。なんか壮絶。それよりどうでもいいけどオジさん、私は観光客なんだから丸のままの鶏を勧めるのやめてくれる?観光客に見えないのかな?観光客なんか来ないの?それとも、観光客でも丸のままの鶏を買ってくことがあるのだろうか。
午後、この島で有名なビルマ寺を見ておこうと思って出かけることにした。ホテルの受付の男の子は「こぶたパワーからバスが出ているよ」と教えてくれた。えっ、こぶたパワー?
こぶたパワーからバスに乗って、15分くらいのところにビルマ寺はあった。そこはおもしろいとこだった。何がおもしろいって、道をはさんだ向かいにタイ寺があるのだ。ビルマとタイは何世紀にもわたって侵攻を繰り返してきた間柄だけに、その対立をマレーシアにまで持ち込んで、両方で豪華さを競ってるような感じがおかしかった。ここで勝敗をつけるとすれば、私はビルマ寺に軍配をあげたい。タイ寺は大きな寝釈迦仏があるのに、そこでは写真をとらせてくれなかった。ビルマ寺は、大きさでは負けるけど豪華さ抜群の金ピカ大仏があって、こっちは写真をとらせてくれたから。
ビルマ寺の庭には池があって、ちょっとエグいものが回っていた。天女なんだけど、まわりに碁石を入れるような器がいくつもニョキニョキ出ていて、それぞれに「幸せな結婚」とか「蓄財」とか「安全な旅行」とか書いてある。この器にお金を投げて、中に入れば願いが叶うと。ふーん、と思っている間に手はポケットの小銭をさぐっていた。1枚投げた。はずれ。また1枚。はずれ。ぬぬっ手ごわい。一番少額なコインからなくなっていって、私は思わず我を忘れ、有り金全部投げそうになった。結局一枚も入らなかった。
・・・時は流れて2日目のこと。
ホテルの下はレストランだった。ここでごはんでも、とのぞいていたら、そこに座っている、白いアタマの現地人のおじいさんが「おーかーけーなーサイっ」っと席を引いてくれるので、勧められるままにその席にかけた。
おじいさんは現地人じゃなかった。彼は入れ歯をもぐもぐさせてから、喋りにくそうに「ワタシ、ニホンジン!タイヘイヨウセンソーのヘータイサンっ!」と言った。日焼けした肌からはわからなかったけど、おじいさんは太平洋戦争で派遣された日本兵の生き残りで、終戦後に帰国しなかった、紛れもない日本人だったのだ。御歳80ということだった。
おじいさんは若狭湾の近くで生まれ、18までそこで育ったという。戦争が始まってまもなく、暁2944部隊の一員として海南島(シンガポール)に派兵された。彼は5歳で父を失い、11歳のときには母をなくしていた。戦時中に兄、弟、妹も全てなくなった。そうして、戦後は身よりのない日本に帰ることを選ばず、「シナ人のヨメサン」をもらって海南島に残ったのだそうだ。
それからは「フネ」の「ニンジンのシゴト」(ニンジンを輸入する仕事らしい)をして、働きづめに働き、息子ひとりと娘二人を育てた。息子はシンガポール大学を卒業してエリートになった。いまは、下の娘とペナンで平和な老後を楽しんでいるが、祝いごとの日には、息子や孫や曾孫の顔を見にシンガポールに行くこともある。私が飲み物を頼もうとしたら「ワタシ、オカネ、タクサンヨ!心配ナイ」と言ってコーヒーをごちそうしてくれた。
お礼に写真を撮って、「送ります」って言ったら、身分証明書を出した。そこにはCHUNG TAI POHって書いてあった。日本の名前はなんですかって聞いたら、「うーむ」っと考えてから、こういった。
それは少将大和さんって呼ばれてたってことではないんだろうか。少将っていう位があるのかどうか知らないし、二十数才でそういう地位になれるのかはわからないけど、少なくとも「ショーショーヤマトーサン」っていう名前の日本人はいないだろう。
おじいさんはほとんど日本語を忘れていて、カタコトの日本語を総動員して自分の歴史を語った。太平洋に軍艦200隻が沈んだこと、山下大将のこと。
おじいさんの日本語は、わかりにくかったけれど、それはあとから学んだという日本語じゃなくて、たしかに話していた言葉の面影を残していた。「シナ人」とか「マンシュ」とか、私が祖母から聞いたことがある、いまでは使われていない言葉や地名がたくさん出てきた。
それから彼は、日本のふるさとについて語り、ふと遠い目をして、「ナチュカシィ」と言った。そんな言葉を憶えているのは、故郷を離れて60年の間、その言葉を胸の中で繰り返し繰り返しつぶやいていたからに違いなかった。
おじいさんはいま80にしては元気カクシャクを通り越して元気ハツラツとしていて、動作は機敏でなめらかだった。出発する前に、インフルエンザが猛威をふるって、どこそこの病院でお年寄りが何人亡くなったなんていうニュースがあったのを、ふと思い出してしまった。日本で病院に入っているお年寄りと彼を比べることはできないけど、彼のこの健康さはどうだ、と思わずにはいられなかった。彼の健康さが彼の人生の幸福さを示すものではないけれど、彼の現在のこの豊かさはどうだ、と思わずにいられなかった。
おじいさんと会った経験について、私は自分の感じた気持ちをうまく言葉に表すことはできないけど、なんかしみじみと、ああ、こんな人生もあるんだなあ、と思った。いいなあ、とも、かわいそう、ともつかない、それは微妙な感覚だった。異国で骨を埋めるっていう、またひとつ別の人生のあり方を、ここで私は知ったのだった。
![]() チュンタイポーおじいさんと。
実は、あんまりバカなので詳しく書きたくないんだけど、クアラルンプールで70リンギットくらい入ったお財布を落としていた。スウォッチを買ったときにもらった札入れだった。血のにじむ思いで手に入れた(献血をしたら記念にもらった)、ちょっとレアなカード電卓も入ってた。
ジョージタウンの夜は、外に屋台がいっぱい出ていて楽しい。屋台でかき氷やゴマ団子を食べたあと、部屋代を払ったら手元に22リンギットしか残らなかった。日本円にして700円くらいだ。もうそろそろタイに行こうと思う。手元にお金がちょっとしかないと、電波少年みたいでドキドキするのである。
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