ホタルの里のできごと
 朝からインターネットカフェに行ったらイヤなやつに会ってしまった。
「やあ、この前もうペナンに発つって言ってたじゃない?」
 この男は、クアラルンプールに到着した初日にこのインターネットショップで会って、ひとこと目に「きみ、結婚してんの?」って聞いた、ガーナ出身のアフリカ人だ。このまえも「お茶しない?」って言われて「忙しいから。明日ペナンに行くから」と断った。でもそのとき、ちょっと送信のテストをしたいっていうんで、使ってない方のメールアドレスを教えてあげちゃったら、総行数50行にも及ぶメールを書いてきて、「きみが心配するのはわかるけど、ボクは日本人の友達がほしいだけなんだ」と延々。

 ただ友達になりたいひとがひとこと目に「結婚してんの?」って聞く?もちろん返事は書かなかった。だから会いたくなかったんだ。
 男は「いま時間ない?ちょっとでいいから話がしたいんだけど」とまたしつこい。
 私は英語がぜんぜんわからないフリをして、
「スケジュール、変エル。ワタシ、今日、クアラルンプール、サヨナラ」といって逃げ出した。そうそう。それは本当だ。だって、今日はホタルを見にいくんだから。

 ホタルの里っていうのは、本当はカンポン(村)クァンタンっていうところで、クアラルンプールからバスでは2時間くらいの、クアラセランゴールという町のはずれにある。実はこのまえJalanJalanの山森さんと夕食に行ったとき、(できごと日記「JalanJalanを知っていますか」参照)ここはものすごくいいですよって教えてもらったのだった。一年中、いつ行っても、何万匹っていうホタルが見れるという場所だった。

 クアラルンプールの宿に大きい荷物を置いて、長距離バスターミナルまで、市内バスで行った。ほんのさきおととい、途方に暮れていた場所とは思えないくらい、どっしりと落ち着いてたどりつくことができた。地元のバスに乗れると、なんだかもう一人前っていう気分になれる。バスに揺られて2時間くらいでクアラセランゴールについた。バスターミナルしかないような町だった。ホテルもターミナルの一角の、長屋の一部を使った安宿が2軒あるだけ。

 でもまさか!ちょっと離れたところににぎやかな通りがあるんじゃない?と思ってその一角を一周しようとしていると、変な男につかまった。白衣みたいな服を着て、身長はわたしと同じくらいしかなくて、片手に新聞を持っていて、「きみは日本人か?日本の日本人か?俺はカリフォルニアの日本人だ。」とか勝手にしゃべる。カリフォルニアって、あのアメリカのカリフォルニア?でもカリフォルニア出身にしては英語がおかしいし、日本人にしてはひとことも日本語を喋らない。

 ガイドの押し売りだろうと思っていたら
「ホテルを探してるのか?チャレに泊まれチャレに。」
男はどんどん歩き出す。
 バスターミナル前の長屋の安宿に泊まろうかと思いかけていたんだけどなー。あ、看板が出ていたシャレーか。歩いて行ける距離なら行ってみようかと思ってついて行ってみた。10分くらい歩いて不安になってきた頃、その「チャレ」に着いた。広々とした敷地に、さわやかなグリーンの、平屋建ての建物が建っていた。

 シャレーは悪くなかった。1泊1100円くらいで、エアコンまでついていた。12畳くらいの広々した部屋に2段ベッドが2つとダブルベッドが1個置いてあって、最初共同部屋かと思ったくらいだ。ここをひとりで使っていいんだって。どうもこのシャレー、普段は地元やクアラルンプールの学校の、クラブとかの合宿で使われるみたいで、離れの建物には中学のサッカーチームの子供がぎっしり泊まっていた。

 シャレーのダンナは企業の研修で20年前に日本にも行ったことがあり、きれいな英語を話すひとだった。「ホタルを見に行きたいなら、送迎サービスもしてあげられるよ」と言ってくれた。廊下が暗いのが気になったけど、部屋が明るく、イヤなにおいがしないからここに決めた。

 ただし、部屋については、あとから気づいたんだけど、おおきなワードローブの後ろにドアがある。これがちょっとイヤだった。開けられないようにしてあるドアは、なにか開けちゃいけない理由をいろいろ想像させるからだ。

 例の男は外で「じゃあこれから観光に行こう」って待っている。なんか、親切で言ってくれてるというより、せっついてる感じだ。やっぱりガイドの押し売りかもしれない。ここで断っておかないとあとあとめんどうになりそうだなあと思っていると、宿のダンナが気をきかせてか、
「彼女は部屋で寝るってさ」とマレー語で言ってくれたらしい。
カリフォルニア日本人「ベリー」は振り向いて
「ええっ、きみ寝たいのか?いまから?」と私の顔色を見た。

「疲れてるからひと休みするんで、ごめんなさいね」
って言ったら、ベリーはすごく気を悪くした感じで、落胆して去っていった。ベリーはそのあとも、私が昼寝していたらまた訪ねてきて私をたたきおこし、
「ホタルはいつ行くんだ。俺が連れていかなくてもいいのか」とせっついた。
「宿のご主人が連れていってくれるから」と断ると、
「なんか問題はないか。もし問題があったらバスターミナルのところに来て何でも俺に言えよ。ちからになってやる」とかなんとか恨めしそうに言って、またしょぼくれて去っていった。

 宿のダンナが
「あの男はどうして知り合ったんだ?」といぶかしげに尋ねた。
「バスターミナルの前でホテルをさがしてたらあのひとが来て、勝手につれてきてくれたの。あのひととあなたは友達なんじゃないの?」といったら、ダンナは
「とんでもない。あいつ、どっかいかれてるな」と、アタマのヨコでユビをくるくるしてみせた。


宿のダンナ、シャリバンさん

 8時頃に、スコールがやってきた。ホタルは手こぎの舟で川を上りながら見るので、大雨だと舟が出なくて見れないおそれがある。心配しながら行ったら雨は小降りになり、なんとか舟も出るようだった。舟は4人のりなので、ほかのお客を少し待っていたら、むこうから異常に大きな傘っていうか、パラソルをさしたひとが来た。

 その人の顔を見たら日本人で、仕事でクアラルンプールに来ているビジネスマンの須賀さんというひとだった。須賀さんの名誉のために言っておくと、その異常に大きい傘は彼がさして来たんじゃなくて、タクシーの運転手が貸してくれたのだそうだ。彼はここのホタルの話を聞いて、クアラルンプールからの道のり、タクシーをとばして来たのだという。もう、これ以上待ってもちょうど1人のお客なんて来そうもなかったので、3人で一艘の舟に乗り込んだ。船頭さんが櫂を巧みにあやつって、音もなく舟が動き出す。

 ホタルってもっとポーッ、ポーッと光るものだと思っていた。
 ここのホタルは惜しげもなく、ビカビカと光っていた。雷雲でやや白んだ空に、漆黒の枝を広げるマングローブの茂み。その枝々の中に銀河を描くホタル。遠い空ではまだときどき雷が鳴っていて、夜空を稲妻が走り、川面を照らした。その効果っていうのは、本当に、ひとが作り出すいかなる効果も超えてるっていう感じだった。

 晴天の夜のほうが、蛍はもっと多いし、きれいだと宿のダンナが言った。でも、十分。十分すぎるくらい。ホタルの光は限りなく白くて、木々の枝にプラネタリウムを映したように明滅していた。虫の、吐息まで聞こえてきそうな静寂のなか、手こぎのボートは進む。宿のダンナがホタルの一匹を捕らえて私にくれた。手のなかにそっと受け取ってのぞき込む。ホタルは1センチくらいの、こっちのお米の粒のような細長い形をしていて、淡い光をともしている。

 手を開くと、ホタルはふわりと飛んで、須賀さんの開いたパラソルにとまり、そしてふたたび星になった。それは心の奥深いところまで届く明かりだった。心細げに点滅を繰り返すホタルがたまらなく愛しく思えた。いまここでこれを見ていることに手を貸してくれたすべてのものに感謝せずにいられないような、安らかな気持ちにさせる光だった。

 茫然としているうちに舟は川を上って下って、舟着き場へと戻ってきた。そして茫然としている間に一日が終わった。宿に戻ってベッドに寝転がって、考えた。もしあのまま働いていたら、JalanJalanの山森さんと会うことも、ここを見ることも一生なかったんだろうな。そしてあんな豊かな気持ち、感謝の気持ちを味わうことも・・・。



 翌朝、宿のダンナが呼びに来た。本当は朝食はつかないはずだったんだけど、サッカーチームの朝食がおわって、チャーハンが余ってるからと勧めてくれた。魚のダシが効いたようなおいしいチャーハンだった。コックさんが「カンポン(村)スタイルだよ」と教えてくれた。海が近いからこういう味になるんだなあ。ちょっと和風っぽい味付けが気に入って朝からおかわりしてしまう。すっかり満腹して、コックさんにお礼を言って、のんびりとクアラルンプールに戻ることにした。

・・・事件はそのあとに起こった。

 荷物をまとめて、宿のダンナに挨拶をし、バス停に向かって歩いていたら、いたんだ。また例の男。カリフォルニア日本人のベリー。どこで私をみつけたんだか、うしろから機嫌よさそうに「おーい。アリガトゴザイマス」ってやって来た。それを言うなら「おはようございます」でしょ。と思ったけど、めんどくさいのであまり刺激しないようにする。思った通り「展望台のシャトルに乗ったか。海が見えるぞ。きれいだぞ」ときたもんだ。

 私はこれ以上つきまとわれるのはイヤなので話を逸らそうとした。
「いつも新聞もってるね。なんでなの?」
「それはな、この写真をみろ。これがセランゴール州の王様なんだ。オレはこの王様のために働いてる。王様のことをアグンというんだ。わかるか。それにな、オレはミツビシとも提携を結んでる。トーシバとも提携を結んでるんだぞ。
 そうだ。お前は日本に帰ったらミツビシに電話をしてオレにロケットを提供するように言え。オレはミツビシには顔がきく。ベリーに会ったと言え。ロケットを提供してくれるはずだ。詳しく話すからとにかく展望台に行こう」
 やややや。やばそうになってきた。テンションがあがってきている。

「ごめんなさい、今日友達と約束があって、お昼までに帰らないといけないから。もうバス乗り場に行くのよ」
こうなったらどんな理由をつけても断らなくちゃ。私はウソ八百ならべた。すると
「いやまだいいだろう、あとのにしろ、バスはまたすぐ来るから」
などと言い出した。でも宿のダンナによればクアラルンプール行きは2時間に1本ってことだったゾ。冗談じゃない。何時間もつきあわされてたまるか。
「でも約束は変えられないから、行かなくちゃ。」
私は拒んだ。でもベリーはお構いなしに続ける。

「昨日はホタル見にいったのか。俺が連れていってやろうと思ったのに。
何も急いで今日もどることはないだろ。丘の上の景色を見ていったほうがいい。友達との約束は延期できる。丘の上にタダで泊まれるホテルがある。俺が用意してやる」
 だんだん機嫌が悪くなってきた。展望台のシャトルなんかに乗ったら最後だ。荷物が重いから走って逃げられないけど、いざとなったら助けを求めるため、パソコン捨てて走らなくちゃ。私はポケットをたたいて、後輩が餞別にくれた痴漢撃退用スプレーをたしかめた。顔にかけると咳と涙が止まらなくなるやつだ。いざとなったらこれで時間を稼いで逃げる!

「ダメだよ。約束だし、大きいバッグあずけてあるから」
といっても、私の言うことなんか聞いちゃいない。
「俺がお前の面倒みてやるって言ってるんだ」
 脅迫っぽい雰囲気になってきた。心臓の鼓動が速くなってきた。撃退スプレーの安全装置をポケットの中ではずす。かなりバス停の近くまできた。そこにバスが見えてる。クアラルンプール行きかどうかわからないけど、どこ行きでもいいから逃げ込め!
「私あのバスに乗らなくちゃ」
「いいんだ後ので」
もう手をつかみそうな雰囲気。とっさに身をかわして、
「ごめんねごめんね、さよなら」
ってバスのほうに走りだしたら、
「勝手にしろ。いっちまえ!」みたいに乱暴に片手をふるって行ってしまった。

 ホーッ。肩の力が抜けた。あぶないときに背中の毛が立つのは猫だけだと思っていたけど、自分もあぶないときは背筋が毛羽だつんだってことが今日わかった。アタマの中で鳴ってた警報機が鳴りやんで、まわりの、バスの音やひとの話し声が聞こえるようになってきた。
 片田舎のホタルの里で、こんなロマンチックな経験の後に、サイコの恐怖を味わうとは思ってもみなかった。

 幸い、来てたバスはちょうどクアラルンプール行きだったので、いそいで乗り込んで、ベリーに見つからないように席に身を沈めた。すぐバスが来てくれて命拾いしたって感じだった。よく見るとバスは昨日乗ったのと同じやつだった。運転手が私の顔をおぼえていたし、窓の同じ場所にガムがはりついていた。たった一度往復しただけで同じバスに乗り合わせてしまうくらい、ここのバスって本数が少ないってことなんじゃないだろうか。もしかしたらこの路線全体で2台くらいしかバスは走ってないのかもしれない。とにかくすぐ乗れて本当によかった。

 クアラルンプールで、荷物を預けていた宿に戻ると、宿のベンさんが日本語で「おかえりー」と迎えてくれて、やっと現実に戻ったような気になった。クアラルンプールからの一泊旅行。感動と恐怖がとなりあわせの、映画みたいな2日間のできごとだった。



参考:「クアラセランゴールの行き方」
プドゥラヤ・バス・ステーション24番ホームより141番「クアラセランゴール行き」に乗る。料金3.9リンギット。終点下車。
ホタルを見れる場所は、2キロほど引き返したあたりの「カンポンクアンタン」。タクシーもしくは宿の送迎サービスで行く以外交通手段はない。ホタル見物ボートの営業時間帯は午後8時から11時頃。舟は一艘40リンギット(1400円くらい)で4人まで乗れる。貸し切りにしてもいいし相乗りにしてもよい。ジュースとケーキがつく。ホタルを見終わってからクアラルンプールへの戻りのバスはない。市内からもツアーのバスが出ており週末は混み合うとか。絶対ツアーのほうがお手軽だと思う。カリフォルニア日本人「ベリー」に注意。

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