2本のビール
   電車に乗って彼の家に向かう間、私は堰を切ったように、つもる話を一気にした。クレジットカードが問題あるって言ってたのに、あのあとクレジットカードはどうなったの?とか、あれからやっぱりバリに行ったの?とか、バタム島に行ったらビールがとっても安かったからイスメットに2本買ってきたのに、戻ったらいなかったから全部飲んじゃったよ、とか。それから、彼の国トルコには1ヶ月もいて地震にも遭ったんだよ、とか、カトマンズでは教えてもらったトレッキング会社の客引きに会って、それがすごい女たらしで有名な男で、会うたびにしつこく誘われたよ、とか。

 彼はほとんどその間あいづちを打ってたんだけど、「メッセージも残さないで行っちゃうからさ」って私が言ったときだけ私の話を遮った。実は彼、シンガポールを出発するときサンディの宿の奥さんにことづけをいくつか頼んで出発したのだそうだ。私がバタム島に出発した翌日、彼のクレジットカードの問題は銀行側の手違いということがわかってクリアされたらしい。それでシンガポールにとどまる理由がもうなくなったんで、旅行代理店で「出発直前チケット」を調べていたら、その日の夕方出発のとっても安い便が見つかった。それであわててサンディの宿に戻って、私を含め宿にいた何人かにメッセージを残して出発したのだそうだ。
牧歌的な風景が広がる
イスメットんちの近所

 イスメットは、同じくバリへ向かうイギリス人の男の子と現地で落ち合う予定でいたから、彼あてのメッセージも頼んだらしいけど、結局約束した場所で落ち合うことはできなかった。
「それでも後日彼とは偶然再会できたんで、サンディの奥さんが全然メッセージを伝えてくれてなかったってことがわかったんだ」
と彼は言った。彼が黙って行ってしまった、って私がずっとずっと思い悩みつづけてたことの原因は、結局はサンディの奥さんにあった、というわけだった。

 だいぶ喋ってからおずおずと、
「でもさ、どうしてハガキくれなかったの?アンカラの家に夏休み戻るから連絡先教えるって言ってたじゃない?そのあとも連絡なかったから、スイスも来ていいかどうかすごい迷ったんだよ」
って訊ねたら彼は、
「いやね、シンガポール行ったときの休みが長すぎて、今年は夏休みはもらえなかったからアンカラには行かなかったんだ。このところは土曜もときどき働いて、年末休みを長くするために残業時間貯めてるぐらいで・・・」
と言ったあと、
「でも、俺はひとにハガキ書いたことなんかないんだ。俺の友達に聞いてみな?俺からハガキもらったヤツなんか誰もいないよ。会ったときスイスの住所と電話は教えたよね。俺が一度『来ていい』って言ったら来ていいんだって」
って言った。たしかハガキくれるって、言ったと思ったけど、私がちょうだいって言っただけだったんだろうか。だけど彼がなにかで気を悪くして連絡くれなかったわけじゃなかったことがわかって、私はほんとにホッとした。


イスメットんちの近所の家々
 彼の住むマンションはベルン中央駅から30分ぐらいのミュッセードルフという駅から歩いて5分のところにあった。ちょっと古びた感じの入り口から入るとき、私は少しだけ不安になった。彼は前会ったときスイスの家は広いからと言っていたけど男ひとりの所帯だからあまり期待はできないだろう。全体が広くても「足の踏み場」が狭い家で、同じ部屋に寝泊まりすることになったりしたらやばいかな、いやそれも運命だと思って、そういう展開になってしまったらハラをくくって一生スイスで暮らすか。などと、私は飛躍した想像をして気をもんだ。

 けど、ちょっと細い階段を上がっていって団地みたいな扉を開けて中に入って驚いた。入って正面に絨毯敷きの5mの廊下、左手にまず4畳のキッチンがあり、右奥に3畳のバス、左に6畳の書斎、さらに奥に8畳の寝室、そしてつきあたりに14畳かそれ以上の居間、道路沿いの窓の外は2畳のバルコニー。家具もテーブルセットやソファなどやや閑散とした感じにだけどきちんとそろっている。
「俺はいつも書斎で寝てるから、君は寝室のほうのベッド使っていいよ」
とイスメットが言った。すごい。立派なマンションだ。足の踏み場なんて考えていたのがばかばかしく思える。この家から足の踏み場をなくすにはみかん箱が30個あってもまだ足りないや。

 ただし入ってくるときにひとつ気になることがあった。表札に「I+T, Cavder」と書いてあったんだ。イスメットのイニシャルはもちろん「I」。そのほかに「T」のつくひとがこの家にいるってことじゃない?

 その「T」の主は、あとから彼に、
「どうしてスイスで働こうってきめたの?」
って訊ねたときに明らかになった。彼、実は里帰り中にアンカラで知り合ったスイス人の女性と結婚してスイスに来たのだそうだ。でも彼女とはその後離婚してしまったという。私が不躾にも、
「何年ぐらい結婚してたの?」
って聞くと彼は、
「5年ぐらいかな」
と言った。

 そうか、それでこんな広い家に住んでるのか。スイスに来てから1年でこのアパートに越してきて、それから9年スイスに住んでると彼は言っていたから、5年ぐらい前までってことになるだろうか。彼はこの9月に30になったとこらしいんで、計算すると20才そこそこの結婚ってことになる。
「どうして別れちゃったの?」
私はなぜか、イスメットが言い出して別れたものと思いこんでそう聞いた。すると彼はこう答えた。
「彼女はヨーロッパふうに考えるひとで、俺はトルコ流で考える人間だからね、それで意見が合わなくなって、彼女が出ていきたいって言ったからしょうがない、『君が出ていきたいならお好きにどうぞ』っていうしかなくってね。俺は彼女のことすごく愛してたんだけど」

 彼はつらそうには言わなかった。でも「彼女のことすごく愛してたんだけど」って言葉が、あまりにストレートすぎて、なんかズシっと重かった。彼は私がズシっと来てることに気づいたのかどうか、キッチンに行って、居間にいる私に、 「ビール飲む?」
って声をかけた。
「昼間っから〜?私はいらない」
と答えたあと、彼が遠慮するといけないと思って、
「イスメットは飲んでもいいんだよ」
って付け足すと、
「俺はもちろん飲むさ」
って彼は言って、でもやっぱりビールを2本もってきて差し出した。
「やっぱり飲もうかな。残したら飲んでくれる?」
と言いながら私が缶を開けると、
「2本飲みなよ、それでおあいこだから」
って彼はニカっと笑った。

* * *

 彼の家に荷物を置いてから食事をしに再びベルン中央駅に行くと、イスメットの携帯に電話がはいった。ちょうど友達がこのあたりでお茶してるらしいから、よければ一緒に食事に行くことにしてもいい?と彼が訊いたので、ぜひ、といって友達ふたりのいるオープンカフェに向かった。イスメットに、
「あれだけ近代的すぎるモノはキライって言ってたけどついに携帯持ったんだね」
と言ったら彼は、
「いや実は来月引っ越しして、これから会いに行く友達と部屋をシェアすることにしたんだ。それで電話は携帯1本に絞ろうかと思って」 って答えた。

 友達はどちらもトルコから来たひとたちでヒゲが濃く、片方の「変なおじさん」風のひとはイサ、もう片方の、瞳がグレーがかったインド顔のひとはパシャと言った。イスメットはたまーに会話の内容を私に訳してくれる程度で私は全然会話についてってなかったんだけど、あるときイスメットが「イキタネ」と言ったのが聞こえた。イキタネっていうのはトルコ語で「2個」っていう意味だ。「何がイキタネなの?」と訊ねたら彼は、
「シンガポールに戻ったときに俺にビールを『2本』買ってきてくれてたんだろ?」
って言った。イスメットは、私とどうやって知り合ったかを彼らに説明していたらしかった。
 彼はビールのこと喜んでくれてたんだ。そのできごとは、私のなかでずっと寂しい思い出だった。それがいま初めて別の面を現してすごくあったかい思い出に変わった。ベルンに来てよかった。胸のなかがうれしさでいっぱいになった。

 私がベルンにたどりついた日は、トルコ対ドイツのサッカー・ヨーロッパカップ出場権決定戦だった。彼はまた私に遠慮しながら、
「近所におじさんちがあって、今日はこのあたりに住んでる従兄弟とか親戚が集まってテレビにかじりついて応援する予定なんだけど、よかったら行ってもいいかな、君がイヤだったら家で観てもいいんだけど」
と言った。私は、
「もちろんイヤなわけないよ。行こう」
って言っておじさんちにお邪魔した。

 おじさんちには彼の従兄弟夫妻が2組、その子供が3人と、独身の従兄弟ハサンとその妹のテスリメちゃんとかもいてにぎやかだった。ほとんどのひとはドイツ語とトルコ語だけだったけど、イスメットのほかにハサンとテスリメちゃんが英語が話せたので「どこを旅行してるの?」とか、「何の仕事してたの?」とか次々浴びせられる質問に答えるのが忙しかった。
集まってた親戚の皆さん。
左から2番目がイスメット

 チャイをもらったときにトルコ語で「ありがとう」って言ったら、8才?ぐらいになる従兄弟の息子が「アァ?」って聞き返した。この子は外国人がそんなこと言ったのがおもしろくてしょうがないみたいで私がドイツ語で何か言ってみたりトルコ語で何か言ったりするたびにえっ?ってききかえしてニコリとした。


左)従姉妹のテスリメちゃんは若く見えるけど28才。
右)8才くらい?になる従兄弟の息子

 それからヨーロッパカップ出場決定戦の時間になり、お茶の間でテレビを見始めた。イスメットの言いっぷりから、親戚一同集まって全員で熱狂的に応援するのかと思いきや、熱狂的なのはイスメットひとりだった。イスメットはときにこぶしをあげて狂喜し、ときに額をたたいて落胆していた。結局ゲームは0:0で引き分け、すでに別の試合で2点多くとっていたドイツがヨーロッパカップにエントリーした。厳格なイスラム教徒のおじさんちなのでイスメットはビールが飲めず、やけくそになってチャイを何杯もおかわりしていた。今朝は出発が早かったので間もなく私は朦朧としてきて、12時頃におじさんちをおいとました。

 翌日は日曜でお休みだったから、イスメットにベルン観光に連れていってもらった。旧市街のほうに行って、BERNの名のもとにもなったクマのいる公園でクマがケンカしてるのを見物し、それからオープンカフェでマリファナを堂々と売ってる公園をとおり、教会を見て駅前に戻った。全然知らなかったけど、スイスもマリファナなんかはヤリ放題で、一応違法なんだけど、ドイツあたりのひとには結構パラダイスとして知られているんだそうだ。
クマ公園のクマ。
猿山みたいなとこにいる

 彼はそういう風潮がキライで、
「オランダもそうだけど、ここらのヤツはクレイジーだよ」
って嘆いてた。それから、イスメットが前回の旅行でネパール行きのチケットを買った旅行会社を教えてもらった。
 イスメットは前回の旅行でインドに行けなかったから、来年の年末にはインドに行って、それから日本とオーストラリアにも行きたいと言っていた。帰って働きはじめたら私はきっとまた東京にアパートを借りるから、そのときはうちに泊まっていいからねって私は彼に約束した。

 散歩してたら寒くなってきたので、近くのアメリカンスタイルのバーに入りビールを3杯ぐらい飲みながら、私のこれまでの旅の話とか、プログラマの仕事の話とか、仕事をやめた理由とか、シンガポールで話さなかった深い話をあれこれした。私が、
「私って仕事できなくてすごいストレスだったからね、辞めちゃった」
と言ったら彼は、
「俺はストレスがあるときには本を読むことにしてるんだ」
って言った。

 彼は6人兄弟の5番目だったんだけど、何年か前にお兄さんのひとりが亡くなってしまったから今は4番目なんだ、とシンガポールにいたとき聞いていた。そのお兄さんというのは、階段から落ちてひざを打ち、軽く見て医者に行かないでいたらそこから炎症をおこして、毒素が体中にまわって、入院して1週間で、亡くなってしまったんだそうだ。20台後半になるかならないかぐらいの若さで、年が近いからイスメットとは特に仲のいいお兄さんだったらしい。しかも、ちょうど時を同じくして彼に離婚の危機がおとずれた。

 彼にはそれらのできごとがとってもつらくて、来る日も来る日もそのことばっかり考えて、どうしようもなく落ち込んで、廃人になりかけてたんだそうだ。そしたら彼の従兄弟のひとりがやって来て、
「イスメット、そういうときは本を読め」
って、政治の本やら何やら、彼が奥さんのことや亡くなったお兄さんのことを思い出すきっかけに到底ならなそうな本を山盛り置いて行ったらしい。彼はそれを没頭して読んで、読んでる間つらいことは忘れて、そして時間がたつうちに辛さがうすれていって、立ち直った。それから彼はつらいときには本を読むことにしてるんだそうだ。
 強いひとだ。彼が発してる男っぽさとか、力強い印象っていうのは、彼がくぐりぬけてきたそういうできごとから生まれたものなのかもしれないなぁ、と思った。

 けど彼は、私が彼のこと尊敬のまなざして見はじめてることなんかおかまいなしだった。彼ったら、ひとが真剣に話を聞いてるっていうその時に、カウンターの正面のほうに座った女の人を見て、
「いい女だねぇ」
って言ったのだ。
「ああいうひと好み?」
って訊いたら、
「あぁ、好みだね」
って彼は言った。

 私がとなりにいるときにそれはナイだろ。
 そのひとは赤毛をまとめた、コロンボとかの脇役で出てきそうな、わりと平凡な女の人だった。私の背中のほうがチリッと焦げ臭くなった。チビの童顔は損だ、って、多分この旅に出て初めて、私は思った。

* * *

 翌日から彼は仕事だったけど、毎晩彼が帰ってくると、それから私たちはパソコンを開いて地図を見たり写真を見たりしながら夜遅くまで旅の話をつづけた。彼の職場は朝がめっぽう早い。彼は毎朝5時45分に起きて、まだあたりがまっ暗闇のうちから仕事に行かなくちゃいけないんで、深夜12時を過ぎるころには私は心配になって、
「寝なくちゃいけないんじゃない?」
って聞いた。すると彼は逆に私に、
「眠い?」
って聞き返した。私は、
「ううん。でもイスメットは明日も仕事でしょ」
って答えた。彼の仕事は結構力仕事みたいだったから、彼がまいっちゃうんじゃないかと心配だった。
「私はイスメットが出勤したあと昼まで寝ていられるからいいんだけど、イスメットはさ・・・」
と私が言うと、彼は言った。
「俺が人生でしなくちゃいけないことはたったふたつ。ひとつは税金を払うこと。もうひとつはいつか死ぬことだ。それ以外は会社にいくだ?寝るだ?そんなことしなくていいんだ」
と言った。なんて破天荒でワガママなひとだろう。彼はシンガポールで会ったときからなんとなくそういうとこをのぞかせていた。向こうが「一緒にチャイナタウンに行かない?」って誘ったくせに、最後の頃には「さて次はどこ行くの、僕のガイドさん」って言って私を困らせた。ここに来てからだって、私が料理をつくって「トルコ人って塩分とりすぎだよね」って言うと「あ、そうそう、塩がいるな」って言ってキッチンにとりにいって、ことさらたっぷり料理にふりかけた。たぶんでも、私はこういう頭わるいぐらいに頑固でめちゃくちゃなひと、結構好きなんだ。


広々したイスメットの家の居間
 彼は仕事から帰ってくると、私が晩ご飯の準備をしている間に、おもむろに腕まくりして、今月末の引っ越しに向けて荷物をまとめたりしていた。部屋にはときどき電話がかかってきて、マンション購入希望者が家の中を見にきたりした。彼は、
「あれこれ忙しくて悪いね、今月はほんとタイミング悪くってさ」
と言ったけど、私は彼の引っ越しがあと1ヶ月早くなかったことに感謝していた。だってもし引っ越しが今月だったら、イスメットとは連絡つかなくてもう二度と会えなかっただろう。

 イスメットは金属加工かなんかの仕事をしてるみたいで、変に手先に力がかかるものだから、右手の手首の上のへんに軟骨ができちゃったらしい。いま何かをにぎると痛むんで、年末あたり手術しようと思ってるんだそうだ。
「でも年末にかけて仕事が忙しくなるんで、上司が年末まで我慢しろって言ってるから年明けあたりに、いまやってる残業の手当とひきかえに休暇をもらって手術するかな」
とも言っていた。私が、
「同じ仕事をつづけていたら再発しないの?」
って訊いたら、
「一度手術すれば大丈夫」
って彼は言った。
「ずっとその仕事続けるの?」
って訊くと、
「あと10年後、30年後に見に来てみな。俺はまだこの仕事やってるって断言できるぜ」
って彼は張り切って答えた。

 それを聞いて、イスメットは、ずっとスイスにいるつもりなんだなー、と思った。
「生まれたトルコとか、育ったオランダに戻りたくはないの?」
っていったら、彼は、
「別に」
と素っ気なく答えた。彼は12才でトルコをあとにして、思春期をオランダで過ごしたけど、オランダの実家に帰ると頑固なイスラム教徒のお父さんと意見が合わず、ケンカばかりすることになるんだそうだ。最近では学習して、お父さんに「男なんだから髪は短く切れ」とか「車を買うときぐらい親に相談しろ」とか言われると、ハイハイと言いながらシカトしてるらしい。
「オランダに戻りたくないのって、お父さんから距離をおきたいんじゃない?」
ってきくと彼は、
「ありうるね。でも今度の里帰りまでに、髪は短くするつもりだけど」
と答えた。彼の髪は結んでるとわからないんだけど、おろすとほどよい巻き毛ですごいキュートなんで、
「それはもったいない」
と私は反対した。そしたら彼は、
「短髪も似合うんだぜ」
と、スイスに来た頃の写真のついた身分証明を見せてくれた。今よりだいぶやせていて、短い髪で、おだやかに笑ったまだ何も知らなそうな、二十歳の頃の彼がそこにいた。

 スイスにずっといる、と彼は言ったけど、彼のドイツ語は実際には完璧じゃぁないんだそうだ。彼は幼いうちからオランダにいたからフラマン語はかなりなんだけど、それも赤ちゃんときからじゃないから母国語というほどじゃない。でもトルコは12才で出てしまったから実は母国語のトルコ語ですら完璧じゃなくて、ときどきトルコ人と喋っててもわからないことがあるって言っていた。

 イスメットはどこのひと?彼はカッパドキアで私が撮ったトルコ国旗の写真をとても気に入って、これは俺の魂だ、と言った。でも彼はトルコに戻るつもりはない。たまに遊びにいくぐらいで、トルコのことはあまり知らない。


無精なのでヒゲは週に1回剃るだけ

 彼はどこの国のひとでもない。トルコ人だけどトルコ人じゃない。オランダ国籍があってもオランダ人じゃない。スイスに住んでるけどスイス人じゃない。なんか彼は風来坊みたいでかわいそうに思えた。


イスメットが気に入ったトルコ国旗の写真

 ところで、イスメットっていうのは、彼のおじいちゃんが2代大統領のイスメット・イノニュの名をとって名付けたものなんだそうだ。ちなみにトルコの初代大統領はケマル・アタチュルクといって、トルコの没落をくい止めたためにトルコ人のほとんどが崇拝するひとだ。話がその初代大統領のことに及ぶと彼は目を輝かせて、
「チャーチルですら、『あの男は1世紀にひとりの天才だ。あんな男と戦争して俺にどうせいっちゅーんじゃ』って言ったんだぜ。アタチュルクを知れば誰でも彼を尊敬するに決まってるんだ。彼のような天才がトルコに現れたことはトルコにとって本当に幸運だったんだ」
って言っていた。

「オスマン帝国時代、ギリシャだってエジプトだってトルコのものだったんだぜ。それがあっちからもこっちからも奪われて、トルコの国力は本当に衰えてたんだ。だけど、アタチュルクがいたおかげでいまの大きさまで国土をとりかえすことができたんだぜ」
って彼は言った。取り返す。オスマントルコはたしかに大きな国だったから、それを「失って」、そして「取り返した」、って思うのは無理ないことかもしれない。でも私はラフィとサッコのことを思い出していた。トルコが国土を「取り返した」ことによって、彼らの国のアルメニアから見ると、彼らの土地は「奪われた」ことになり、結局のところその土地はもう誰が領有しても、誰かが「俺のものなのに」って恨むことになってしまうんだ。ヨーロッパの歴史ってそんなことの繰り返しだから、悩んでもしょうがない。でも私は、なんだかわからなくなってしまった。

* * *

 こんなふうにして、彼とお喋りしたり、食事の支度をしたり、彼のおじさんちに遊びに行って彼のいとこのテスリメちゃんやハサンとインターネットの話で盛り上がったりして数日が過ぎた頃、私は彼の家を出発することにした。正直言っちゃうと、彼の親戚はみんなほがらかで離れるのは惜しかった。彼の家は快適だったし、それにも増して彼は明るく親切で、豪快で頑固で楽しくて離れがたかった。彼も「自分ちだと思っていつまで居てもいいぜ」って言ってくれていた。けど。月末に引っ越しをひかえて彼は忙しそうだったし、私の旅の予算を考えて彼は食費ばかりかときどき電車賃まで出してくれようとした。彼だって引っ越し前でお金がいるはずだ。ましてやその引っ越しは、来年の旅に向けてお金貯めるためのものだ。いつまでも甘えてここにいちゃいけない。そう思って勇気を奮って出発を決めたのだった。

 私がジュネーブ行きのチケットを買ってきた晩、彼はいつもより1時間くらい遅く帰ってきた。
「残業してたの?」
って聞いたら、
「いや、ちょっと街をぶらついて・・・」
って言って皮コートのポケットから何かをとり出し、
「記念にね」
と、彼は何でもなさそうにその小さな包みを差し出した。

 それにはSWATCHって書いてあって、開けると銀色の、ピっっカピカの腕時計が現れた。私が目を満月にして彼の顔を見ると、彼は、
「気に入った?」
って訊ねた。私が手首にはめてみながら、
「とっても。もったいなくて外でつけられないよ」
って言ったら、彼は目を三日月にして、
「よかった。一応これ新しいモデルだって、店員がね、言ってたよ」
って言って機嫌よさそうに時計の箱を指先ではじいた。

* * *

 出発の朝、暖房が効きすぎて喉がカラカラになって、目覚ましよりもちょっと早く起きると、隣の書斎のドアが開けっ放しで、イスメットがうつぶせになって寝ているのが見えた。彼は毛布からタンクトップの背中をまる出しにして、枕をかかえこむようにして寝ていた。

 サンディの宿にいたとき、2Fは扉もないドミトリーだったから寝てるひとが階段から丸見えだった。私が自分の部屋のある3Fから下へ降りるときふと目をやると、腰まで寝袋につっこんで背中まる出しにして、枕を抱え込んで寝てる男の人がいて、きれいな背中だなって思ったんだ。それがあとから思えばイスメットだった。あの背中を見たときから?チャイナタウンで三日月の目と向き合ってお喋りしていたときから?私はイスメットのことが気になっていたのかもしれない。どうしても会いたかったのも、それなのにヨーロッパにはいってから遠回りばかりしてどうしても連絡できなかったのも、そういう訳だったのかもしれないなあと、ふと思った。

 やがて目覚ましが鳴ってイスメットは目を覚まし、出勤の支度をしてイスに座ると、
「仕事はイヤだ」
って子供みたいなことを言った。イスメットが出勤するのと同時に彼の家を出て、ベルン中央駅まで送ってもらい、駅の喫茶で一緒にペストリーを食べて私はジュネーブ行きの列車のホームに向かった。

 彼とどういうふうにお別れしたか、ここじゃ言えない。とっても大事な思い出だし、ちょっと照れくさいから。ただ、ひとつだけ言えるとしたら、私はいつの間にか、抱きしめるお別れができるようになっていた。