ベルン駅の軒先で
   ヴェルサイユのユウコさんの家からイスメットに電話かけるって決めたとき、私ははっきりわかるぐらい緊張してたらしくて、通話がつながったのを見て取るとユウコさんはそっと部屋を出て私をひとりにしてくれた。電話がつながり、イスメットは私と気づくと、連絡待ってたんだぜ、いつ来るの?って言ってくれた。シンガポールで会ったとき、彼は「スイスに来たらうちに泊まりに来ていいよ」って言ってくれていたと思ったけど、あれからもう8ヶ月。彼がいまどういう生活をしてるかわからなかったから、おうちにお邪魔していい?とは聞けなくて、
「ユースホステルに泊まるつもりだから、そっちに行って落ち着いたら電話するよ。一緒にごはんでも食べようよ」
って誘うのがせいいっぱいだった。彼は楽しみにしてるよ、と言って携帯電話の番号を教えてくれた。シンガポールでエレベータのボタンも探せないで「近代的すぎる」ってぼやいてた彼が携帯電話。なんかイメージがわかなくて、イスメットは8ヶ月の間にすごい変わったんじゃないかと不安になった。

 でも、とにかくイスメットとは会えるんだ。イスメットのしゃべり方は迷惑そうじゃなかった。事務的でもなかったし、社交辞令って感じでもなかった。旅のはじめからずっと懸案事項だったイスメットとの再会。その宿題に結論を出すときが来た。で、ついにスイスに出発する決心をかため、翌日、つまり昨日、私はスイスのベルン行きの列車の席を予約したのだった。

 今朝の出発の時刻は7時だった。今日から2日間でのんびり週末旅行に出かける予定だったのに、ユウコさんとジャックはわざわざ私のために6時に起きて、パリのリヨン駅まで送ってくれた。ユウコさんは夕べのうちに焼いた円いチョコレートケーキを120度ずつ3つに切り、そのひとつを「朝ご飯にしてね」って持たせてくれた。ホームまで送ってくれたふたりに手をふってお別れして、そのほんのり甘いチョコレートケーキをほおばりはじめると間もなく、列車は滑るように走り出した。

 列車は寒々とした雨の国境を通り抜け、いくつかのトンネルを抜けた。田舎の小さな駅でフランスの新幹線「TGV」からのりかえ、古びた列車に移った。そして霧雨の山間をくぐりぬけて正午過ぎ、私はベルンに到着したのだった。正午すぎに着いたにしては、ベルン駅は想像以上に寒かった。ホームに降り立った私は荷物を降ろし、ユースホステルの紹介書をとりだしてベルンのページをめくった。私の持ってる本は7年くらい前に出版されたやつで、出発のときに後輩が餞別にくれたものだ。いまこの本は改訂されて「ヨーロッパ2000円の宿」っていうタイトルになってるけど、私のは一世代前のやつなので、「ヨーロッパ1500円の宿」っていうタイトル。この本によればベルンにあるユースホステルはたった1軒だった。電話番号を確認して、地図をチェックして、料金を目で追い、それから受付時間にさっと目をとおして、あっ、と思った。受付時間、午後5時から。5時。この霧雨のなか5時間つぶしてやっとチェックイン?


ベルン駅近くの教会
 イスメットに電話して、お邪魔させてもらおうか。でも躊躇した。会った当時彼は3ヶ月半も旅行してたぐらいだから、さすがにあの頃は彼女とかいなかったと思うけど、イスメットだって20台後半の男性なので、この8ヶ月で彼女ができたり結婚したりしてるかもしれないじゃないか。お邪魔したいって言ったら迷惑そ〜おにされたらどうする?いいよって言ってくれるかもしれないけど、奥さんとかがいてイヤ〜な顔してたらどうする?

 でもね。イスメットのうちに行ってみたくもあった。もしイスメットと晩ご飯1回たべるだけだったら、私のパソコンに入ってるこれまでの旅の写真の数々を見せたりすることもなく、旅の話に花が咲くこともなく、とっても他人行儀に終わってしまいそう。イスメットは私がこの旅で最初に出会った、最初に友達になった旅びとだった。だからこそ、その後の旅で私がどんなところを通ってどんなひとに会って、どんな事件があったのかすみからすみまでゆっくり話したいというキモチが大きくなってた。シンガポールで出会ったときに彼がそれまでの旅の写真を見せながら話してくれたように。

 ・・・まずユースホステルに電話しよう。小心者の私はユースホステルの営業時間に方針決定をゆだねることにした。私の本は古いんで、書いてある情報から営業形態が変わってるとこも何軒かあった。もしここのユースが昼間も受付するようになってたらユースに向かう。受付してなかったらイスメットに電話して、お邪魔させてってお願いしてみる。もし奥さんとかがいてイヤ〜な顔されても、ユースが開くまでの時間だけ押し掛ける。

 私はキオスクでテレカを買い、公衆電話のブースに向かった。ユースの番号を押して呼び出し音を数える。20回を2サイクル鳴らしてみて、一旦受話器を置いた。ユースは開いてない。サイはもう投げちゃったのだ。深呼吸して、それからイスメットの携帯番号を押した。中学のとき、好きだった先輩に電話したときのことを思い出す。そんなに緊張することはないんだ。彼が迷惑に思うかとか、奥さんいるかとかいう事実は私の電話口でのしゃべり方とか、努力次第で変わることじゃないんだから。ツー、ツー、ツー・・・間延びした呼び出し音のあとに、イスメットが電話をとった。

「イスメット?いまベルンに着いたんだけど、ユースホステルが・・・開いてないの」
私がこう言うと、私が『お邪魔してもいい?』って言う前に彼が言った。
「だから来ていいって言ったじゃない。いま中心街のへんにいるから15分で駅まで迎えに行くよ」

 私たちはツーリストインフォメーションの前で約束した。駅の中で、緊張をほぐすためにことさらに遠回りして10分を費やし、駅の外をむいてツーリストインフォメーションの軒先に立った。さっきまで凍えるぐらい寒かったのに、一気に体温が上昇してた。頬がほてってる感じがする。ジャケットの、ジッパーについてるヒモを上げたり下げたりしていたら、背後から黒い皮コートの男が近づいた。振り返ったら、みたことあるヒゲだらけの顔、三日月にほほえんだ瞳。ちょっとあのときよりもふくよかになったイスメットが右手を差し出していた。
ベルン旧市街にて