船が港についたのは午後3時頃だった。ザンジバル。その島はタンザニアの中心都市ダルエスサラームから船で数時間のところにある。リラックスできる雰囲気とか、スパイス農園を見てまわるスパイスツアーなどで旅行者に人気の高い島だ。
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サファリで意気投合した、ゴーさんと学生の玉井くん、私の3人はキリマンジャロにほど近い町モシを経て、バスを乗り継ぎ一緒にダルエスサラームにやってきた。モシではうまくすれば朝夕にキリマンジャロを拝むことができると、旅行人の富永さんから聞かされていたけど、そろそろ雨季の近づきかけているタンザニアの空は日中から厚い雲におおわれ、その勇姿を望むことはできなかった。
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 アフリカでは日本の救急車の中古車が バスとして走っているのをよく見かける
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そしてダルエスサラームに到着して数日。すでにマラウィのビザをナイロビで取得しており先を急ぐ玉井くんは、昨日のうちに先にダルエスサラームを出発しザンジバルに上陸していたけど、私とゴーさんはマラウィのビザをここで取得するため一日遅れの船で出発することにした。船の出発は正午。3時間半の航海だ。
船にのったら1階は豪華な座席だったけど有無をいわさず2Fにあがらされたので甲板席なのか?と思ったら、2Fはさらに豪華なソファ席だった。デニーズの7人がけの席みたいな、広いU字型のソファ席を、ゴーさんと2人で占領していたらしばらくして船は出航した。出航したらこの船、たいして波もないのにゆれることゆれること。気持ち悪くなって寝てしまった。
船のなかで係員がまわってきて、黄熱病の予防接種証明書を提示させられた。これは以前ザンジバルがタンザニアと別の国だったせいだ。タンザニアは、ザンジバルとタンガニカが合併してできたなのだという。港ではイミグレーション手続きがあり、なんとパスポートにスタンプまでおされた。どうして合併したときにそういう手続きをなくさなかったのか、不思議でならない。
明日のスパイスツアーに申し込みするために外にでた。玉井くんは今夜の船で早くもダルエスサラームに戻る予定にしていたけど、まだ町にいるはずだ。と思って映画館のある太い通りに出て見渡したら、玉井くんはすぐ見つかった。この島最大の港町ストーンタウンは小さい町とはいえ端から端まで歩けば30分はかかる。その町に来てすぐに見つかるというのは、それなりにたいした偶然だ。ゴーさんを知ってるひとと偶然エジプトで会ったり、ダマスカスで別れたノアとイスラエルで偶然再会したり、ツーリストの通る道は狭いからそういうことはあっても不思議じゃない。だけどそういう偶然はときとしてえらく当たり前の顔をしてとてもたやすく起きるから、ひとの間には縁があるってことを強く感じてしまう。
 教会
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今日玉井くんがダルエスサラームに帰る船までにはまだしばらくあったので、私とゴーさんは明日のスパイスツアーの申し込みを済ませてから、3人で一緒に町をうろついた。さとうきびジュースを飲んで、町の市場から海に向かってあるいていたとき、ふと見上げると右手に教会があった。ゴーさんが近づいていくと、入場料1ドルと書いてあるのが目にとまる。
Slave Chamber。奴隷房。その教会は奴隷市場のあとに建てられたものらしかった。
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奴隷がとじこめられていた地下室は2つの部屋があった。教会の階段を下って地下にあるその部屋を覗き込んで背筋がこおりついた。片方の部屋は10畳くらいしかなく、そこには男が50人くらいとじこめられ、もうひとつの20畳あるかどうかの部屋には女と子供が75人とじこめられていたという。部屋はかがめる程度の高さしかなく、床を縫って深い溝がほられており、溝には水がながれていたらしい。奴隷となったひとたちはそこで用をたしたそうだ。石で囲まれた室内の空気は淀み、壁には地面の高さに明り取りの細い窓があるだけで、外を覗い見ることもままならない。
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 ひとびとの閉じ込められた奴隷房
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 ひとをつなぐ鎖
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柱には、当時奴隷をつないでいたのと同じ形の鎖がかけられ、教会の管理人によって、どのように奴隷たちがつながれていたのかが説明された。鎖は梯子のように2本の長い鎖の間に短い鎖がわたしかけてあるようなかたちで、ひとびとはこの横鎖の間に頭を通し、動けないようにされていた。ひとりとひとりの間は数十センチ。この部屋の狭さ以前に、この鎖によってひとびとはまったく身じろぎもできない状態にされていたのがわかる。
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アフリカのこのあざやかな広い空の下のびのびと、平和に暮らしていた人々の生活が、ある日突然無残にひきさかれる。家族として暮らしていたひとびとは、わずか2mの通路に隔てられたこの二つの奴隷房に閉じ込められ、そして鎖につながれたら最後、家族と2度とあいまみえることなくあるひとは売られ、またあるひとは死んでいったんだ。
殺すなよそんな簡単に!半分も死なせるぐらいなら連れてこなけりゃいいじゃんか!
「奴隷」とか「奴隷たち」と、歴史の教科書や本で読むとき、それはあたかも「そういう運命に生まれてきたひとたち」とでも言うような響きがある。だけど、彼らは青い空の下で自由に生きていた人間なんだ。言葉もあれば文化もある。家庭もあれば生活もある。愛情も悲しみも痛みも喜びもある。肌が黒いというだけで、ただそこにいたというだけで、連れて来たり殺したりしちゃいけないんだ!どうしてそんなことがわからなかったんだ?誰が彼らを「奴隷」にして、売って、儲けようなんて考えたんだ?
奴隷房は、奴隷となったひとびとの苦痛と呻吟の染み込んだような、暗くしめっぽい室内だった。奴隷房で死んだひとびとの死体はキシワドゥインと呼ばれる場所から、川に投げ捨てられたそうだ。
ここに送られてきた黒人たちは、ケニア・タンザニアや中央アフリカから集められたひとびとだという。アメリカに多く移送された西アフリカの奴隷商人のルートとは異なり、これらのひとびとはアラブの国ぐにやマダガスカル、コモロなどに売られ、フランスによるさとうきびのプランテーション農園などで働かされたのだそうだ。奴隷を実際に「捕獲」し、売りさばいて富を得たのはこの地を支配したアラブ人や、アラブ人と交易をしてきたインド人たちだった。
 巨木のあとにたてられた祭壇
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リヴィングストーンがイギリスに申請して奴隷貿易をやめさせてからこの奴隷房は閉じられ、その上には教会がたてられた。教会の塔は、この島を支配していたオマーンのスルタンの命令で、スルタンの王宮の塔より低くつくるよう要求され、現在の高さに建てられたのだという。オークションの際、奴隷がつながれた巨木は悲しみの思い出として教会を建てるときに切りたおされてその場所は教会の祭壇となり、殺されたひとびとの流した血を忘れることのないよう、祭壇には赤い大理石が使われた。
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その後ザンジバルで黒人が主権をとりもどすと、多くの人々は報復としてアラブ人に次々と刃をむけた。奴隷貿易が終わってからすでに長い年月がたっており、殺されたアラブ人たちは実際には奴隷貿易を行ったひとびとの息子たちだった。
「奴隷貿易をしていたのは彼らじゃないじゃないか」
と、ときの権力者が言っても、黒人たちは「蛇の子は蛇」と言って彼らを許そうとはしなかった。殺さなければ、誰がこの痛みをやわらげるというんだ?とでも言うように。同じことをして返さなければ、どうやってこの苦しさをヤツらにわからせることができるんだ?とでも問うように。だけど、それは悲しみの歴史の繰り返しにすぎない。
ザンジバルの初代大統領カルメはそんな彼らに対し、正反対のことを言った。
「殺さず、お互いに結びつきなさい」
ひとびとが血で血を洗っているこの事態をみて、そううったえかけることができた彼は偉かったと思う。彼らは混血化をすすめる努力をし、現在アラブ人と黒人、そしてインド人は、混血をかさねて怒りと悲しみの歴史を埋め、以前のような問題はなくなったという。
でもそれは本当だろうか?混血をすすめなさいといわれて、恨みのあるひとと結婚したり、娘を嫁がせたりできるもんだろうか?そこには当然、安全を得たいアラブ人と、経済的に安定したいという黒人の思惑があっただろう。それは悲しい、悲しい歴史だ。その歴史を消すことは未来永劫できないだろう。だけどいまかれらはその歴史を克服して、この平和な島の生活をつかんだのだ。
この話をきいている間、教会では聖歌隊がパイプオルガンにあわせて歌っており、指揮者の男性のあきれるほど高い澄んだ声が、教会の高い天井にこだましていた。こんなにゆるがされる場所を見たのは久しぶりだった。
案内をしてくれたデニスは、丁寧な説明をしてくれ、私たちに長い時間つきあってくれた。彼は最後に、
「この島にはキリスト教徒がわずかしかいないので、この教会の運営は苦しいのです」
と、控えめな表現で訴えた。彼は強要しなかったけど、この場所は残されてしかるべきだと思ったし、この先もこの歴史が、ここを訪れるひとたちに伝えらていくように、私たちもわずかな寄付を募金箱に入れてきた。教会の庭には奴隷の像があった。この悲しみの場所を忘れないためにヨーロッパ人アーティストがつくったものだそうだ。
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 奴隷の像
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皮肉なことだけど、奴隷市場でこの町に蓄積された富はいまもこの町を豊かに保ち、アラブ風の町並みはたくさんの観光客を集めているという。首都から船で数時間離れた小島の町にもかかわらず、インターネットカフェがいくつもあることがそのことを証明していた。
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 説明をしてくれたデニス
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私たちは教会を出ると海岸に出た。海岸の公園には観光客むけのお土産店やシーフードを売る屋台が出始めていた。ここはシーフードが食べられるので有名な町だ。屋台でタコのアシを焼いて売ったりしている。それを楽しむため、私はエジプトで買ったシンガポール製のしょうゆを、ゴーさんは日本からの小包に入っていたわさびをバッグにしのばせていた。3人で魚やタコなんかを頼んで、しょうゆとわさびをつけて食べた。
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玉井くんは卒業旅行の急ぎ旅だから、今夜の船でアフリカ本土に帰ったら、急ぎ足でマラウィに下り、飛行機でナイロビに戻ってインド経由で帰国する。飛行機で帰れば、日本なんてたった一日だ。たった一日だけど、地図の上ではとても遠い。私はホームページからのプレゼント用のネックレスをお土産やで買い、日本に戻ったらジャストネットに送ってくれるよう玉井くんに頼んだ。玉井くんはこころよく引き受けてくれた。
シーフードをほおばり、この島の浮かぶインド洋に、ゆっくりと沈んでいく夕日を見ながらふと、とおーーーくへ来たなあぁぁぁ、と思った。歴史も文化も町並みも全然ちがう。ただ、今までにもそういうところをたくさん訪ねてきたけど、インドの山奥に行ったときも、モロッコの砂漠を見たときも、ヨルダンの遺跡をみたときも、こんなふうには思わなかった。
こんな遠くにいても、私たちはシーフードにしょうゆとわさびつけて、バーベキューの串を2本に折って、箸にしてたべている。どんなに遠くにいても私は日本人だ。日本人であることをひしひしとせつなく感じるほどに、いま、私は自分の心のなかで、日本から一番遠いところにいるなぁ、と、思った。
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 教会内部のステンドグラス
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