ムランジェに咲く白い花<後編>
   翌日7時半頃おき、パンで朝食をとってユカさんを見送った。ユカさんはゆうべから、
「宿ひきはらってこっちに来ちゃいなよ。どうせひとりでいてもヒマだからうちは何日居てもらっても構わないし」
と言ってくれていたから、私はお言葉に甘えてユカさんのチャリを借りて荷物をとり行くことにした。

 ホテルの看板にチャリをつなぎ、アボカドとパンを買ってホテルにもどる。それから日記用のノートを2冊買った。これからしばらくは手書きをせねばなるまい。

 荷造りすると、荷物はかなりおおかった。スポーツバックにはいりきらなくなり、衣類や風呂敷は出したままチャリに積もうとして奮闘していたら、宿の奥さんが出てきて手伝ってくれた。紙テープで積んだ荷物を補強したけど支える力はイマイチだ。奥さんがこれじゃダメだこれじゃダメだとしきりといい、女のひとをやってマーケットで黒いゴムひもを買ってきてくれた。数人でよってたかって荷物をつんでくれ、私のバッグはやっと安定した。マラウィのひとってこのマメさがあるのに、どうして病院の経営とか政府の運営とかそういうことになるととたんにいいかげんになってしまうのか、どうも不思議でならなかった。

 協力隊のひとは、毎晩6時頃に無線で点呼をしているらしい。ユカさんが帰ってきてから無線機のスイッチを入れると、マラウィじゅうに散らばったひとたちが次々に「ングルディ××です」「ブランタイヤ××です」と名乗っていくのが聞こえた。70人とは聞いていたけど、実際にひとりひとりの声をきいていくとこの小さな国にこんなにたくさんの日本人が働いてるのかと改めて感心してしまう。大半のひとたちは電話なんかもってないので、ささいな連絡とか約束とかを無線を通じて交わしていく。たまに、どこでトイレットペーパーが安売りだとか、じゃあ買っておいてなんていう話まで飛び交っているので、なんかほほえましい。

 ところで今日の夕食準備中、無線で点呼中にユカさんが別の地域の隊員にむかって、
「バラバラ殺人事件の件どうなりましたか」
といっていたので私はドキッとして耳をそばだてていた。無線ではそれ以上のことはわからなかったので、ユカさんが点呼を終えてからきいたら、それはおそろしい事件だった。私が通ってきたリンベの近くのングルディという町で、女性ばかり毎週5人、通算20人ほどが白昼首を切られて発見されるという事件が、このところあいついで起こってるのだそうだ。見つかった死体からは目がくりぬかれ、指と胸、臀部が切り取られていたという。

 政府の発表ではこの犯人が少し前に捕まったということでみんなほっと胸をなでおろしていたんだけど、ところがそのあとチタカリでも1回、似たような事件が起こったのだそうだ。これは白昼堂々ではなかったんだけど、なんでも夜道を歩いていた夫婦のところに男が近づいてきて、
「妻の分娩が近いので手伝ってほしい、男性は遠慮してほしい」
と言ったんだという。ここらじゃ妊婦が突然産気づいて、藪のなかでお産が始まるなんてのは珍しいことじゃないらしい。言われるままに奥さんのほうはひとりで草むらに入っていった。ところがいくら待っても産声も聞こえなきゃ奥さんも帰ってこない。おかしいと思って旦那が探してみると、ングルディの事件と同じ部位を切り取られた奥さんの死体が見つかったのだという。つまり旦那は奥さんが殺され切り刻まれてるあいだ、じっと道で待っていたというわけだ。猟奇犯罪というにはあまりに頻繁に、定期的に事件が起こるので、あるいは切り取られた目や手や胸は、移植用に輸出されてるんじゃないだろうかという憶測も飛んでいた。まさかこんなド田舎でそんな恐ろしい犯罪が起こっているとはつゆ知らず、私は日暮れ過ぎに電気の消えた町なかをふらふら歩いたりしていたものだ。聞いていて背中に寒気が走った。

* * *

 翌朝8時少し前におきたらユカさんはもう食事をおえたあとだった。起きて、おとといぶんから日記を書き始める。今日から紙日記だ。

 昨日買ったパンを食べしばらくしたらティーブレークでユカさんが帰ってきた。マラウィの労働形態に従って、彼女は毎日8時頃に出かけていって、10時にはもどってきて20分くらいお茶していくのだ。1時間働いて20分休み、また1時間働いたら昼休みっていうような、こんな仕事の仕方は効率が悪いけど、マラウィ人にはそれ以上の密度で仕事ができないからしょうがないんだそうだ。

 ユカさんが出ていくのを見送り、着替えてチタカリの町に向かった。今日は金曜で、週に1度の市がたつ日だ。この日だけはマーケットの衣類や食料の品揃えがぐんと増え、普段牛肉しか売ってない市場でも豚をさばいて売るらしい。ユカさんは平日休めないのでこの日に市に行くことができない。たまに豚も食べたいんだけどなかなか手にはいらないからねぇ、というユカさんのつぶやきを聞いて、今日は私がかわって買いに行こうと決めていた。

 てくてくあるいてハイウェイまで行く。途中ずっと私の前を歩いて、追い越しても追い越しても前に走りでて、しばしば振り返りつづけた小さい女の子たちがいた。ちょっと邪魔だなと思ったりしたんだけれど、彼女たちは自分の家のへんのわき道にはいっていくときにそれぞれ手を振って、私に「バイバイ」と言っていった。私に何も話しかけなかったけど、彼女たちは私「と」歩いてるつもりだったんだなあ、となんだかかわいく思えた。

 それからハイウェイ沿いでバスを待っていたら、男に話しかけられた。
「君さあ、昨日チタカリででっかい荷物もってチャリにのってたでしょ」
といわれ、
「どうして知ってんの?」
と聞くと、
「俺近くにいて見てたんだ。俺さあ、君と喋りたかったんだよ。俺、君みたいなヨーロッパ人が大好きでさあ」
といわれた。
「ヨーロッパ人じゃないよ、日本人だもん」
っていうと、だって同じ色だしという。ここらへんでは「ムズング」という言葉があって、「白いひと」という意味らしい。これにはアジア人もヨーロッパ人もいっしょくたにひっくるめられていて、彼らがその言葉を直接英語にするとどうしても「ヨーロピアン・ピープル」という言葉になってしまうようだ。私はこの国に来てから何度か「ヨーロッパ人」とか「白人」と言われていて、なんか不思議な気がしたもんだった。男は握手してうれしそうに去っていった。恐ろしい事件の話をきいて、またマラウィに疑いを抱きはじめていたけど、やっぱり大半は気のいいひとだと思った。

 バスでチタカリに行くとさすがマーケットデーだけあって、いつもよりにぎわっているので楽しい。適当なひとに、豚肉を売ってる場所を聞くと、ゆで卵ボーイ(バス停の近くなんかをうろついてゆで卵を一日売り歩いているこども)を呼んで「この子に案内させるから」といわれた。裏道を通るので少しこわくなり、防犯用のペッパーフォームを用意した。

 2、3分歩いてついたのは木のたもとにバナナの葉をひろげた肉やだった。案内のお礼にゆで卵ボーイから卵をふたつばかり買った。さて肉の上にはさらに葉っぱがかぶせられていて、かぶせた葉っぱをどけると、うわーーーんとハエがとびたった。飛び立ったハエはまたう゛わーーーんと戻ってきて肉の上に隙間なく止まった。日本で読んでいるひとは寒気がするかもしれないけど、暑いとこにある途上国なんかを旅すると、だいたい2、3週間ぐらいしたらハエは何とも思わなくなる。私にはこの、肉切り台も天秤もない、バナナの葉とナタみたいな包丁と肉しかない肉やが、もっとも原始的な肉やの姿って感じがして印象的だった。
豚肉を売るひと

 バナナの葉の上には切った豚肉少しと、片足がのっていた。朝さばかれた豚だけど、もう昼過ぎだから大半売れてしまったんだろう。豚肉は牛よりは安くてホネつきのもも肉1キロぐらいが100円程度だった。ユカさんがこの先も冷凍してときどき食べられるよう、私はまとめて3キロほど買った。

 ここらへんじゃ1日に1回は雨になる。雷がなりはじめていたのでミニバスでリクブラにもどり、歩きだしてほどなく病院いきのピックアップをつかまえた。ユカさんがかえってきてキャベツとトマトの炒め物にンシマで昼ごはんにした。このンシマっていう、とうもろこしの粉を水で練って熱した主食はとってもカロリーが高いんだそうだ。これはケニアに入って以来、名前は違うけどどこの国にいっても必ず食べられてる一番ポピュラーな主食で、レストランなんかで頼むと茶碗3膳ぶんぐらいどかっと出てくることがほとんど。私はこれを平均して1日1回は食べていて、慣れるに従い全部たいらげることも多くなってきた。そんなわけで、ユカさんちにある体重計に載ったところ、私の体重は前回アンカラではかったときよりも格段に重くなっていた。腰の痛みがなかなか治らないのも、もしかするとそこに理由があるかもしれなかった。

 ユカさんが再出勤してから豚肉の解体をした。豚っつーのはなんという苦労する肉だろう。骨のまわりに複雑に肉と脂がからみついていて、脂の外皮は堅く切りにくい。日本の豚肉はどうしてあんなにきれいに、骨もなくさらっと平らに切られているんだろう。冷蔵されているから切りやすいのかもしれないし、すごく優れた肉きり機があるからかもしれないとか、熟練したひとならこのぐにゃぐにゃした肉でもうまく切れるんだろうかとか想像した。豚肉と格闘して両手脂まみれになりながら、生の豚肉ってほんとはベーコンのにおいがするもんなんだなあ、と思った。

 夜ユカさんが帰ってきてから夕食準備をした。ユカさんは豚肉にとても喜んでくれて、今夜は「生姜焼き定食」を作ることに決定した。私が買ってきた小豆みたいな豆をトマト味に煮てつけあわせをつくり、なすを焼いてそのあと肉を焼いた。今日買った豚肉は意外にすごくやわらかくてジューシーでウマい!

 夜寝るまえに、私の薬袋をユカさんにみせて、ひととおりの役割を教えてもらった。私は出発前に結構考えて、会社の保険がきく間に病院に行ったりしていろいろな薬を処方してもらっていたし、出発してからも虫さされや怪我で病院にかかって、そこでもらった薬も多い。そんなわけでほかの旅行者に比べたら、薬の在庫についてはちょっと自信があった。

 驚いたことに私の持ってる薬のうちずいぶん多くが抗生物質だったり、皮膚科の万能薬と呼ばれるステロイド剤だったりすることがわかった。たとえばインドのデリーで買った下痢どめの片方は抗生物質だし、片方は原虫に効く類似の薬だという。スペインで虫さされのときにもらった薬は塗り薬も飲み薬もステロイド剤だった。

 抗生物質は継続的に使用すると体内に、抗生物質では対処できない耐性の菌を作り出してしまうおそれがあることから多用は避けたほうがいいとされているけど、かといってそれを怖がって日本の下痢止めなどを使っていると逆効果であるという話もきいた。というのは、海外、たとえば発展途上国なんかで下痢になった場合、おなかが冷えたとかよりは食べ物や水に菌がいたとかのせいである可能性が高いけど、日本の通常の下痢止めではそういう菌に対する殺菌力は弱い。それでも下りを止める作用だけは働くので、おなかに菌がいる状態で下痢だけストップしてしまう可能性がある。そうなるとおなかの中はあったかいので、菌をさらに培養してしまいかねないのだそうだ。

 ユカさんによれば、私がナイロビから服用しているマラリアの予防薬、ドキシサイクリン。これはやっぱり抗生剤で、こちらではSTDの治療薬としても使われているのだそうだ。それを聞いて、私は迷った末、ドキシサイクリンを飲むのをやめ、タイで買った1ランク弱い予防薬に切り替えた。これは近年薬に耐性のあるマラリア原虫が増えたことから効果はいまいちだけど、服用していれば発病しても軽症で済むことが多いと聞いている。マラリアの予防は薬を飲むだけじゃない。ハマダラ蚊に吸われさえしなければ絶対に絶対にかからない病気だ。薬の強さと怖さは紙一重。そこをわきまえて使うのが結構難しいといえば難しい。

 ちなみにユカさん自身はマラリアになったらすぐ気がつく知識があるし、治療できる環境にある。任期の2年間も飲み続けられるほど安全な、つまり副作用のない予防薬はないんで、隊員は予防薬を飲んではいないそうだ。そのかわりユカさんはおもしろい予防法を編みだしていた。あるときユカさんがイスに座って本を読んでいたら足のへんがもぞもぞする。そしたらユカさんの手入れしてない足の毛にからまって、ハマダラ蚊がもがいていたんだそうだ。それ以来ユカさんは足の毛をのばすことに決めている。ハマダラ蚊は体が重いので、あまり高いところを飛べないから、ひざ下の手入れをしないで、あとは毛がのびない足首のへんを靴下はいてガードすれば半袖着ていても背中出してても大丈夫なんだそうだ。

 それから、薬の解説をノートにまとめた。パソコンが復活したら、ユカさんプレゼンツとしてホームページの持ち物コーナーに薬のページを新設するためだ。私がどういう薬をどうやって準備したか、どこで手に入れたかとか、何に効くか、ってことを、興味あるひとに知ってもらいたいと思ったからだった。

 特にインドやネパールにいた頃は、マラリアの予防薬も抗生物質も、ときにはただの下痢どめすらもたずに旅をしてるひとがけっこういた。私みたいに、袋いっぱい薬を持って歩くのはいかにも現世欲が強そうでかっこわるい。でも私は、こんだけ持ってきてるおかげでおなかをこわして困っていたひとを何人も助けたし、自分自身も助かってきたから、「そんなに薬いる?」って言われたら自信もって「いる」と答える。自分の便から虫が出てきて何も思わないひとや、自分が死んでも誰も泣いてくれないひとでなかったら、薬はちゃんと持って出るもんだし、知識はちゃんと身につけて予防もするもんだ。そう思ったから、薬の一覧はいつか載せたいって思っていた。ここでユカさんに会って、見直しをすることができたのはとても幸運だった。ノートにまとめながら、内容に間違いがないか、ユカさんにひととおり確認してもらった。私の薬袋を吟味したあとユカさんは、
「足りないのは風邪薬と、胃腸薬か」
といって日本製のパブロンゴールドと胃薬をくれた。

* * *

 ここに来て数日。虹や夜の静寂の姿を見るにつれ私の山への思いはだんだんと強くなっていった。あの山の上には広い広い、平野ともいえる草原がひろがり、ところどころに美しい滝が姿を見せ、花々も木々も岩も別世界のように美しいという。だけど私の腰はというと、毎日のんびりしてるにもかかわらずどうもよくならなかった。いままでコンピューター関係の座ったきりの仕事をしていたにもかかわらず腰痛だとか肩こりだとかに悩まされたことがなかっただけに、これはどっか本格的に壊したんじゃないかと思って不安になった。
この山に登りたいのに

 ユカさんは次の週末にここらへんのヨーロッパ人のボランティア仲間とこんど7回目の登山の予定があって、よかったら一緒に登らないかって誘ってくれていた。私としても、場合によっては来週で期限が切れるモザンビークの通過ビザをフイにしても登ってみたいという気持ちはあったけど、ユカさんにに相談すると、
「あまり続くようだったら山はあきらめたほうがいい」
ってアドバイスされた。

 日曜にはとなりのオランダ人院長んちの黒犬ウッピーをつれて散歩にいき、1時間弱くらい歩いてもどってきた。腰の調子はよくなくて、かがんだりおじぎしたりには気をつかう。帰ったら私の煮たアンコでユカさんがおはぎを作ってくれた。

 週があけても腰の調子が芳しくなく、明日こそよくなってたら絶対ポーターの手配をしに行くんだ、と思っていても起きるとミシミシと腰痛が私の動作を妨げた。私はチタカリの町に行って買い物したり夕食のしたくしたりして一日過ごすことが多かった。夕方になるとユカさんが帰ってきて、夕食のあとはふたり向かい合って日記をつけて、そのあとはだいたい長々と話し込んだ。

「何年後かにはOLやってんのかねえ」
とユカさんが私にむかっていうんで、
「年末には多分もうやってるよ」
といったら、
「OLは似合わないから自分でなんか事業やったほうがいいよ」
といわれた。
「旅行者なんて、誰だって旅してるときはサラリーマンやれるようには見えないもんだよ」
と言いながら、そう言われたことは私の背中を押すような、そうはいいながらやっぱりOLに戻るんだと思うような、ユカさんのひとことは、複雑な感覚をわたしのなかに残した。

 ユカさんは週に1回ぐらい、ボランティア仲間と食事会をしてるらしくて、火曜の晩には彼女たちのひとり、オランダ人研修生のマイカの家にあつまって食事をした。私たちが行くとイギリス人のドーンとイタリア人のマルタがもう来ていて、パスタにかけるいいにおいのクリームソースを作っていた。私は今日ユカさんにかわって、ここに持ち寄るためのバナナケーキを焼いていった。

 料理はトマト・キュウリ・アボカドのサラダと、アボカドとたまねぎの新鮮なグアカモーレ、かぼちゃの葉とトマトのマラウィ風煮もの、それからマッシュルームのホワイトソースのかかったパスタだった。ドーンはベジタリアンなのでみんなが集まって食事をするときはベジタリアンフードを作るのだそうだ。しばらくお喋りして、10時近くなって解散した。

 ユカさんちに来てそんなふうに1週間過ぎたけれど、私の腰はどうもよくはならないようだ。このまま様子を見続けても山までは登れそうもなかった。マラウィのビザ日数も残り少ないし、モザンビークの通過期限ももうまもなく切れそう。数々の縁があってこそたどりついたこの山に、一歩も足を踏み入れることなくここを去ることは心残りだったけれど、ホームページもすでに2週間更新していないとなって、私は出発を決意しなければならなかった。

 出発前日。起きて朝食にパンをたべ、チタカリにいって牛肉1kgとインゲンや牛乳、たまねぎ、じゃがいもなどをかった。そして、帰ってさっそくシチューをつくりはじめた。肉をはてしなくにこんで、その間に昨日好評だったバナナケーキもつくった。ユカさんちの裏庭にはバナナの木がいっぱいある。数日前に警備員に頼んで切ってもらったまだ青いバナナがカゴにつめてあった。これを木につけたまま黄色くなるまで待っていると、外を徘徊してるバブーン(サル)にとられてしまうんだそうだ。

 傷のあるバナナは早く熟れるんで、黄色くなったやつから切ってつかった。バナナは10本以上ついた束が6こぐらいあって、かなり巨大なカゴ満タンだった。ここらへんは土地が豊かだから、シーズン中にはマンゴーでもパイナップルでもアボカドでも、あっちこっちからお裾分けがあって食費がほとんどかからないのだという。

 夕方ユカさんは帰ってくるとバナナケーキをみつけて喜んで紅茶を用意してくれた。彼女が、
「裏のあずまやでのまない?」
というんでバナナケーキを持って外に出た。私たちがおしゃべりしていたら、家を囲む高い木立の枝の間をバブーンの一族が大騒ぎしながら渡っていき、下で隣のウッピーがくやしそうにワンワンほえていた。

 日が落ちて家にはいり夕食にすると、ユカさんはシチューをものすごく気にいってくれ、
「こんなうまいビーフシチュー食ったことないよ」
と絶賛してくれた。
 ユカさんは夕食後、
「明日からまたひとりの生活か・・・」
とため息をつき、
「ジンバブエにいって腰治ったらまた戻ってくれば?」
とまでいってくれた。私も明日からまたひとり旅か、という気持ちだった。電源ケーブルのことがなければ、モザンビークのビザはすててマラウィを1ヶ月延長し、1ヶ月体力づくりして登山してもいいかと思ってしまうぐらいだった。


食卓をはさんで

 ユカさんが、
「8日も一緒にいたんで(もう他人とは思えないから)絶対無事にいってほしいねえ」
といってくれた。私も、
「ユカさんとここで知り合ったなんてウソみたい。なんか前から友達で、ユカさんがここに赴任したから訪ねてきたみたいな気がするよ」
って答えた。ユカさんが、
「また日本で会いたいね」
ってつぶやき、それから、
「スーパーで『日本の方ですか』っていわれたときの光景は忘れられないよ」
って言ったので、
「私も『なんでこんな国に!』って言われたのが忘れられないよ」
って言って笑った。ユカさんも思い出してクスっと笑った。

 ほんとはもっと名残をおしみたい気持ちだったんだけど、それ以上は言わなかった。気のせいかもしれないけどユカさんの瞳がなんかさびしそうにうるんできたように見えたから。それでもジンとかコーラをのみ、グレープフルーツ食べたりして一時ごろまで喋っていた。

* * *

 出発の日、7時すぎくらいに起きてゆうべのビーフシチューとパンで朝食にした。ユカさんがでかけてから食器を洗い、荷造りを済ませてユカさんがティーブレークに戻ってくるのを待った。10時にユカさんはドーンをつれてかえってきた。ドーンはこんど彼氏が遊びにくるので、ケニヤまで旅行するのだそうだ。旅行会社に電話して、飛行機の料金を確認していた。電話がめちゃくちゃ混線していて、会社の係の名前をきいたら3人ぐらいがいっせいに名前を名乗ったそうだ。

 今日は両親の結婚記念日だ。ドーンのあと私も電話を借りて実家に電話したら母がでた。2週間メールも書かなかったのでやっぱりそろそろ心配していたらしい。父にかわると、南アはエイズが蔓延していてアブナイらしいので気をつけて、といわれたので、
「あれはただ歩いててかかる病気じゃないから大丈夫だよ」
となだめた。マラウィだって30%の感染率なのに、知らぬが仏とはこのことだ。私がかけてるときも混線はひどく、呼び出し音が鳴ってるときにどこかで「この番号は使われておりません」て言っていたり、ピーポーパーという音がはいったり、誰かが喋ってたりでおかしかった。喋ってるのが日本語でなかったら皆目わからなかったことだろう。


ユカさん。職場の薬局の前で
 その後荷物をつくって薬局にいき写真をとらせてもらった。朝から曇天で降りそうだったけど、
「降りそうだね」
と言ったらユカさんは、
「降るとしても午後からだ。降る前にはもっと風が強くなる」
って言った。ここに住んで長いから、ここのことはよく知ってるなあ、と思った。

 握手して、
「マラリアに気をつけて、登山楽しんでね」
といって出発した。私はできるだけしんみりしないように振舞った。男っぽいしゃべり方してあんなに気丈そうにしてるけど、ユカさんはほんとはすごく寂しいんじゃないかと心配になったからだった。

 理科の先生みたいな長い白衣に身を包んだユカさんは、飾りっけ全くナシだったけど、はっとするほどキレイだった。茶色く透き通って、最初カラーコンタクト入れてるんじゃないかと思ってた瞳は実は本物で、まるで彼女の心の輝きを映してるように見える。男みたいな喋り方していても、化粧をしなくても、心が透き通っているから、何も飾る必要がないんだ。

 お互いの人生にとても共鳴した8日間だったから、離れていくのがとてもつらい。でもまるで男同士の友情みたいなのを感じていたから、涙なんかふさわしくないと思った。私はわざと元気よく手を振って、彼女に別れを告げた。
「じゃまた、日本で!」

 彼女はそれに応えて手をあげた。私はハイウェイへの道を歩きだした。