ムランジェに咲く白い花<前編>
   奇妙なくらいの偶然がかさなって、私はこの家にやってきた。

 ムランジェの町は、ブランタイヤからモザンビークに抜けるハイウェイに張り付いたようなとてもこぢんまりした町で、小さなマーケットとそれをかこむいくつかの商店からなっていた。ここの住民はえらく早起きで、到着翌朝6時半に外がわさわさギャーギャーいうので目がさめて、ホームページの整理をしはじめた。最初の晩、部屋の破れた窓に私が貼っておいた紙は、まもなくとりはずされてちゃんとしたガラスがはめられた。


野菜市場
 マーケットを歩けば、雑貨やはすべて同じものを売っているし、八百屋もすべて同じ品揃えだ。ハイウェイをはさんだ向こうまで含めてこの町のすべての通りを歩いてみても1時間かけるのはむずかしい。私はすぐに飽きてスーパーにむかった。2軒あるうちの1軒KANDODOを選んだのは宿から近かったというだけだった。

 そのスーパーで冷蔵庫のぞいていたときだ。私の視界の端に、日本人ぽい女性の姿が入った。リュック背負って短パンはいてる。旅行者だろうか、と思って声をかけた。
「日本の方ですか?」
彼女はちょっとおどろいた顔で振り返った。もしやこのひとが錦織さんの言っていた薬剤師さんだろうか。
「ここに住んでる方ですか?」
って聞くと、
「そう」
と彼女はこたえた。彼女はやはり錦織さんの言ってた薬剤師さんだった。

 こんどは反対に彼女から、
「旅行?」
ときかれた。
「ええ」
っていうと、
「なんでこんな国に!」
って言われた。『なんでこんな町に』だったらわかるのに、彼女が『国』って言ったから、不思議なインパクトが残った。
「この山を友達から勧められて」
って言ったら、
「ええーっ、でもこんな山知ってるひと日本にいないだろぉ!」
って言われたから、
「旅の途中で会ったアメリカ人の男の子が知ってて」
って答えた。

 彼女は男みたいな話し方をするひとで、ちょっとぶっきらぼうにも思えるけど、茶色っぽい瞳が印象的なひとだ。ムランジェ山の話を少し聞いたら、彼女はこの山にもう6回も登ってるそうだ。
「こんなにおもしろい山はないねぇ」
と彼女は言っていた。
 少し山の話をきいてから、
「このへんで働いてるんですか?」
って聞いたら彼女は、
「ここから2キロぐらいいったミッションホスピタルの薬局で働いてるんだ。よかったら遊びにおいでよ。うち泊まれるよ。ミッションだから男はダメだけど、女の子だったら泊まれるから」
といって、レシートの裏に「ミッションホスピタル 薬局 安藤ユカ」と書いてくれた。そして、
「こんど、遊びにおいでよ。急いでないなら。旅の話とかもききたいし」
といって、レジを済ませたあと、同僚らしいヨーロッパ人の女性と出ていった。

 昼近くなってむらむらっと山の頂上のへんを雲が取り囲み、かと思うとドザーとおもいきり雨が降り出した。雨がやんでから外に出て、とても奇妙な光景をみた。外に出たら山の手前に虹が出てるのだ。山までは15キロしかない。たった15キロ先からいきなり始まってる1000mの山を背景にタテに虹がたってるのだ。この山は、なんか不思議な山だ。不思議なインスピレーションを沸かせる山だ、と思った。

 表通りに出てもう一度ロンリープラネットに載っていた宿を探したけど、載っていた3つが3つとも見つからなかった。どういうことなのかわからないけどあきらめて部屋に戻った。

 そして翌日の朝。また6時頃に起こされてパソコンで書き物をしていたら、突然電源ケーブルのトランスが、プシューといって盛大にケムリをふいた。部屋中にイヤなにおいがたちこめた。あわててケーブルをパソコンからはずして、コンセントからも抜いた。さわってみたら手をおいておけないほど熱い。これはしばらく使えないと思って冷めるのを待つことにした。

 時間をつぶすため共同の洗面所で洗濯をしていたら、どうやら電圧が異常らしく、電球がバチといっていきなりわれた。お茶のためにお湯をわかしたら、コイルの湯沸かし器具も極端な電圧を受けて、いつもより倍もはやくお湯がわいた。電源ケーブルが冷めてから、壊れていないか心配になってコンセントに差したら、3分ばかり充電ランプがついて、そのあとランプは消えてしまった。電圧が異常だから拒否してるのか、ほんとにこわれてしまったのかさだかじゃなかった。

 その日はユカさんちに遊びに行こうかと思っておみやげにジンとかビールとかつまみを買って準備していたら、夕方になってすごく雲行きがあやしくなってきたので断念した。夜になって完全に停電になったので、部屋の中に3本もろうそくをたてて日記を書いた。外を見ると、真っ暗な村を照らすように星が鮮やかに輝いてる。でもその夜空をえぐりとったように黒い山がそそりたっているのがわかる。

* * *

 翌日は快晴だったので、とりあえずユカさんに今日泊まりにきていいか聞きにいこうと、午前中からミッションホスピタルに向かった。ユカさんの話じゃここから2キロくらいブランタイヤ側にいったとこだということだったから、歩いても30分くらいだろう。腰の痛みはまだあったけど30分くらいならなんとか歩けそうだった。
アフリカ〜!って感じのする側道

 ところがユカさんちへは30分じゃなかった。私はミッションホスピタルがハイウェイ沿いにあると思っていたんだけど、ハイウェイを1キロほど歩いたらリクブラというさらに小さい隣町に出て、ひとに聞けばホスピタルはさらに側道を歩いた先だという。側道は未舗装で、両側に山羊がちらほら草を食んでるようなのどかな農道だ。これを行けども行けどもミッションホスピタルは現れない。15分歩き、30分歩き、なんどもひとにきいてもつかなくてだまされてるんじゃないかと疑いながらそれでも歩いてたら、やっとそれらしい場所についた。ついたときには出発から1時間経っていた。つまり、4キロぐらいあったってことだ。

 ここは学校と病院と、さらに小さいマーケットからなるごく小さい集落だった。日本人の感覚で、病院ときくとどうも何階建てのビルと職員の寮みたいのがあるのを想像してしまうんだけど、実際には平屋だての何棟かの建物のまわりに職員の住宅が囲んでいるのがそのミッションホスピタルだった。

 薬局にユカさんを訪ねると、ユカさんは顔を出して、
「今日来る?じゃあ仕事おわる前ぐらいにきて家で待っててもらえばいいかな」
といわれた。そこで一旦荷物をとりにかえった。3キロ歩いてハイウェイに出て、そこからからヒッチしてピックアップトラックにのせてもらい、スーパーの前でおろしてもらって宿に戻った。

 出発するときも宿の部屋はキープしたままにした。私の荷物は多くて、1日ぐらいお邪魔するのにわざわざミッションホスピタルまですべて持っていくのはホネだったし、かといって受付にあずけておけるほど宿も管理がいいわけでなく、しかもここの宿は1泊の料金がたいした額じゃなかったから、部屋をキープしておくほうがコストパフォーマンスがいいと思ったのだった。宿の奥さんにひとこと言い、もうさすがに歩く気がしなかったのでミニバスでリクブラへむかった。

 リクブラから歩いて側道をいくとジープがのせてくれ、病院前へつれていってくれた。ユカさんの薬局をふたたび訪ねたらユカさんは忙しいのに奥から出てきて、私を家まで連れていってくれた。ユカさんちは薬局から歩いて3分ぐらいのとこにあった。高い木立にかこまれた大きな家の1/3か1/4ぐらいを占める二部屋がユカさんの家だった。

 ユカさんちは12畳くらいの居間と12畳くらいの寝室からなっていて、寝室には4台のベッドが収まっているけど、住んでいるのはユカさんひとりだ。居間にはソファと4人掛けのテーブルセットがあり、反対側の壁にくっついて冷蔵庫と電話がある。部屋の中央はだだっぴろくあいていてラグが1枚しいてあった。居間は1畳くらいのキッチンに続き、キッチンの一角には4つのコンロののったオーブンが座っていた。ここは歴代の職員が住んでいたらしく、キッチンの台の上には、先代の協力隊員の薬剤師さんとか、その前のイタリア人のボランティアが残していったらしい調味料がたくさんならんでいた。
居間のソファ

 ユカさんちには変圧器があったので、来てすぐ一度パソコンに電源をつないでみた。結果は、変圧器を通しても通さなくても、一瞬充電サインが灯るだけで、数分ともたずにそれは消えてしまう。変圧器を通しても使えないということは、「この地域の異常電圧のせいで使えない」という期待は薄い。どうやらIBMの代理店のあるところまで、復帰は待たなければならないようだ。ジンバブエのハラレで対処できるだろうか。でも、たとえIBMの代理店があっても、同じモデルのパソコンのパーツまでがあるかどうかはわからない。トランスは解体したり修理したりできるような仕組みに見えないから、買い換えなければならないだろう。南アですら、置いてないかもしれないぞ、と考え始めたら不安になってしまった。

 でも、逆に考えればパソコン自体の電源は入るし、いま現在貯まっている電池でちゃんと動いているから、本体壊れなかっただけよかったかもしれない。問題は、新しい電源ケーブルが手に入るまで、いま貯まっている電池だけで写真をとりこまなくちゃいけないということだ。実はタンザニアのムベヤにいるとき、デジカメの16メガのスマートメディアがこわれてしまい、パソコンにいれてもカメラに入れても認識しなくなってしまった。それで予備に持ってきていた2メガのメディアを使っているんだけど、それだとノーマルモードでも13枚ぐらいしか写真がとれず、かなり頻繁にパソコンに吸い上げをしなくちゃならない。それなのにパソコンの電池が限られてるとなると厄介なことになりそうだ。もし南アまでケーブルが手に入らなければその途中にある見所、たとえばビクトリアフォールズなんかはあまりふんだんに写真はとれないぞ、と思った。

 でももしインターネットマガジンの連載が続いていたら今頃どうなってただろ?ファインモードで写真は撮れないし、パソコンは使えないし、インターネットカフェもないしアクセスポイントもない。ということは原稿を送ることも写真を送ることもできないってことだ。エジプトで連載が終わってなかったら、私はアクセスの確保のため、それこそゴーさんと一緒でケニアから南アまで1ヶ月でくだらないといけなかったかも。そう考えると、私はやっぱり運がよかったと考えるのが妥当だと思えてきた。紆余曲折あって私がここにいるのは、たぶんいまパソコンも電話もインターネットも抜きで私が知るべきことがあるんだろう。

 5時頃ユカさんがかえってきて夕食の準備をはじめた。ユカさんは毎日朝・昼・晩自炊してるのだそうだ。市場でナスをかってきたので、ユカさんの秘蔵のひき肉とナスでマーボナスふうの料理、それからかぼちゃといんげんで和風の煮物、ごはん、それから私がもってきたポテト&肉、サラダ、と豪華な食事だった。

 ユカさんが初対面の旅行者の私に「泊まりにきていい」って言ったことについて、私は少し驚いていたんだけど、聞いたらユカさんはいままで旅行者を泊めたことはなく、たまにお客があっても協力隊仲間とか、隊員を訪ねてきたご両親とかその程度だそうだ。第一、旅行者自体がこんなところにはめったに来ない。いままでにも日本人旅行者なんてブランタイヤで一度会ったぐらいで、そのひともマラウィは見るところがないから「タンザニアからジンバブエに向けてするだけ」と言っていたという。ムランジェはたしかにロンリープラネットに載ってはいるけどマラウィの中でも地味な観光地だし、マラウィ自体が東アフリカの中では非常に地味な国だ。そんな国でムズズとかンカタベイとかンコタコタとか、リロングウェとかブランタイヤとかムランジェとか、そう何カ所も移動してゆっくりしていく旅行者は非常に稀なのだそうだ。ユカさんが「なんでこんな国に!」って言ったのはそういう背景があったようだ。

 ユカさんは私より1こ下の1970年生まれで、錦織さんたちと同じときに協力隊に志願し、3ヶ月の訓練機関を経てマラウィに赴任し、18ヶ月が経ったそうだ。協力隊の任期は2年間なので、今年の末までマラウィにいることになるという。

 実をいうと、私も出発する半年くらい前、いまにもはじけてしまいそうだった頃、協力隊の説明会を聞きにいったことがある。見たことのない国に行き、その国の開発にたずさわったりひとを助けて人生の2年を費やすということにはとても惹かれるものを感じた。ただ、どこの国に派遣されるか参加の時点でわからないということや、プログラマとしてはみだしてるのにその職種で応募して現地で使いものにならなかったらどうしようという心配もあったりして結局やめたのだった。

 ユカさんは高校の頃に初めて協力隊のポスターを見ていつかは自分も、と思っていたけどその時はまだ自分が将来どんな仕事をするかとか、想像もできなかったという。だけど薬剤師になって、キャリアも順調に積んで、ある程度ひとりで業務がこなせるようになったとき、ふたたび協力隊のポスターが彼女の目にはいった。彼女はその回の募集に応募し、何倍の選考を通過してマラウィに派遣された。

 ちなみにマラウィには今日現在70人の協力隊員が活動しているそうだ。アフリカでは現地のひとたちの間に国の開発や発展のための知識がまだまだ不足しており、自国のひとたちを海外に派遣して学ばせるっていう経済的な余裕もないことから先進国からのボランティアを要請して、彼らによって国内に知識を広めるという方法をとってるらしい。

 経済的な余裕がないといっても実際に国を仕切ってる政府とか大統領なんかは非常にお金持ちで、日本人からみても「えっ」というようなリッチな生活をしてるそうだ。大統領の仕事っていえば、外国をまわって援助をお願いすることと私腹を肥やすことといっても差し支えないぐらいで、そんなことぐらい誰にでもできる。選挙があると、「いまの大統領はガメツイからもっといいひといないか」と思ってしまうけど、新しいひとがなったらまず自分の私腹を肥やすことから始まって、つぎに親戚一同を豊かにしてあげて、さらに友達とかその他関連のひともリッチにしてあげて、というプロセスが待ってる。もちろんユカさんに選挙権はないんでそんなこと言う立場にないけど、「どうせ私腹を肥やすだけなんだから、新しいひとがなるぐらいだったら、いまの大統領のままでいいや」って思ってしまうそうだ。

 協力隊員の生活というのは、私はもっと日本政府からふんだんに生活費が出てかなりリッチなもんかと思っていたんだけどそれはとんでもない。家は用意されるけど、生活に必要なもの、たとえば家具だの食器だのは来たときに自分でそろえなくちゃいけない。ユカさんはここに来たときに前任者から家財道具一式、自費で買い取ったんで、やっぱ結構な出費になったそうだ。ここでの生活費は月々なにがしか出るけど、それはほんとに生活費ぎりぎりなんで、贅沢する余裕はない。ユカさんちの近くには飲み屋も街もないから贅沢のしようがないけど、都市に住んでる隊員はなにかとお金の飛びやすい環境にいるからいつもピーピーしているとか。

 協力隊に参加したひとには帰国後、派遣中の1ヶ月あたり9万円の社会復帰準備金が用意されてるので「結構待遇いいじゃん」と思ったりもしたけれど、実際には出発前に自分でためたお金を切り崩しながら生活している2年間だから、その準備金がもらえてなんとかペイするぐらいかなと彼女は言っていた。協力隊員はそんなこんなで、へたすると現地のひとびとよりさらに節約した生活を送っている。あるときユカさんがほかの隊員を招いて家でごはんをつくってたらほかの隊員が、
「安藤さんニンジンの皮むいてるんすか!?もったいないそんなのむかなくていいっすよ!ニンジン高いんだから!」
と言われたそうだ。そのぐらい貧乏な生活を送っているってことだった。まだ日本円勘定が抜けない私は町では毎日1回レストランでビーフの煮込みとンシマの定食を100円くらいで食べていたんだけど、それすら、
「結構高いからねえ」
ってユカさんが言ってたのをきいて、うーん、かなり厳しいんだなあと思った憶えがある。

 ユカさんの病院では、日本からのボランティアのユカさんのほかにイギリスからのボランティア、アメリカ人の医師、オランダ人の研修生など、各国から派遣された医療関係者が働いてるという。そのなかでユカさんの仕事っていうのは、医者が処方した薬を出すだけかと思っていたけど、ここではそれだけじゃなく、言ってみれば自分は病院のポリスだ、と彼女は言っていた。日本での薬剤師の立場っていうのはかなり弱く逆に医師の立場が強くて、どう考えてもこの症状にこの処方はおかしい、と思っても、別の処方なんか提案しようもんなら、
「君は私の診療にケチをつけるのか!」
と追い返されるのが関の山なのだそうだ。だけどここの病院では、ただ診療すること以上に、途上国の医療が円滑にすすむよう現地スタッフを教育することが大きな命題なので、病院の経営自体にかかわってくる薬剤師の立場っていうのが非常に重要なんだということだった。

 ここじゃ政府同様、病院にしても何にしても、なんらかの利権に携わってるひとたちっていうのは立場を利用してもうけることがまず頭にあるから、たとえばあるときは現地人医師がサクラの病人をやとって、やたらにたくさんの薬を出させようとしてることがわかったらしい。ここはミッション系の病院なんで診療費が格別安い。その安い診療費で大量に処方させた薬を、マーケットで売ろうって考えなのだ。ユカさんは処方箋をみて、こんな大量の薬は必要ないといって何度か訂正を求めたらしいけど、結局その医師の行状はおさまらず、病院のお金を何度かネコババしたので結局医師は病院から辞めさせられたそうだ。

 ユカさんが休むと途端にスタッフはだらけて仕事の進みがわるくなり、知り合いに頼まれるとイヤといえず、内緒で薬を横流ししてしまったりもするようだ。ただでさえ先進国の援助でぎりぎりでやりくりしている薬の在庫だ。在庫が足りなくなれば、別の地方の病院に勤めている隊員に連絡して在庫を回してもらったりしてかき集めた薬が気づいたら一気になくなっていてがっくりきたこともあったそうだ。

 薬だけでなく、病気の種類も日本とこの国じゃ全然違うのだという。貧しく死亡率が高く、子だくさんのこの国じゃ、親は子供に食べさせるものがあったら自分が食べるという状態で、生後何ヶ月って赤ちゃんが栄養失調でおくられてくることもある。肺炎も多い。肺炎が多いっていうのは、言い換えればエイズの感染率が高いというのと同じことなんだそうだ。エイズで免疫力が落ちたひとたちはだいたい発病後には肺炎にかかって死んでいく。この国のエイズの蔓延はすごく、病院にきて検査したひとだけで30%がHIV陽性だという。

 先進国の手伝いもあって政府はエイズ蔓延を防ぐキャンペーンに力をいれている。たとえばマラウィでは大きな町には何枚か政府推奨コンドームのでっかい看板があるし、たまにその柄の商店すらあるぐらいだ。このコンドームはチサンゴっていうメーカーなんだけど、3個いりの1ケースがたったの7円!けど、エイズを含むSTD(性感染症)の拡大に歯止めはかからない。貧しいマラウィじゃ、たった7円だって出せるひとは少ないのだ。

 それにマラウィ人の姿勢自体にも問題はある。マラウィでは、学校のひとクラス(これがなんと200人!)の中で子供が月に2人も死んでしまうなんてのは当たり前のことで、人々は誰か死ぬなんてことは何とも思わない。そりゃあ親や関係者は泣き叫んで葬式をするけど、それが過ぎればケロっとして「死んだ子の年を数える」でもない。子供なんか5人も10人もいるし、経済的に余裕がないから、そんなこと長々悲しんでるヒマもないのだ。家族が死んだからといってこの状況を変えようという原動力に結びつかないところがやっぱりマラウィの進んでいかない理由なんだろう。ユカさんが赴任してきてからで、病院スタッフの葬式がすでに5回。これが当たり前だと思ってるから、いくら言っても変わらないのだそうだ。

 協力隊員のなかにも、集まって話すとたまに、
「さあ、みんなで手をあわせて一斉にこの国から手をひこう!」
って冗談で言うひとがいるそうだ。いくら教えても協力しても自分の力で立ち上がる気なんかなくて、
「いいんじゃないの?先進国が出してくれるんなら出してもらえば」
ってよりかかっている彼ら。先進国が手をひいたらひいたで、彼らは彼らなりの基準で満足する生活を送れるんじゃないかとすら思えてしまう。病院の見張り番として派遣されてきて、逆にうるさがられるぐらいなら、自分がここにいる意義は何なのかなとたまに考えてしまうこともあるそうだ。

 だけど、ユカさんがここにいて、薬の見張りをしていたからこそ、助からなかったはずの命が助かっていくのを見たとき、医療従事者としてここに来てよかったとしみじみ考えることもある。誰が感謝してくれるわけでもない、誰にほめてもらえるわけでもないけど、ユカさんは自分の中で納得できるだけの意義を見つけて、やっぱりここに留まっている。

 夜おそくなって、ユカさんちに電話がかかってきた。この近所の独身者で電話を持ってるのはユカさんひとりなんで、界隈に住むボランティアの女の子たちの彼氏はこぞってユカさんに電話してきて取り次ぎを頼むのだそうだ。今日の電話はオランダ人のマイカあてで、
「15分後にもう1回かけて!」
と頼むとユカさんはあわててマイカの家に呼びに行った。ちょっとしてオランダ人とイギリス人の女の子がきた。まもなく彼氏からまた電話がかかり、喋りおわってから彼女たちは少し話しをしていった。マイカの彼氏は心配性で、彼女がここに来てる間に強盗に遭うんじゃないかとか暴動に巻き込まれるんじゃないかと心配でたまらないのだそうだ。彼女は研修期間が終わったら1、2週間ここらへんを旅行してから帰国しようと思っているけど、彼はそのプランに大反対。そんなこと話したらいますぐ飛んできて手をひっつかんで国につれて帰られちゃうわとノロケていた。

 ところで、彼女たちと喋っていたとき、私が泊まってたのはムランジェではなくチタカリという集落であることがわかった。道理でロンリープラネットに載ってた宿ひとつも見つからないわけだ。いや、みつからなかった時点で当然気づくべきだった。ムランジェはバスでもう2キロほど行ったバス発着所のあるへんをいい、そっちも町の規模としてはチタカリと似たり寄ったりだけど、一応銀行とかもあるのだそうだ。

 それからもうひとつわかったことがあった。実は先週末ブランタイヤでの祝典にユカさんは行かなかったらしい。私が初めてスーパーで会ったとき「錦織さんたちに会った」と言ってもユカさんが「ああ聞いてる聞いてる」とは言わなかったから、錦織さんたちユカさんに言ってくれるの忘れちゃったのかなと思っていたんだけど、実は先週末ユカさんは熱を出してて、祝典どころじゃなかったらしい。

 そう考えると、たまたま行ったスーパーで、たまたま来ていたユカさんと会えていまここにいるのは実に驚異的な偶然に思えてしまう。私は錦織さんたちと会ったとき、ムランジェの町なかに病院があるもんだと思ってばかりいたけど、病院は実際にはムランジェからは6キロぐらい離れた側道の先だった。しかも私はというとムランジェじゃなくチタカリをすっかりムランジェと思いこんで泊まっていたんだ。ユカさんがチタカリのスーパーに行くのなんて、2週間に1度かそこらのことで、つまりこれらの条件じゃ、たとえ錦織さんたちがユカさんに会って話してくれていたとしたって、ほんとなら会えるはずのなかった2人だったんだ。
朝は日がはいり明るい居間